2021年02月17日

他人の悪口

 やもすれば、人は(私は)自らの周りで起きている不都合で不愉快な問題を、他人のせいにしその他人に腹を立て、自分こそが正しいのだといいはり、結果自らを慰めては他人の至らぬところをあげつらう。
 さて、これは正しい生き方なんだろうか。こうして他人を卑下し「ばかだなぁ」といったところで自らの周りの問題が解決できるのであろうか。
確かに人を悪者にすることによって一時は溜飲が下がるかもしれないが、根本的な人の生き方には間違っているのです。なぜならばその他人によって安寧の時間をないがしろにしているのは誰でもなく自分なのですからね。
 自分にとって都合が悪い事象は少なからずも自らの心に曇りを作り物事の正邪を見極めることが出来なくなっていきます。普通他人を批判避難する心は自分の中にその素を持っているからなどといわれています。
つまり、自分の心の中にないものが降りかかってくることはないからです。
 とすると、つまるところその他人への悪口というものは自分に向けられているという事になります。
どう考えても自分が正しいと思った場合でも、その悪口を言いたい人の事でも「本質を知るまでどうぞ学習して下さい、何らかの結果はあなたが受けるのだから」と、心の中で祈ってあげれるような自分を作っていきたいと思っていますが・・・けっこう難しいですね(笑)

 「人間釈迦T」高橋信次 著 85頁には下記の如く著述あり
普通、他人から誹謗されると、つい自分をかばう心が出て、怒りの感情が燃え出すものである。他人から誹謗されるということは誹謗される何かが自分にあるか、天の試練か、そのどちらかである。しかし天の試練とはいっても試練に合うカルマ(業)が自分になければ試練は受けなくて済むものである。とすると、これも自分に帰着する。原因が自分にあるとすればその原因を静かに見渡すだけの心の余裕、寛容さがなければ少なくとも道を求める者の態度とは言い難い。そうしたもう一人の自分を忘れて相手の中傷に反発していく態度は、もはや修行者とはいえないのである。
posted by 筆文字や隆庵 at 12:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする