多くの人たちは、日々幸せな日々を送るには物質的な欲望を満たすことに注視しているようです。
その為に「金銭を稼ぐための仕事」をしていることを否定することはできませんがそれによって
仕事そのものを経済的な立場からしかみない人たちが増えてきたような気がします という傾向が表しているのが昨今の「働き方改革」などという国会での論争や「同一労働同一賃金」などの話
そもそも昔から日本は資源がないといわれ、外国から仕入れたものに付加価値を付ける、つまり
働くことで収入を得ていたわけで今もその根本は変わらないと思うわけです
働くとは「はたをらくにする」といった心構えで日本式のQC活動を支え世界に名だたる技術国家という立ち位置を築き上げたのも事実であり国の誇りでもあるわけです。
いつの間にか西洋式の労働観が輸入され週休二日から週の労働時間の制限等が我が国を支える中小企業経営にひずみを作ったのかもしれません。
西洋と日本の労働観の違いは一体どこにあるのでしょうか
これを考えてみた時、両者の「宗教観」の違いによるものだろうと推測されます。
聖書によるとアダムとイブの物語で禁断の林檎を食したことから 仕事は怒りの神から罰として与えられたものと位置づけられたという寓話が示すように彼等にとっては仕事から早く解放されたいといった意識があるのではないかと思うのです
一方日本においては「神道」があり八百万の神々がなそうとしている仕事の手伝いをすることであるので仕事は喜びだと感じていたはずです。
そうした日本の伝統を無視して金銭だけにこだわらず「人々のお役に立とう」といった高邁な精神を忘れた仕事は我が国の将来を危うくさせるのではないかと危惧しています。
今一度もう一度考えてみたい題材です
2021年02月27日
2021年02月23日
言葉情報発信・・・
人が言葉を発するとき、発する以前のこころの在り方が問題となります
心で思ったことの中で 怒りや不平不満 愚痴や優越感 劣等感などといった自己を中心とした思いから発せられる言葉は、音として空間に表現される時に黒い霧のようなものが張り付いているということを知りましょう
逆に思いやり、愛と慈悲、感謝の言葉などには黄金の光の粒子がその音に張り付いていきます
前者は聴いている方に不調和を
後者は聞いている方に調和と安らぎを与えることになります
前者の周りの環境は不調和となっているわけですから 善男善女はあまり近づかないようにします
だから、情報も正確には伝わりません
だから、何か事を起こす時に必要な情報が不足することになります
結果として人のいうことを聴かなくなり物事は失敗するということになります
常に思いやりや愛と慈悲の心構えの方にはいろいろな協力者が現れ適宜なアドバイスなどを得ることになります
結果として周りの環境との調和がとりやすくなり成功への道が拓けるのです
語るということの重要性を知ることが大切ですね
常日頃から荒々しい言葉を使っていると、波長共鳴の原理から荒々しい環境を呼び暴力にまで発展することはよく聞く話ですね
心で思ったことの中で 怒りや不平不満 愚痴や優越感 劣等感などといった自己を中心とした思いから発せられる言葉は、音として空間に表現される時に黒い霧のようなものが張り付いているということを知りましょう
逆に思いやり、愛と慈悲、感謝の言葉などには黄金の光の粒子がその音に張り付いていきます
前者は聴いている方に不調和を
後者は聞いている方に調和と安らぎを与えることになります
前者の周りの環境は不調和となっているわけですから 善男善女はあまり近づかないようにします
だから、情報も正確には伝わりません
だから、何か事を起こす時に必要な情報が不足することになります
結果として人のいうことを聴かなくなり物事は失敗するということになります
常に思いやりや愛と慈悲の心構えの方にはいろいろな協力者が現れ適宜なアドバイスなどを得ることになります
結果として周りの環境との調和がとりやすくなり成功への道が拓けるのです
語るということの重要性を知ることが大切ですね
常日頃から荒々しい言葉を使っていると、波長共鳴の原理から荒々しい環境を呼び暴力にまで発展することはよく聞く話ですね
2021年02月22日
情けないなぁ
日本人として、というより人間としてこういう考えや行動や態度はみっともないですよ、情けないですよという事を反面教師として私に教えてくれているのが旧民主党(今その当時の主流メンバーは立憲民主党というところに所属しているようです) の面々の言葉、言葉遣い、その行動なんだと思うのは間違いだろうか。
また、それらの人々を擁護し彼らの起こした問題に触れず、与党政府のことに関しては牙をむいて攻撃するマスコミの報道姿勢。いずれも不愉快である。
なぜか?
それは人の持つ「卑しさ、下品、優越感と劣等感、利己主義、不平不満の心、他人の成功にやっかみを覚える心」これらに根付いた人の負の心を刺激することによって喜びとする当事者の卑しさを見るからであろう、人の不幸を喜んでいるようなストーリィをあたかも真実の様に作り上げている姿勢に人間社会の問題を思うのである。
政治家は自らの生活維持のために選挙に勝つことだけを目標とし、マスコミは流言飛語をまき散らし真実から目をそらせる役割を担い(おそらく何らかの権力がそこにはたらいているとは思うが)、多数の人に洗脳という名の仕事の片棒を担いでいる。
財界も自社の利益の事ばかりで人としての使命感など皆無状態など、
人はいつのころからかマイナスイメージに毒されていて「前向きで積極的な心構え」を持つ人が少なくなってきているように思う、またテレビを中心とするオールドメディアの情報は無条件に信じてしまうようになってきていて、特にインターネットの情報が入ってこない環境だとますます大手メディアのコントロール下に置かれてしまうのです。さて、人は各人が「防御本能」というものを持っているがゆえに危機をあおる情報に敏感になるのは当然な事です。
その、原始的な本能を逆手に取っているような報道が目に余ります。
コップに半分の水が入っています。
前向きな心構えの考え方は「まだ半分も水がある」マイナスの心構えは「半分しかない」 事実は一つ
コロナワクチンの情報
NHK「この度のワクチン接種で死亡率が98.8%軽減されました」
同じことでも
「この度のワクチン接種で従来より死亡率0.2%と低くなりました」
というとマイナスイメージが払しょくされます。
この度のコロナ禍の報道から、森会長へのバッシング、オリンピック開催危機あおりなどなんか変ですね、
その他近隣諸国に対するしぐさなど・・・おいおい日本大丈夫か?
また、それらの人々を擁護し彼らの起こした問題に触れず、与党政府のことに関しては牙をむいて攻撃するマスコミの報道姿勢。いずれも不愉快である。
なぜか?
それは人の持つ「卑しさ、下品、優越感と劣等感、利己主義、不平不満の心、他人の成功にやっかみを覚える心」これらに根付いた人の負の心を刺激することによって喜びとする当事者の卑しさを見るからであろう、人の不幸を喜んでいるようなストーリィをあたかも真実の様に作り上げている姿勢に人間社会の問題を思うのである。
政治家は自らの生活維持のために選挙に勝つことだけを目標とし、マスコミは流言飛語をまき散らし真実から目をそらせる役割を担い(おそらく何らかの権力がそこにはたらいているとは思うが)、多数の人に洗脳という名の仕事の片棒を担いでいる。
財界も自社の利益の事ばかりで人としての使命感など皆無状態など、
人はいつのころからかマイナスイメージに毒されていて「前向きで積極的な心構え」を持つ人が少なくなってきているように思う、またテレビを中心とするオールドメディアの情報は無条件に信じてしまうようになってきていて、特にインターネットの情報が入ってこない環境だとますます大手メディアのコントロール下に置かれてしまうのです。さて、人は各人が「防御本能」というものを持っているがゆえに危機をあおる情報に敏感になるのは当然な事です。
その、原始的な本能を逆手に取っているような報道が目に余ります。
コップに半分の水が入っています。
前向きな心構えの考え方は「まだ半分も水がある」マイナスの心構えは「半分しかない」 事実は一つ
コロナワクチンの情報
NHK「この度のワクチン接種で死亡率が98.8%軽減されました」
同じことでも
「この度のワクチン接種で従来より死亡率0.2%と低くなりました」
というとマイナスイメージが払しょくされます。
この度のコロナ禍の報道から、森会長へのバッシング、オリンピック開催危機あおりなどなんか変ですね、
その他近隣諸国に対するしぐさなど・・・おいおい日本大丈夫か?
2021年02月20日
潜在意識とは今のあなたの真の心そのものである。
現在意識は種子であり潜在意識は大地である
潜在意識は種子を選別しない。まかれた種子がよい種子であっても悪い種子であっても
雑草の種子であっても、又 その種子が意識して播かれたものであろうと無意識のうちに播かれたものであろうとすべて芽をだし、育て上げ、それを生活体験として顕現させるのである。日常の暮らしの中で例えば自動車を運転するときにいちいち手足に命令して動かそうとして訓練を続けた結果、体が勝手に判断できるようになる。
この場合は現在意識で運転していたのが潜在意識に投げ込まれた技術が内面化し習い性になった事を意味するのである。
心の働きも同様であり、どのような情報を現在意識が捉えているかが問題となる。
運命がよくならない、不幸ばかりおきている人たちはその潜在意識の中にマイナスの
考えや行為という種子を播いていた結果として顕現されているのであって、
運命が好転している人は心の中にマイナス思考を持たず積極的に前向きに行為をしているということなのである。
物事がうまく運ばない人の特徴は、ものごとを何事も他人のせいにして自己中心的でわがままで反省が出来ないこと
上手く物事を運ぶ人の特徴は、両親に感謝し仲間に感謝し、人様のお役に立つために為すべきことを知り
為すべきことを為しまた為すべきことのレベルを常に向上させようと努力を惜しまないこと。こういった心構えが良い方向にむかっていく原動力になるのである。
潜在意識は種子を選別しない。まかれた種子がよい種子であっても悪い種子であっても
雑草の種子であっても、又 その種子が意識して播かれたものであろうと無意識のうちに播かれたものであろうとすべて芽をだし、育て上げ、それを生活体験として顕現させるのである。日常の暮らしの中で例えば自動車を運転するときにいちいち手足に命令して動かそうとして訓練を続けた結果、体が勝手に判断できるようになる。
この場合は現在意識で運転していたのが潜在意識に投げ込まれた技術が内面化し習い性になった事を意味するのである。
心の働きも同様であり、どのような情報を現在意識が捉えているかが問題となる。
運命がよくならない、不幸ばかりおきている人たちはその潜在意識の中にマイナスの
考えや行為という種子を播いていた結果として顕現されているのであって、
運命が好転している人は心の中にマイナス思考を持たず積極的に前向きに行為をしているということなのである。
物事がうまく運ばない人の特徴は、ものごとを何事も他人のせいにして自己中心的でわがままで反省が出来ないこと
上手く物事を運ぶ人の特徴は、両親に感謝し仲間に感謝し、人様のお役に立つために為すべきことを知り
為すべきことを為しまた為すべきことのレベルを常に向上させようと努力を惜しまないこと。こういった心構えが良い方向にむかっていく原動力になるのである。
2021年02月19日
宗教論
宗教・信仰
厳密にゆうと宗教を持たない人は皆無であってすべての人は宗教を持っていてすべての人は何らかの信仰をしているのである。
宗教団体というのは世界中にたくさんあり、それぞれの信者が自分たちの団体が正しいといい他の宗教団体は邪道だ外道だと排斥しようとする。
一方宗教団体ではない信仰集団がまた世界にはたくさんある。
経済というものを信仰している集団で金もうけや物質の獲得に血道を上げている信仰者たち。言葉は物質優先主義者とでもいえばいいのか。共産主義も自由主義もとどのつまり金銭的欲望を満たすことを第一優先としているわけで宗教団体の信者と大差がなく信仰の対象が神か金かのちがいだけである。
このことが宗教を持たない人はいないという理由である。
また、自分の先祖や家柄や地位や名誉を信仰している人も多いが結局経済や肉親や地所などが自慢の種である以上金銭的なものに執着しているといえるのではないか
結局は自分以外の何かを信仰しているわけでそれが「物質的」か「非物質的」かに分けられるだけのことである。
真の仏陀の教え真のイエスの教えに帰れというのはここがポイント
彼らは宗教者であったか否か、否である ただ創造主である神を信じ神が創造した大宇宙と大宇宙の摂理を物質的人類に
われわれ人類の生き方の方法を教えてくれているのである 仏教でも キリスト教でも なく イスラム教でもなく自然に生かされていることに感謝することを教えてくれた先達者なのである
厳密にゆうと宗教を持たない人は皆無であってすべての人は宗教を持っていてすべての人は何らかの信仰をしているのである。
宗教団体というのは世界中にたくさんあり、それぞれの信者が自分たちの団体が正しいといい他の宗教団体は邪道だ外道だと排斥しようとする。
一方宗教団体ではない信仰集団がまた世界にはたくさんある。
経済というものを信仰している集団で金もうけや物質の獲得に血道を上げている信仰者たち。言葉は物質優先主義者とでもいえばいいのか。共産主義も自由主義もとどのつまり金銭的欲望を満たすことを第一優先としているわけで宗教団体の信者と大差がなく信仰の対象が神か金かのちがいだけである。
このことが宗教を持たない人はいないという理由である。
また、自分の先祖や家柄や地位や名誉を信仰している人も多いが結局経済や肉親や地所などが自慢の種である以上金銭的なものに執着しているといえるのではないか
結局は自分以外の何かを信仰しているわけでそれが「物質的」か「非物質的」かに分けられるだけのことである。
真の仏陀の教え真のイエスの教えに帰れというのはここがポイント
彼らは宗教者であったか否か、否である ただ創造主である神を信じ神が創造した大宇宙と大宇宙の摂理を物質的人類に
われわれ人類の生き方の方法を教えてくれているのである 仏教でも キリスト教でも なく イスラム教でもなく自然に生かされていることに感謝することを教えてくれた先達者なのである
2021年02月17日
他人の悪口
やもすれば、人は(私は)自らの周りで起きている不都合で不愉快な問題を、他人のせいにしその他人に腹を立て、自分こそが正しいのだといいはり、結果自らを慰めては他人の至らぬところをあげつらう。
さて、これは正しい生き方なんだろうか。こうして他人を卑下し「ばかだなぁ」といったところで自らの周りの問題が解決できるのであろうか。
確かに人を悪者にすることによって一時は溜飲が下がるかもしれないが、根本的な人の生き方には間違っているのです。なぜならばその他人によって安寧の時間をないがしろにしているのは誰でもなく自分なのですからね。
自分にとって都合が悪い事象は少なからずも自らの心に曇りを作り物事の正邪を見極めることが出来なくなっていきます。普通他人を批判避難する心は自分の中にその素を持っているからなどといわれています。
つまり、自分の心の中にないものが降りかかってくることはないからです。
とすると、つまるところその他人への悪口というものは自分に向けられているという事になります。
どう考えても自分が正しいと思った場合でも、その悪口を言いたい人の事でも「本質を知るまでどうぞ学習して下さい、何らかの結果はあなたが受けるのだから」と、心の中で祈ってあげれるような自分を作っていきたいと思っていますが・・・けっこう難しいですね(笑)
「人間釈迦T」高橋信次 著 85頁には下記の如く著述あり
普通、他人から誹謗されると、つい自分をかばう心が出て、怒りの感情が燃え出すものである。他人から誹謗されるということは誹謗される何かが自分にあるか、天の試練か、そのどちらかである。しかし天の試練とはいっても試練に合うカルマ(業)が自分になければ試練は受けなくて済むものである。とすると、これも自分に帰着する。原因が自分にあるとすればその原因を静かに見渡すだけの心の余裕、寛容さがなければ少なくとも道を求める者の態度とは言い難い。そうしたもう一人の自分を忘れて相手の中傷に反発していく態度は、もはや修行者とはいえないのである。
さて、これは正しい生き方なんだろうか。こうして他人を卑下し「ばかだなぁ」といったところで自らの周りの問題が解決できるのであろうか。
確かに人を悪者にすることによって一時は溜飲が下がるかもしれないが、根本的な人の生き方には間違っているのです。なぜならばその他人によって安寧の時間をないがしろにしているのは誰でもなく自分なのですからね。
自分にとって都合が悪い事象は少なからずも自らの心に曇りを作り物事の正邪を見極めることが出来なくなっていきます。普通他人を批判避難する心は自分の中にその素を持っているからなどといわれています。
つまり、自分の心の中にないものが降りかかってくることはないからです。
とすると、つまるところその他人への悪口というものは自分に向けられているという事になります。
どう考えても自分が正しいと思った場合でも、その悪口を言いたい人の事でも「本質を知るまでどうぞ学習して下さい、何らかの結果はあなたが受けるのだから」と、心の中で祈ってあげれるような自分を作っていきたいと思っていますが・・・けっこう難しいですね(笑)
「人間釈迦T」高橋信次 著 85頁には下記の如く著述あり
普通、他人から誹謗されると、つい自分をかばう心が出て、怒りの感情が燃え出すものである。他人から誹謗されるということは誹謗される何かが自分にあるか、天の試練か、そのどちらかである。しかし天の試練とはいっても試練に合うカルマ(業)が自分になければ試練は受けなくて済むものである。とすると、これも自分に帰着する。原因が自分にあるとすればその原因を静かに見渡すだけの心の余裕、寛容さがなければ少なくとも道を求める者の態度とは言い難い。そうしたもう一人の自分を忘れて相手の中傷に反発していく態度は、もはや修行者とはいえないのである。
2021年02月15日
類は類を呼ぶという法則
多くの人は、というよりすべての人はといっても良いであろう。
病気になり不幸になると「神も仏もないものか」と思い、世を呪い、周りの人が誰も信用できなくなり疑いの心が起きてきて何をどうしていいのかがわからなくなり、何から手を付けたらいいかイライラするだけで、あれはああすればよかったのではないかとかあそこでこうしたからいけなかったのではないか等と自分の欠点や失敗や病気を探し回ることだけをする。
そういった心を捨て愉快に微笑んで前進すれば次第に心は明るくなり、喜びの心が起こり感謝の思いに満たされるのである。
日本では昔からこの原理を「笑う門には福来る」と言ってきた。だからどんなに苦しくても笑えばいいのである。しかしそうはいっても、ほとんどの人は「こんなに苦しいのに何で笑えるか」としかめ面をしている。ところがしかめ面をしているとまたしかめ面をしているということになり、しかめ面をしなければならない事態が連鎖的に起こってくるのである。このことを「泣きっ面に蜂」といっている。
「類は類で集まる」というのが法則である。
この世はこの世だけで動いているのではなくあの世(霊界)との関係の中に我々は生きているのであるから明るい心善なる心を持てばあの世の良い霊たちが集まってきていろいろ協力してくれるが、反対に暗い心を持つとよくない霊たちが集まってくる。
明るい良い心を持つとますます明るい良い心になり暗い心を持つとますます気がめいって暗い心になる。
だから、失敗して、病気してどうにもならないと思った時こそその暗い心を吹き飛ばして「あはは」と哄笑してそうして静かに坐して直観を待つことである。そうすると「笑う門には福来る」とばかりに様々な問題は解決に向かっていくのである。
このことは私の人生の中でたびたび起こってきた現象でもあります
病気になり不幸になると「神も仏もないものか」と思い、世を呪い、周りの人が誰も信用できなくなり疑いの心が起きてきて何をどうしていいのかがわからなくなり、何から手を付けたらいいかイライラするだけで、あれはああすればよかったのではないかとかあそこでこうしたからいけなかったのではないか等と自分の欠点や失敗や病気を探し回ることだけをする。
そういった心を捨て愉快に微笑んで前進すれば次第に心は明るくなり、喜びの心が起こり感謝の思いに満たされるのである。
日本では昔からこの原理を「笑う門には福来る」と言ってきた。だからどんなに苦しくても笑えばいいのである。しかしそうはいっても、ほとんどの人は「こんなに苦しいのに何で笑えるか」としかめ面をしている。ところがしかめ面をしているとまたしかめ面をしているということになり、しかめ面をしなければならない事態が連鎖的に起こってくるのである。このことを「泣きっ面に蜂」といっている。
「類は類で集まる」というのが法則である。
この世はこの世だけで動いているのではなくあの世(霊界)との関係の中に我々は生きているのであるから明るい心善なる心を持てばあの世の良い霊たちが集まってきていろいろ協力してくれるが、反対に暗い心を持つとよくない霊たちが集まってくる。
明るい良い心を持つとますます明るい良い心になり暗い心を持つとますます気がめいって暗い心になる。
だから、失敗して、病気してどうにもならないと思った時こそその暗い心を吹き飛ばして「あはは」と哄笑してそうして静かに坐して直観を待つことである。そうすると「笑う門には福来る」とばかりに様々な問題は解決に向かっていくのである。
このことは私の人生の中でたびたび起こってきた現象でもあります
2021年02月12日
人としてどうかと思う
森元総理に対するマスコミと特定野党の無意味な攻撃、寄ってたかっての批判はまるで「いじめ」そのもの。一度謝意を表明したものに対して連日の騒ぎは、まともな考えでなされているとは到底思えない仕業の様に思う。
まさに、「いじめ」大勢でもって連日非難される姿をみるに耐えない。
蓮舫氏の「済んだことにはさせない」というコメントにものすごい違和感を感じるし、寄ってたかって白い服を揃えるなど情けないやら残念やら「川に落ちた犬は棒でたたけ」とばかりの様相には寒気さえ感じるのだ。
蓮舫さんあなたの国籍問題終わったことなんでしょうか
マスコミの諸君は今後教育界における「虐め問題」に言及する資格はない
ここぞとばかり政府を問題化してディスっても立民の将来はうす寒い。無責任さは目に余る所業であり、気分が悪いため
日頃の私の論説から離れるがあまりにひどいので文に残す。
まさに、「いじめ」大勢でもって連日非難される姿をみるに耐えない。
蓮舫氏の「済んだことにはさせない」というコメントにものすごい違和感を感じるし、寄ってたかって白い服を揃えるなど情けないやら残念やら「川に落ちた犬は棒でたたけ」とばかりの様相には寒気さえ感じるのだ。
蓮舫さんあなたの国籍問題終わったことなんでしょうか
マスコミの諸君は今後教育界における「虐め問題」に言及する資格はない
ここぞとばかり政府を問題化してディスっても立民の将来はうす寒い。無責任さは目に余る所業であり、気分が悪いため
日頃の私の論説から離れるがあまりにひどいので文に残す。
2021年02月10日
家庭に関しての考察
家庭は人間の生きる道を学ぶところ
家庭は人間の生きる目的を学ぶところ
家庭は長所を伸ばし
短所を修正するところ
家庭とは心の安らぐ場であってほしい
昨今家庭内での問題で犯罪が生まれている
肉体こそが人間であり 物が最も大事であるという考えが根本にありその結果として欲望だけが肥大しているために起きる事件が多過ぎるようだ 人間は本来、各個人それぞれに於いて素晴らしい才能、能力をもっている。
それを引き出し育てていくことが教育ということになります
教育
教育の効果として望まれていることは何なのでしょうか、それは人生の目的のひとつである 心の安らぎを得るそして助け合い励まし合う理想の世界を築くことではないでしょうか正邪 善悪を見分ける力 相手を思いやる心 勇気をもって善行する力
このことが教育課題であろうと思うのですが、決して学歴が大事であるということではありません
現代の教育環境を鑑みると子供のころからいい学校に行くことのみが目的化し偏差値優先の様相であり偏差値によって人間の価値を決めているようです。偏差値教育の弊害の最大なものは試験には必ず答えが用意されており繰り返し記憶していけば点数は取れるということであり人を思いやる心や、人間性などとは関係なくいい大学に入れるということであります 心不在の教育を受け日本の最高学府を
卒業した高学歴高偏差値の御仁が政財官に法曹界にその身をおかれての活躍ぶりを見るにつけつくづく彼らの非常識ぶりに驚きを隠せません。
小さいころから「勉強しなさい、○○ちゃん」「成績どうだった○○ちゃん」などという親の言葉に染まっていった結果出来上がったのが、今のあなたたちを作ったのでしょうね。
この方たちの施政に国家経営をゆだねているのが現状なのでしょう。
家庭は人間の生きる目的を学ぶところ
家庭は長所を伸ばし
短所を修正するところ
家庭とは心の安らぐ場であってほしい
昨今家庭内での問題で犯罪が生まれている
肉体こそが人間であり 物が最も大事であるという考えが根本にありその結果として欲望だけが肥大しているために起きる事件が多過ぎるようだ 人間は本来、各個人それぞれに於いて素晴らしい才能、能力をもっている。
それを引き出し育てていくことが教育ということになります
教育
教育の効果として望まれていることは何なのでしょうか、それは人生の目的のひとつである 心の安らぎを得るそして助け合い励まし合う理想の世界を築くことではないでしょうか正邪 善悪を見分ける力 相手を思いやる心 勇気をもって善行する力
このことが教育課題であろうと思うのですが、決して学歴が大事であるということではありません
現代の教育環境を鑑みると子供のころからいい学校に行くことのみが目的化し偏差値優先の様相であり偏差値によって人間の価値を決めているようです。偏差値教育の弊害の最大なものは試験には必ず答えが用意されており繰り返し記憶していけば点数は取れるということであり人を思いやる心や、人間性などとは関係なくいい大学に入れるということであります 心不在の教育を受け日本の最高学府を
卒業した高学歴高偏差値の御仁が政財官に法曹界にその身をおかれての活躍ぶりを見るにつけつくづく彼らの非常識ぶりに驚きを隠せません。
小さいころから「勉強しなさい、○○ちゃん」「成績どうだった○○ちゃん」などという親の言葉に染まっていった結果出来上がったのが、今のあなたたちを作ったのでしょうね。
この方たちの施政に国家経営をゆだねているのが現状なのでしょう。
2021年02月07日
生きることは学ぶこと
人生は各人が思うことによって行動を引き出しその結果として良きこと悪しきこと、喜びや悲しみや様々な出来事を体験するものだ。
あらゆる結果はその思うことと行うことで作り上げた原因により発生するのであるという事をまず知らなければならない。
「原因と結果」は宇宙を貫く法則であり何人たりともこの因果から逃れることはできないのである。
国家が今おかれている現状は過去の行状の結果、つまりはリーダーの在り方、国家観というある種の哲学的概念の継続性というものがあり、それに導かれひきいられる国民の総意によるものであるのだが、昨今の現状を鑑みるに「マスコミ」という名の情報発信力に おうところが大きくなってはいないかと危惧するものである。
顕著な事例として昨今の「コロナ禍」本来は「武漢肺炎」というべきものにもかかわらず中国に遠慮してか「新型コロナ」などという言葉で表現されている報道姿勢を考えるとなんか違和感を感じてしまうのである。世界の中の我が国の感染者数をみると明らかに抑え込みには成功しているように思うのだが、テレビも新聞も「悲観的な口調」で過去最多、今日の感染者、重症者等深刻な表情で謳っているが、果たして正確な数値のすべてを発表しているのだろうか、陽性者の定義も発症者の状況もその内容が不明確、例年発生している「インフルエンザ」との比較や退院者の数、実行再生産数等の発表など行われているのだろうか。行われるとしてもその定義に関して説明があっただろうか、ただひたすら「大変だ大変だ」とあおってはいないだろうか、まして「緊急事態宣言」等で飲食店を的にかけているが納得できる「エビデンス」は説明されたか、また飲食店関連の業者に関して対策はあっただろうか、政府も識者といわれている学者たちも納得できる説明がなされているようには思えない。
ある番組で「コロナウィルス」そのものはそんなに恐れることはなくすでに「集団免疫」が出来ているといった専門家の先生(たしか京大でした)
の意見もあったのだが、もうテレビには出ていない。
テレビ局の意向に沿わない意見は言えないのだという事もきいている。いずれにしても多くの意見ではなく選択された意見しか出せないのであるならば私たちは、自らが自らの考えで判断するしかないのである。
これら一連の事態は原因となって結果を作っていくのである。
マスコミは「反政府」に舵をきっており野党も同様であり、地方の自治体も政府に文句をいうだけ。有識者もだんまりをきめ込み医師会に至ってはまるで「他人事」のような発言が相次いでいる。
現実的代案のない批判は昔から書生論といってとるに足らない事とされているのを知っているのだろうか。
少しでも建設的な意見が出る事と実行していくことを待つ前に、私たちはもっと賢くならなければならない。
場合によっては赤貧に甘んじなければならない事も覚悟し、自らの人生観を見直すことも視野に入れながらこの危機を乗り越えていこう。
という事は、新たなる原因作りに励もうという事である。