2021年01月01日

年頭に読書に関する考察

 新年を迎え、愛読している藤原正彦氏の文から拝借する。我が国は70数年前の大東亜戦争によって大きく国の成り立ち、形が変えられてしまったように感じます。
 歴史を鑑みるとき、いつも国の方向を決めてきたのは学問でありその学問を習得しによって人々を導いていった「教養層」という人たちでした。
特に「国は富んでこそ国家なり」といった明治の思考回路は経済界において「渋沢栄一」という稀有な人物の登場があり一方で「岩崎弥太郎」をはぐくみ、論壇に於いての「福沢諭吉」を明治の時代というステージに載せたのであります。
 さて、昭和の敗戦体験はいかなる教養人を輩出させたのでありましょうか。
それは、1945年から970年の間に大学を卒業した人々です。
 彼らは、80年代のバブルをこしらえ、破裂させその後の米国の要望どうりに新自由主義をがむしゃらに推し進め20年以上に亘るデフレ不況へと国をミスリードしてきた年代の人たちです。
 こうして戦後の教養層はたかが経済のために かつての日本にあった穏やかな社会や人々の思いやりや絆をずたずたにし国柄ともいえる諸々の情緒や形、様式の中にある美しさなどを徹底的に傷めつけてしまいました。
 戦前における教養層において戦中戦後を眺めてみるとそこには旧制高校的な西洋生まれの哲学や文学に傾いた教養というものの本質が明らかになってきます。
それは文明開化以来の西洋への劣等感に根差した西洋への憧憬、さらに言えば西洋文化への跪拝に過ぎなかったのではないかという事です。日本古来の形すなわち古神道であり武士道精神であり儒教精神、惻隠やもののあはれなどの情緒を忘れたこれまでの教養は、脳の先っぽにしか存在しない実体感も生活感もないものだったといわざるを得ません。これらの借り物の教養(西洋的な)は薄っぺらい根無し草のようなもので国難(困難)にあたって何の力も発揮できないひ弱な存在だったのです。

現代の日本を見渡してみるとこうしたひ弱なエリートもどきたちが引き起こしている現象はあらゆる場面に見ることが出来ます。
日本人としての形を忘れた葛藤無き教養人は戦後のGHQ史観に流され左翼思想に流され、今や新自由主義やグローバリズムに流されています。・・・・コロナ禍はまさしくグローバリズムの落とし穴でもあり人類に対する警告かもしれません
ひ弱なエリートもどきの特徴は「上滑り・虚偽・軽薄・国家意識の欠如」などであり戦後の学問もどきに翻弄された哀れな人達であろうと思う次第であります。
 これらの人々のモデルを探そうと思わなくとも日々マスコミに登場している人々を見ると一目瞭然であります。体系化され中半押し付けられている暗記、前例等を教育と勘違いしている輩が活動しているあらゆる業界を知ればよかろう。
 義理人情や、忠義・名誉・欲望・勇気・惻隠・赤心・正義・愛と慈悲などを表現している大衆文学の方がよほど教育に役立つと思う次第です。
 舶来の教養もどきを葛藤もなく身に着けた世代は日本という根がないため、自分たちの獲得したものが西洋思想に発した借り物であることに気付かずその危うさに気づきもしませんでした。結果として世界の中の日本としての立ち位置が不明のままであるから日々発生する社会現象に対して大局的に見ることが出来なくなってしまうのです。
 教養とは知識の積み重ねなんかではなく、原因結果を表している歴史から学び未来をの原因を創っていくことのできる力を持っていなくてはならないのです。
 現状は政治家は次の選挙で勝つこと、官僚は自らの省庁の権益を拡大すること、財界人は企業の利益のためにという情けない価値基準を第一義としてるように見えます。
 多くの人が「自分さえ良ければいい」といった大自然の法則に反しているということである。
 自然はすべてお互いさまで成り立っていることを知ることが重要なポイントです。

posted by 筆文字や隆庵 at 16:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする