2021年03月31日

守護霊とは

 前回私たちの死後を導いてくれる「守護霊」という説明を致しましたが、その守護霊とはいったいどのような存在でしょうか。
地上人に良い働きをする霊の事なのですが、どういう人なんでしょうか。

 どのような人間にも、必ずその人が受胎から死を迎えるまでの間付き添ってくれています。人種や宗教に関係なく例外はないのです。人の意識はこの世では全体の⒑分の一しか働かないようになっているため一寸先は闇のような状態で生活をしていくため、間違いを犯しやすくできています(それが修行の目的でもあるのですが)、そのため霊界から次元の異なった世界から、親か子供を守るようにずっと見守ってくれる存在。それが「守護霊」というわけです。

 人がこの世に生まれてくるときはあの世の市役所のようなところに、今度地上界に生まれた時は○○をします、といった計画書を出します。その際に守護霊もその計画書どうりに生きていくためのアドバイスをします。と約束をするわけです。
 したがって、「守護霊」は地上に出ている私たちの運命もあらかじめ知っているわけです。また、その手助けは自分の霊的成長のためにもなるという事なのです。高橋信次著「心の発見 科学編」によるとその守護霊は魂の兄弟と説明されています。
 守護霊は地上人に対して直観、インスピレーションをもって指導していくのですが、日々そのようなことを知らない地上人はその直感を感じないか、無視してしまうことが多々あるようです。
 肉体を持っている地上人の鈍感さと違いますから認識量が多いため地上人である私たちと子供と大人の差以上あるという事です。
いかに「直感」が大切かがわかって頂けるでしょう。
 さて、その守護霊ですが常に私たちの念に対応し最高の愛で包んでくれていますし、今まで私たちが神仏に祈りという行為をした場合においても地上人である私たちの人生の望をかなえてあげたいときに全力を挙げて協力してくれるのです。もし守護霊本人にその力がない場合は上段階の指導霊にお願いするという組織になっているようです。
 いずれにしても、守護霊は 今私たちが地上で生活していくにあたって強力なパートナーという事なのです。
私の個人的な例でも、たぶん守護霊のおかげだなと思ったことが何度もあります。






posted by 筆文字や隆庵 at 15:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月29日

死の直後

 死の眠りからの目覚めにより死者は、地上の日数にして数日くらいで少しずつ自分が死んだことに気が付くようになります。その際には内在していた潜在的霊意識が地上で生活していたころと異なり表面化してきます。そのため身体が軽やかになっていることに気付き始めます。いつの間にか病気の苦しみや痛みなどは完全に消え去っています。

 しかし、中には(現代では死者の多くが)いつまでも自分が死んだことに気付かない者たちがいます。相変わらず地上生活を送っているものだと思い込んでいるわけです。周りの霊たちが「あなたはもう死んだんですよ」と教えてあげても、「とんでもない私はこの通り生きています」と、死んだことをいっこうに認めないばかりか、教えてくれた人に対して怒り始めることもあります。
 事故や戦争であっという間に死んだ者は、なかなか自分の死を悟ることが出来ないようです。また、激しい憎しみや恨みの感情、後悔の念が強く死んだ者もその悪感情が災いして、いつまでも死の自覚を持つことが出来ず地上にとどまっている例があります。あの世のルール上死者は肉体から別離後21日間だけとどまることを許されているわけでそれを過ぎるといわゆる「地縛霊」となってしまうわけで、同じ意識を持っている地上の人間に「憑依」してしまう事もあります。これは波長共鳴の法則にあてはまるわけです。
 こうした霊たちは「死の自覚」が持てるようになるまで何か月、何年も、時には何百年もの長い間、ずっと地縛霊として地上付近をウロウロしているわけです。

 一方において、死を自覚すると、その瞬間から霊的視野が開けるようになると先述しましたが、そうなるとすでに他界している両親や、親戚、知人など懐かしい人たちが自分を取り囲んでいることに気付きます。そして、その人たちが自分に近寄ってきて「ようこそ」と。これまで体験したことのないような大歓迎をしてくれるのです。こうして他界者は迎えに来てくれた人たちと一人ひとりとあいさつを交わし、再会の歓喜に浸ることになります。
 そうした人々の中に、身内ではないのにどこかで度々あったことのあるような感じがする人がいることに気が付きます。その人は光輝あふれる雰囲気につつまれね高い人間性を映し出しています。その人は傍に立って「私の後についてきなさい」というのです。その人の後についていくと、ドアや壁や天井などを突き抜けて家の外に出てしまうのです。
 実は彼(彼女)は他界者が地上で生活していた時から背後でずっと付き添い、霊的成長の為の手助けをしてきた「守護霊」なのです。・・・・

次回は「守護霊」とは何かに関しての説明です・・・
posted by 筆文字や隆庵 at 09:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月27日

死の瞬間の様子

 承前

スピリチュアル入門という書物から死の瞬間に関しての記述が多く残されていますが作者や書かれた時代に関わらずその多くは同じように述べられています。

 本来死とは脳死や心臓死という定義では不十分であって、肉体と霊体を結ぶ「シルバーコード」が切れる事であります。米国の心霊研究家で優れた霊能者でもあったハドソン・タトルは、死の瞬間を霊視し次のように述べています。


 「徐々に霊体は手足から抜け出し、頭の方に凝縮する。やがて頭部から後光(ごこう)が現われ大きくなる。次第にそれは形を現し、

ついに抜け出した肉体と同じ形になる。霊体は高く上がり、一個の美しい霊が私の前に立つ。他方、肉体は下に横たわっている。だが一本の細いコードが霊体と肉体をつないでいる。このコードは次第に薄れていき、やがて消滅する。こうして霊は永久に地上の肉体と縁をきるのである。」


 これが、外部から見た死の瞬間ですが、当の本人はこの時にどのように感じているのでしょうか。

ただ一人ひとりの人生や寿命や性格、なしてきた行為等の影響から人が死後にたどる道筋も体験も、それぞれ違っています。ここでは一般的に「善人」といわれている普通の人間の話を聞いてみます。


 霊体となっている人にインタビューした心霊研究家の話・・・


他界した人達の話によれば「死の眠り」という深い眠りに入るような状態になるという事です。痛みや苦しみを感じることはありません。

臨終の際の顔がどんなに苦痛でひきつっているように見えても、それは見かけだけであって本人は無意識です。世間ではしばしば ‘死相が悪いと地獄に堕ちる゛ということが言われますがそれは根拠のない迷信にすぎません。
やがて死の眠りから覚めると、自分とそっくりな人間が横たわっているのが見えます。実は、すでに本人は肉体から離れ霊体となって自分の肉体を見ているのですが、そのことにはまだ気がついてはいません。そして抜け殻になった自分の遺体の傍に立っていたり、空中に浮遊していたりします。このとき大部分の死者は、思いもよらない環境の変化に戸惑うことになります。
 さらに、自分の死の知らせで集まっている家族や親せきや友人らの姿も見えるようになります。それでその人たちに声をかけたり、肩を叩いたり、身体に触れたりするのですが、何の反応もないことに驚き、大きな不安に駆られるようになります。霊体だけになった死者とと肉体を持っている地上人とはもはや同レベルで接触し、交流することは出来なくなっているのです。「自分はここに生きているのに、だれ一人気付いてくれない。なぜみなが泣き崩れているのだろう・・・」と大半の死者が死後の目覚めと同時に、こうした不安と混乱の時間を過ごすことになります。

 次へ・・




posted by 筆文字や隆庵 at 11:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月25日

死生観に関して

 人は、というかすべての物質はいずれ死、停止を迎えることが宿命であるのですが実はその物質を形つくっているエネルギーともいうべき存在は形態を変化させるだけで永遠に存在し続けているのです。
 高度な知性を有しているはずの人間だけがその知によって限定的に死というものを捉えているようです。つまり「死ねばすべてがなくなる、死とは無の世界である」という考えです。もちろん肉体そのものは地に帰るという事で、リン酸やカリなどに変化していくのです。
そうした中 本来の自分は意識として死ぬことはないという事が20世紀の初頭頃からヨーロッパにおいて「スピリチュアリズム運動」として始まりました。数々の文献により霊界の存在を知らしめるような現象記録が残されており、我が国においても訳文が何種も出版されています。著名な書としては「シルバーパーチり霊訓」 M.バーパネル著 近藤千雄 訳 シリーズがありますが、元となっているイギリスに於いての「降霊会」に関係している著名人の著作も世に出ています。またほぼ同時代に「アランカーデック 霊の書」「インペレ―タ―の霊訓」「モーゼスの霊訓」等が現在も日本語訳にて出版されています。

 それら一連の書がその内容に矛盾をはらむことなく記述されていることで真実であろうと考えられます。一様に言われていることは人間は死んだあと(肉体の死)は霊界というあの世の世界で生活をしている事、そこでは生きている時と同じような肉体を持ち地球上にいる時よりも意識が上位になり言葉で表現しなくても意思の疎通が出来る世界であるし苦痛のない軽やかな世界であると記録されています。

 ただ訳文ですので西洋的な言い回しになっているため「キリスト教」聖書に近い文言と「降霊会」当時の聴視者の宗教的背景を考慮した言い方になっているきらいはあります。日本における仏教開設が漢文に影響されているが如しであります。
いずれにしても「死」は「無」になることではなく、他の物質と同じように姿かたちを変えながらも永遠に存在しているという事でなおかつ魂には体験してきたすべての思考や行為が記憶されており、その人の人格は永遠にその人であるという事なのです。
 そうだとしたら一体「死」とは何でしょうか「生」とは何でしょうか・・・そもそもこの世界、宇宙とは何でしょうか、神とはなんでしょうか
 シルバーパーチの霊訓の冒頭には次のような宣言文が書かれています。
「私たちは一片の信条、一冊の経典、一宗一派にこだわるものではない。ただ生命である神、その永遠の法、これに命を捧げるものである。」
これら一連の書物は私たちに生きるとは何か、その目的と使命は何かに関して深く考えなければならない様々なエピソードが記されています。ご一読あらんことを・・・
 「シルバーパーチの霊訓」「シルバーパーチ霊言集」いずれも良書であります。
posted by 筆文字や隆庵 at 10:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月23日

祈りの効用

先日来「肝臓がん」の疑いありという事でした。というのは腫瘍マーカーがこの半年で異様に上昇していたことと(通常の数値40未満のところ75、79となっていた)エコー検査で肝臓に影が発見されたというので、精密検査を受ける事となったわけです。それで3月18日に検査実施本日3月23日にその結果につい

て報告を受けたのですが、全く不思議なことに健常そのものであり、ドクターも首を傾げたくらいでした。腫瘍マーカーもなんと24にまで下がっており、なにがあったんだろうといわれた次第です。

さて、一体何が起きたのでしょうか、というより何をしたかについて説明いたします。

1.反省の祈り・・・肝臓のあたりに手を当てて次のように話しかけたこと「私の肝臓どの、酷使させるような生活を何十年も続けてきたことを申し訳なく思っていると詫びをいれ手のひらから自然治癒力を高めるための光のエネルギーを注入するように想像しました」そして次の様にマントラを唱えます「大宇宙大神霊・仏よわが肝臓に光をお与えください」と瞑目し息を吐きながら手当を行いました。
2.禅定・・・・背筋を天に向かって真っすぐに姿勢を正し軽く目を閉じ胸のあたりに黄金に光り輝く球体を想像し瞑想に入ります
「私は神の子であることに感謝いたします。」と唱えながらすでに健康な肝臓が生き生きして活動している姿をアリアリと描くのです

この一連の動作を行っただけなのですが、結果かは善い方向に出たのです。

詳しくは

shoho2.com 参照ください


posted by 筆文字や隆庵 at 12:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月22日

固定観念

 過去に捉われていて自分の能力を発揮していないという事を、よく「ノミのサーカス」というたとえ話に説明されることが多いように思います。自分の能力を規定してしまっていて本来の自分の力を出せない状況に陥っている状況をあらわしています。
 コップの中に閉じ込められ蓋をされている状態でどれだけ跳び上がっても何度も何度も頭をぶつけ、それ以上はいけないという事になってしまっているという状況なのです。何度も頭をぶつけていると知らすしらずに体が反応し頭をぶつけることがなくなっていきますが、そのことと引き換えにもうコップの高さ以上は跳べなくなってしまっているということになってしまっています。本来はもっと高く跳べるはずなのに自己規定してしまっているのですね。
 だから、コップの外に出してやっても無理な状態になっています。条件反射という事なのかもしれませんが結果として能力と個性を失っていきます。 同様に人間もそのような状況になっている人が多いようです。
 原因は、どうも幼いころの出来事から、また教育からや環境から影響を受けて習慣化している考えや行動によって出来上がってきたものといえます。
 整理すると固定観念の構成原因としては生まれ育った環境であり、父母や家庭でのしつけであり、また学校教育により生じる事であり、その中から形作られた性格であったりするわけです。
 特に戦後の日本における教育界や言論界、学界、産業界に至るまでGHQkの「ウォーギルティインフォメーションプログラム」によってガタガタにされてしまった感があります。誤った国家間によって自虐史観を植えつけられ、家族の絆を壊すような政策を実施させたり、男女の役割にまでその影響を及ぼしていくような様々な計画によって今の日本が翻弄されてきたように思うのは私だけでしょうか。
 いうまでもなく教育や思想や習慣や間違った物質優先主義から派生した問題は私の中で一種の固定観念として大きく作用してきました。だからこそ本来の自分に帰り、本来の人間の姿をあるべき暮らし方を考え直さなければならない時期が今来ているような気がしています。


posted by 筆文字や隆庵 at 10:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月21日

本来の自分に帰れ

 人生行路の旅の途中、様々な問題が私たちの目前に現われては「さあ、この問題をどう解決するのか?」というように立ちはだかります。
ある時は苦しみ、ある時は哀しみ、ある時は怒りという具合に問題解決に向かっていたことを思い出しています。
 恐らく苦しい問題は、間違いの警告なのであろう。そしてその問題の元をたどればいくつかの「共通要素」が見つかるものです。
先ずは、知るべきことを知らないために起きる問題、それをお釈迦様は「無明(まよい)」と教えられた。
 私自身は問題が起きることを「警告」として認識していただろうか、単なる不運だとか偶然ということで見逃していたのではないかと記憶をめぐるために日々このブログを記しながら、「原因と結果」の法則に当てはめていくことにて目前の問題も必ず原因があったのだと気づくことが出来ました。
 では前述した「共通の要素」とは何でしょうか?
 私自身はこのように認識しています
1. 怒り、愚痴、不平不満の心で物事に当たったことはなかったか
2. 固定観念に縛られていなかったか、過去の出来事にとらわれていなかったか
3. 現状に甘んじていなかったか
4. 自分の未来の姿を過小評価していなかったか、またそのような言動をしていなかったか
5. 自分はダメだと自らを否定していなかったか
 天のプログラムは解決できないような問題を与えることはありません

 行きつくところだと私が認識している要素は1.に記した怒り、愚痴、不平不満、取越苦労に持ち越し苦労、優柔不断等の心の働きが現象化しているものとして集約されるようです、
 これらの問題が単独に、複合的に原因を作っていることを知ったならばそれらの原因について反省し、間違いを伝えてくれたことに対して感謝する事です。
 どのような問題であっても自らの人格向上に相応しい問題であってそのためにプログラムされていると思い、その問題を学習課題とすることです。何故なら、私たちは大宇宙の一大生命エネルギー(神)を自ら分け与えられた者、即ち「自分」なのです。それらの問題を解決することによって「人格の向上」「心の安らぎ」を得るのです。
では、何のために心の安らぎを深めていくことが大切なのでしょうか、それは神の子の自分を知るという事になるのです。
 それが、本来の自分に戻るという事です。
問題が発生したことに対し反省と感謝することによって解決に向かって前進することが出来ます。
すぐに答えが出来ないものは天に委ねておく方法もよいと思います。
 ともかくも、本来の自分は神の子であり人格の向上のために永遠の生命の途中である今を生きているのです。

 参考文献・・園頭広周著「信仰の指針」「宇宙即我に至る道 下」 熊澤次郎著「地行合一」機関紙 長山隆庵著「こころ詩綴り」より まとめました
posted by 筆文字や隆庵 at 12:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月20日

考えるという事

 考える人が考えない人を支配する・・・目標を明確設定している人が無目的の人の目標を作ってくれるがその人のためになるという事は少ない。
ということですから、考える人になりたいものです。
新聞やテレビにコロナウィルスが猛威を振るっていて死者も出ているのだ、今のところ薬は出来ていないなどといわれたりしていると、特に専門家といわれている方たちの言葉だと無条件に信じてしまい大騒ぎを起こしている。かつ自分がかかってもいないのに他人に知ったかぶりでその専門家の意見を吹聴してしまっている。
 これなどは「知的弱者」といわれる最たるものです。ものごとをあまり深く考えようとしない人に多く見られる現象です。
国が「集団的自衛権」の法案に関して議論を進めている際に一部の人々はやれ戦争法案だ、徴兵制だということで考えない人たちの集団を作ってしまいます。
 心配から不安そして恐怖へと自分の心を煽り、知的弱者の集団になびいていく人たちのなんと多いことか。だからよく考え、考え抜くだけの知性を持たなければならないのです。
大きな問題は「なぜ、どうして」と・・・よくよく考える事です。

 さて、病人をみればかわいそうだと思います。特に家族や友人が病気で困っていたら変わってやりたいと思うほどです。なぜ、どうしてこうなったのかと同情をしてしまうようです。
 しかし、よく考えると人それぞれには学習すべき道があるのだと、学ぶことが出来ました。その人にとって、自分にとってもこのことに遭遇することが学習プログラム、すなわち天からの贈り物であることにきづかせて頂きました。

 解答としては愛と慈悲を前提として祈ることそして、エールを送ることだと思いました。
「神よ、このことを通してこの人を(自分を)救わんとしていて下さる神の慈悲に感謝いたします。」
 病人に対して同情の心ではなく学習課題だと認識し原因を修正していく、もしくは原因の修正に力を貸してあげる事か゛大切であります。

posted by 筆文字や隆庵 at 11:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月19日

感謝の生活

 永遠の旅をつづけている私たちは、常に良いことばかりを思っているわけではありません。時折悪いことを見聞きし悪を思ってしまうのです
。身近な事では病気であり、家庭生活のゆがみであり、国会議員の質の低下であり、マスコミ情報の虚偽であったりとか実に嘆かわしい話に捕まってしまって心が悪の方を向いてしまうことがあります。いわゆる怒り、愚痴、不平不満の心を持ってしまいがちなのですが、そんな時はどうすればいいのでしょうか、
 反省という事を教えて頂いているのですがなかなかその心境から抜け出せなくなってしまい
悪い面ばかりを見るようになってしまったら・・・・・と考えている時にこのようにしたのだ、という事に気付きました。それはまず人生の原点、生命活動そのものに関して気持ちを整理する祈りを行ったという事です 
 「私は私こそが私の人生の主人公であり全能者である。いかなる悪もそれは私のものではない。悪は実在ではなく善が現れるまでの闇の現象であり私はそのことにこだわらないのである。私は善そのものであるから常に神の光に包まれている愛の存在なのだ」と祈ることにしています。
 そう祈ります。そして私の周りに黄金の光の玉を想念し深呼吸することにしているのです。
大ヒット映画「スターウォーズ」では恐怖にかられた主人公が心の暗黒面に落ちていく姿を描いていましたがそうならないように自己の確立を求めていかなければならないのです。恐怖を思えば恐怖の世界が、安楽を思えば安楽の世界が私たちの周りにその種を播いていくようです。

感謝の生活こそが愛ある神の意に沿うものであります

posted by 筆文字や隆庵 at 11:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月18日

自然の法則・・エネルギー不滅の法

 自然の法則に循環と変化があります。物質そのものはエネルギーの集中固体化したものであり同時に不滅の生命エネルギーとして存在することになります。
 その中で私たちは己の個性を磨き永遠の魂として修行の旅をつづけるものであります。
現在この地上界で修行している私たちは、個性を磨きそして人間本来の使命を果たしていくことになります。当然のことながら永遠の魂である私たちは今肉体という衣を身にまとい人生行路を歩んでいくわけですが、時として肉体が故障し調子が悪くなることがあります。
 その折は病院に行きそれなりの治療薬を得ることになります。
一方心の栄養剤の存在があるはずですがそれは一体どのようなものでありましょう。どこに行けば手に入るのでしょうか、ここではその栄養剤に関して、側聞ではありますが私自身学び実践すべき事に関して記していきたいと思います。

心はエネルギーであり、プラスとマイナスしかありません。どちらでもないという事はありません。私たちはものを思ったり考えたりしながら生きているのです。これを「精神力」といってもいいでしょう。
 原因と結果という自然の法則からは善いことを思えば善いことが、悪いことを思えば悪いことが現われるという事なのです。
ですから、自分の心の管理は、自分でするようになっています。明るく、楽しく、素直に生き多くの人々のお役に立つように管理するといういう事です。

この生き方が良いことであるという事を私たちは知っていますも。ではどのようにすれば明るく、楽しく、素直に生きることが出来るのでしょうか。それは常に良いことを思い、相手のためになることを語り、そして良いことを即実践することです。

 善いことを思うとは常に感謝をすればいいんだという事は知っているのですが具体的には、問題が起これば「この問題解決を通して成長脛水戸が出来る」と感謝します。次には、「相手のために話をする」という事です、相手のために話をするためには相手のことをよく理解する事がだいじです。よく褒める言葉が良いといわれますが、その褒める内容も相手のことを理解していないと的外れになり意味を持たなくなるものですし同じことが叱るという事にも当てはまります。

 善いことを実践するにの素直な心はどのようなものでしょうか、それは両親が無条件に私たちを愛してくれていたころを思い出し反省する事から生じてきます。何よりこの世にて生活できるよう肉体を頂き、命をはぐくんでくれたことに対する感謝の思いが素直な心を引き出してくれるようです。

 でも親殺し、子殺しなどの現象が起きているのも一方では事実なのでありますが、実は人間の生命活動においてあってはならない事でもそれすら原因結果の法則が働いているという事は厳然たるものであります。そのことは、人が輪廻転生という循環の法則の中に存在している事の証なのであっていずれかの時代における転生の反動であるわけです。
 いつしか投げていたブーメランが帰ってきたといえるわけです。親子双方にとってのけじめだったのかもしれません。

 次号・・・
posted by 筆文字や隆庵 at 15:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月17日

言葉は運命を創造する

 好むと好まざるとにかかわらず私たちは他との関係、相互の意思疎通によって様々な出来事に遭遇し社会生活を営むようになっています。
元々幸福な人生を送ることが約束されているはずなのに、多くの人々は自我中心主義に陥り他者への思いやりの心を見失いつまらぬ優越感というものに支配され、他人を誹謗中傷の言葉でさばき自己自慢に没頭している。
 一方においては自らの上部に対してはぺこぺこと自己卑下し劣等感にさいなまれている。そんな人々の多いことを教えてくれているのが今の世界の特徴である。要するに他との比較からしか自分の位置づけを確立できない哀れな人だといえる。
 昨今の国会での議論、またその議事を報道するマスコミ(報道しないという報道も含む)はここ数年ほどますます悪化しているような気がしている。

 言葉を発する以前の思いの間違いを含めるとまさしく「世は末法」なのであろう。思う後の言葉遣いの間違いは問題多し
具体的には、国会議員のレベル低下には目を覆うばかりの惨状、またマスごみといわれる集団の能力不足、想像力の低下云々、専門家と称する集団の自己中など枚挙にいとまがない
 それもこれも一般国民の教養不足に負うことが大きいのではないかと危惧するものである。
知るべきことを知り、自己中心的な態度をすて他者への思いやりを育み、正しく言葉を語り意志疎通を図る・・・特に言葉遣いは運命を創造するほどの力を持つものであることを知らなければならない。常日頃から荒々しい言葉を語っているとその言葉に波長の合う人が集まり行動そのものも荒っぽくなっていくのは良く見聞きする話である。

業界用語というものがあり、その用語は同類の方たちにとっての親和性があるのと同じように日頃使い慣れている言葉にも同類にとって心地よいものになるように・・・である。
 少なくともこういった観点からも言葉を選ぶ必要はあります。様々な環境でどのような言葉が発せられその環境がどういう方たちで組織されどのような生活がそこに存在するか考えてみることも人生の学習に繋がることでしょう




posted by 筆文字や隆庵 at 11:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月15日

正しく語るという事

 わたし達が言葉を発するとき、心の中でよく考える習慣をつけておくことが大事であります。
日常的な会話の中で、いわゆる簡単に片づけようとする心で語ってしまう事、しゃべってしまうことが多々あります。
 しかしながらこのように「つい言ってしまった」ことを原因とした結果が生じさらに次の原因を作ってしまい場合によって不都合な展開になってしまうことがよくありますね。
売り言葉に買い言葉、言葉遣いの間違いなど、このような経験は誰にでもあるのではないでしょうか
実は歴史上の大事件なども案外このような事から生まれた誤解によって引き起こされていったケースも多々あるものと推測されましょう。

 さて、昨今の「国会」における立憲民主党議員の面々の言葉のひどさはいかんともしがたい雑言の数々、嘘が嘘をよび何がなんやら収拾がつかない状態が続いているようです。またマスコミもその点は触れずひたすら「政権批判」に報道を集中させているようであります。
 これでは「国民」のためにならないということぐらいわかりそうなことなんですがね、何か裏で何かが働いているような気がします。
 正しく語るという行為は正しい情報分析、それも自分勝手な恣意の入った情報ではない正しい真実の情報収集を行い(正しく見る)そのことを正しく思うことでしか語れないという事を知らなければならないのです。

 嘘の言葉は必ずばれます、嘘の連鎖は必ず矛盾を生み出していくからです。正しさには恣意がないこと、私心がないことが前提にあることを知っておきたいものです。特に名のある方たちに「私心無き言動」を望もう・・
posted by 筆文字や隆庵 at 11:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月11日

欠点を見る事 その2

承前
相手の欠点を指摘し 小さな過ちを見逃す習慣になってしまうとやがてその過ちは大きく発展し取り返しのつかない事態に陥ってしまう。
自分の思うようにいかなくて腹が立ったとき 胸の中の空気は少なくなっている。
大自然は一杯与えてくれているのに拒否している。血液は酸欠をおこして体調がくずれる。

非難する心が起きた時は自分自身の欠点であると自覚して修正をしていく 相手の欠点を見てあわれみの心 慈しみの心が起きた時は自分自身の欠点が修正されたと自覚する。
同じ欠点を見ても対処の仕方で 百八十度の違いがある。
どんな出来事に合っても非難する心がなく 愛の心 慈しみの心で接していきたいものである。

わたし達が住んでいる地球上の環境は 愛に満ち満ちているのであるから・・・


posted by 筆文字や隆庵 at 10:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月10日

欠点を見るという事

 人を見て主義な奴だなあーと思ったり 妬む心が起きたり 腹立たしく思いムカムカしたりこれは間違いだとして激しく非難したり このように相手を裁く心が起きた時は確実に自分の中にあるものが現れているのである。
 これを知らず毎日やっていると 作用反作用の法則通り 原因結果の法則通り後になってその報いが必ずかえってくるのである。
自分の考えや行いが正しいとして執着している間は自分自身の未熟の現われである。
 相手を非難している間は、実は自分自身を非難している哀れな姿であるという事を知らなければならないのです。
相手の欠点を見て全く非難する心がなく あわれみの心 いつくしみのこころが現れてきたときは、自分に欠点がなく たとえあったとしても自らの努力によって心を修正した姿である。

 要するに自分の心の動きは須らく自分に起因しているという事なのだ

 自分の周りに対しての思いは自分の心が現われてきているという事を認識し反省の材料とすべきなのである。
posted by 筆文字や隆庵 at 12:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月09日

日常という名の学習機会を活用する。

 人生という旅は学習すべき事態の連続体から成り立っているといっても過言ではありません。とにもかくにも日々解決すべき問題が発生します。私たちはその中から学習すべき様々なエッセンスを抽出し自らの生活を改善する手段として内外に影響を及ぼすのです。
 原因と結果という法則から鑑みると、あらゆる現象には原因があり結果があるわけですから、今私が受け取っている者はかって私が周りに与えたものであるという事なんです。
 善の原因には善が、悪の原因には悪がというのが理屈なのです。

優越感と劣等感は同じ精神作用であることを理解している人は少ないが真理の裏表なのです。
これは、ともに自己中心主義のあらわれであるから結果的に自分にとって不都合な現象が起きるのです。

昨今の出来事というのは物事の存在そのものが一切「相衣性」があるのだ、という事を忘れているような言動や、政策行政が多いような気がしている。コロナ禍に於いて「リモートワーク」を進めているようだが、世の仕事の大半は現場で発生しているという事を知らないのかといいたくなります。リモート優先で経済が回るはずがありません。
 勿論不要だとは思っていませんが、優先すべき事項ではないという事です。
多くの人はそれぞれの役割の中に存在意義を見出し、職業として周りに役立つ仕事を為しているが一方において多くの人は消費者でもあるわけですから、そのバランスを保っていかなければならないのです。

 ですから、今私が受け取っている者はかって私が周りに与えたものであるという事なんです。原因と結果が一つのサイクルを創り上げさらに循環していく。そうやって多くの人は人生という旅の目的を知ることになるのです。


 

 
posted by 筆文字や隆庵 at 11:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月06日

正しく思う

先思後動という言葉を聞いたことがあります。行動の前には必ず何らかの思いが先にあるという事であって思う前に行動があるわけではないのです。
当然といえば当然なのですが、日常そのことを認識している人は少ないのではないでしょうか。
さて、思うという心の働きがあって行為が後からついてくるのである。という事をよく考えてみたいと思います。
 心の中で思うことには二種類あってひとつは表面意識で思うという行為ともう一つ潜在意識で思うという行為があるという事はよく知られています。例えば○○をしようという意思があって動く場合といちいち思わなくても動く場合があって前者は表面意識が大きく働き後者は潜在意識がその任を担っているとはよく聞く話であります。
 人の神経系統においても手や足のように動かそうといちいち思うことによって動く他律神経と考えなくても心臓や胃腸などの内臓を動かしている自律神経があるように。
もっともその自律神経は潜在意識によって大きく左右されるものでもあり、心の働きに影響を受けているという事も分かってきました。医師はさしたる原因がつかめないような、血液検査やスキャニング検査やその他の近代的な検査からも発見できない体調不良の患者さんにはこのように言います「自律神経失調症」と・・要は現代医学の限界という事でもあります。
 表面的に何の問題もなさそうな人が内臓疾患で苦しんでいるとかよくわからないけど体調が悪いなどといっている人も良く見かけます。
 心構えが不調、病を作っていることに気付くことが大事であり、潜在意識がそのことを気づかせてくれているともいえるのです。思いが現実を作るための一歩であることを認識したうえで、話を「正しく思う」という事に戻します。
 正しくとわざわざ言っているのは正しくない思いもあるという事です。という事は正しくない思いを捨て去っていけば残った思いが正しいというわけです。では正しくない思いとはどういうことを指すのでしょうか、自己中心のものの考え方が蔓延するとき究極的には争いに発展するということは過去の歴史が物語っています。当然のことながらそこに「原因と結果の法則」が容赦なく働いている事を知らなければならないでしょう。
posted by 筆文字や隆庵 at 13:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月04日

正しく見るという事

わたし達が有している生命活動に欠かせない五感という機能は、次の点に集約されています。
 目で見てとらえる事の出来る現象から物事を認知し判断することから始まりますが、単純に表層的な部分のみ、それも自己の思い込みや体験、好きとか嫌いといった感情、損か得かといった打算、といった自己中心的な考えといった「フィルター」をかけて認識してしまう場合が多くありませんか、こうした見方をしていると大きな過ちを起こしてしまうものです。というより明らかに間違いの元となりえるのがこの「目で見る」という事に正しさが要求される所以なのです。
 お釈迦様が説かれたこの世を調和へ導くための第一のカギが「正しく見る」という事なのです。この正しく見るということが出来ないと間違って見るという事なのでありますから正確な判断が出来ないのだという事になるのです。
これは間違った診察をした医者が正しい処方が出来ないという事と同様であって事態は悪化していくという事になるのですがここでの論はここまでにして(当然悪化を止める手立ては存在しているという事なのですが)、正しく見るという事に関してもう少し論じてみようと思います。
 そもそも論なのですが世の中に起きている現象そのものを私たちはすべて知ることはできませんから、身近に起きている事 もっと言えば私たちに直接関連する出来事について正しく見る方法というものを考えたいと思います。
 いろいろな瞬間にいろんな現象が発生しています。その現象そのものは流れている時々に意図的であろうと無意識的であろうと何らかの原因から生じているものであり、それは自然の法則である「原因結果の法則」から一歩も外れる事の出来ないのです。
 まずはそのことを理解したうえで見るという事が大事なのです。正しく見るという事は現われの現象の背後にある原因を突き止めるといった心構えから「善意な第三者」として自我を捨ててみるという行為が必要なのです。自分中心の考えだと目が曇り正しくものごとを理解するに能わずという事になるのです。
 冷静に物事を見る習慣を身に着けたいものです。
posted by 筆文字や隆庵 at 10:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月03日

4月始まりの手帳へつなぐ

 毎年この時期になると、一年間使用してきた手帳や業務日誌を整理し次年度へとつなぐ作業を行うのですが紙面の都合上3月と4月の一部が重複するように構成されているのです。
そこで、新年度に移管するときにしみじみと1年を振り返ってみるわけです。凡そ1年間の出来事、詳しく書いていたり簡単なキーワードだったりと様々あるのですが、一つずつ思い出すとこの年も色々ありましたと再認識することが出来ます。
 良いことも悪いこともその時々に起きたこと、心の動きなどつぶさに記憶にとどめておくとその都度の出来事の原因は何だったんだろうか、計画したとおりだったろうか、自分に関与した問題がいくつあったろうかなど思い起こし成功は成功 失敗は失敗として各々の原因を確認しながら次年度へとバトンを渡していくのであります。

 出来事の中にはずいぶん前に作った原因から起きた問題や、瞬間的に作った原因から生じた現象等様々なことが一見して脈絡のないように思えるものが実は整然と起きた問題であることが理解できます。こういった確認作業をノートを見ながら八正道に基づいて行っていくわけです。
だから、よい縁を求め良い行為を為していく中で良い結果を受けるか、はからずも求めてもいない悪い縁に引き込まれ悪い結果を受けるかはすべては自己責任だという事になるわけです。
 お釈迦様は「悪因悪果」「善因善果」といわれています。

ではなぜ悪因に引き込まれるのであろうか、それは自分さえ良ければいいという自己中心的なものの考え方によって自らの思いや行動を為してしまうからなのです。

心の中になんのわだかまりも引っ掛かりもなく、健やかで陽気であはは おほほと笑う暮らしが出来るのが理想でありそれを妨げている要素が何か、それを知り取り除くことが理想の暮らしに近づく方法なのです。物質至上主義が限界になってきている昨今です。

とにもかくにも今年の手帳に引き継ぎます。

IMG_1241.JPG








posted by 筆文字や隆庵 at 13:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月02日

考察すること

今の日本を考えると、「これはダメ」という出来事がもう何十年も続いているような気がします。
それでも、日本は必ず良くなります。一人一人がダメな今に気付き、こうすればよいと気づき、「このようにするとよい」と考え動き始めた時から、良い方向に進むのです。
現代社会の情勢を考えると様々な現象が私たちにたいして「それは間違っているよ」と、言っているように見えます。
 自然現象で言えば地震、竜巻にはじまり政界財界においては指導力不足、一般社会人においては足ることを忘れ去った欲望、自己さえ良ければといった自己中心主義、交通事故に疫病、自殺、殺人、うつ病など・・・これらの結果には必ず原因があります。
 社会のせいだとか、政治のせいだとか誰彼のせいだとかいって目を閉じるのではなくこの現実に、まず気づくことが大切です。

 現状を把握するといくつかの問題点は凡そ次のようなものであろうと推測できます
1. ものを深く考えなくなった。ことにより「判断力の欠如」がみられる、薄っぺらで表層的な意見に左右され物事の真実を追求する粘り強さがうしなわれていると思われる。
2. モノを大切に扱わなくなった。感謝の心が忘れられている
3. 自己中心の人が増えた。相関関係の欠如。

 これらの現象は一体どこから生じたのであろうか原因を探ってみると、私たちの暮らしの中に入りこんでいる「マスコミ」の存在が大きいのではないかという考えに行きつきます。
 マスコミという視聴覚拡大傾向は、特にテレビ、パソコン、スマホなど次から次へと情報を提供し考える余裕を与えないほどコマーシャルや番組、特にワイドショー等の影響は大である。
 情報はその真偽に疑わしいものも含めて無防備な人々の意識に入り込んできます。何気に見聞きしている無意識の領域に入りこんでしまうものであり、知らず知らずに「洗脳」されているわけです。
 学校教育においては、暗記主体、前例踏襲という意味も含めたテストが出来れば高学歴を手に入れることができ出世できるとばかりに「テクニック主体」の学習が主流となってきており、それらの結果として判断能力の欠如した「社会のリーダー」たちをたくさん生み出してきたのも事実であります。
 情操の何たるかを知らぬままに知識だけは一応身に着けていて、子供のころから試験勉強だけは出来るといったいびつな環境下にて育ったエリートもどきの排出そのものが現代の日本の体たらくなのではないかと思う次第であります。
 家庭に於いては反抗的な人を急増させるような教育をしているといっても過言ではありません。たとえば親が子供を育てる過程で、親の意志を押し付け子供の才能を引き出そうとしない。子供は自分を理解してもらえない寂しい心を反抗することで訴えているが、親は気づかない。もしくは生来の素直さのあまりいつまでたっても親のいう事に従うような主体性を失っていく場合もあります。いずれも親が子供に与える影響によって生じるものです。
 ある政党の代表が「母が言っているから・・・」などとテレビで発言して失笑をかっていたことを思い出します。

子供は親のいうとおりにはしない、親のするとおりにする。

国の教育の在り方はこの70有余年の間に大きく変わってきてしまいました。何度読んでも納得する「教育勅語」「愛国心」「情操」などといったよきものを捨て去り、いわゆる「物質至上主義」を中心にした味もそっけもない「教育」が主となっていきました。
これを是正するのには100年近くかかるでしょう・・・是正しようと思っている人が増えることを期待します
国家100年の計は「教育」であることを肝に銘じたいものです。
 それには「家庭教育」が大切であり、その中心的な役割は「親」つまり「夫婦」の在り方が大きいと思う次第です。ジェンダーのひずみが家庭そのものの問題を生み出してきたと思う次第です。これは私の「思想」ではなく「普遍的な自然法則」なのです。
 人生は各人が思うことによって行動を引き出しその結果として良きこと悪しきこと、喜びや悲しみや様々な出来事を体験するものだ。
あらゆる結果はその思うことと行うことで作り上げた原因により発生するのであるという事をまず知らなければならないのです。
 「原因と結果」は宇宙を貫く法則であり何人たりともこの因果から逃れることはできません。
国家が今おかれている現状は過去の行状の結果、つまりはリーダーの在り方、国家観というある種の哲学的概念の継続性と、それに導かれひきいられる国民の総意によるはずなのですが、昨今の現状を鑑みるに「マスコミ」という名の情報発信力の影響下にあるという事を危惧するものであります。
顕著な事例として昨今の「コロナ禍」本来は「武漢肺炎」というべきものにもかかわらず中国に遠慮してか「新型コロナ」などという言葉で表現されている報道姿勢を考えるとなんか違和感を覚えてしまいます。世界の中の我が国の感染者数をみると明らかに抑え込みには成功しているように思うのですが、テレビも新聞も「悲観的な口調」で過去最多、今日の感染者、重症者等深刻な表情で謳っています。果たして正確な数値のすべてを発表しているのでしょうか、陽性者の定義も発症者の状況もその内容が不明確、例年発生している「インフルエンザ」との比較や退院者の数、実行再生産数等の発表など行われているのだろうか。行われるとしてもその定義に関して説明があっただろうか、ただひたすら「大変だ大変だ」とあおってはいないだろうか、また緊急事態宣言」等で飲食店に負担を求めているが納得できる「エビデンス」は説明されたか、また飲食店関連の業者に関して対策はあっただろうか、政府も識者といわれている学者たちも納得できる説明がなされているようには思えない。
 ある番組で「コロナウィルス」そのものはそんなに恐れることはなくすでに「集団免疫」が出来ているといった専門家の先生(たしか京大でした)
の意見もあったのですが、もうテレビには出ていないようです。
 テレビ局の意向に沿わない意見は言えないのだという事もきいています。いずれにしても多くの意見ではなく選択された意見しか出せないのであるならば私たちは、自らが自らの考えで判断するしかないのでしょう。
これら一連の事態は原因となって結果を作っていくものであります。
 マスコミは「反政府」に舵をきっており野党も同様であり、地方の自治体も政府に文句をいうだけ。有識者もだんまりをきめ込み医師会に至ってはまるで「他人事」のような発言が相次いでいます。
 現実的代案のない批判は昔から書生論といってとるに足らない事とされているのを知っているのだろうか。
少しでも建設的な意見が出る事と実行していくことを待つ前に、私たちはもっと賢くならなければなりません。
場合によっては赤貧に甘んじなければならない事も覚悟し、自らの人生観を見直すことも視野に入れながらこの危機を乗り越えていこう。
という事は、新たなる原因作りに励もうという事であり、そのためにも私たちは八正道を行じなければならないのですね。



posted by 筆文字や隆庵 at 10:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする