2021年04月28日

神の愛

 宇宙と霊界に遍在する「神の愛」とは一体どのようなものでしょうか。という前に「神」とは何でしょうか、そもそも名前などあるのでしょうか、そもそもそんなものは架空の世界の話であって存在すらわからないもので、あくまでも人間が想像した産物、形而上学の中にあるものと考えているのではないでしょうか。
 現代科学では凡そ46億年前に宇宙がビッグバンによって誕生したといわれていますが、それ以前はどうなっていたのでしょうか、何かが宇宙を創成したのだというのが聖書創世記に書き下ろされ、また日本の神話においても古事記の冒頭は国造りの在り方が擬人的に記述されています。時とところを替え人種の境界もなくほぼ同じように記録があるという事に不思議さを思わずにいられません。その何かを便宜上「神」と呼んでいるわけです。即ち「ありてあるもの」という解釈が最もその存在を言い当てているような気がします。

 永い人類史上で神はどういう言われ方や存在が認められてきたのでしょうか、多くは神の意識の仲介者であると自認している「教会」「神社」「仏閣」などに祀られている者が神であるといわれてきました。その場合神には人格があり、性格があり、好き嫌いがあり、民族間格差がありという具合に勝手に仲介者によって解釈がなされその多くが現在まで影響を及ぼしています。

 このブログで紹介している「シルバーパーチ」は次のように述べているのです。
私達は一片の信条、一冊の経典、一宗一派にこだわるものではない。ただ生命である神、その永遠の法、これに命を捧げるものである。

 つまりは○○教とかは一切関係なくただありてある「神の愛」によつて生きているという事を実感するのみであります。

また、天地創造の順序方法に関しては「人間釈迦T」高橋信次著 157頁 お釈迦様の偉大なる悟りに詳しく描写されています

・・・この大宇宙は神によってつくられた。大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけが、そこにあった。神はその意識の中で意思を持たれた。大宇宙の創造は、神の意思によって始まった。
意識の働く宇宙と、物質界の宇宙の二つの世界を創造した。意識界の宇宙はその意思をもって物質界の宇宙を動かし、そうしてこの二つの世界は、光と影という相関関係を通して、永遠の調和を目的とすることになった。神の意識は、永遠の調和を目指し、そうして、二つの世界にあって、調和の要である中道という法秩序の中に住まわれることになった。
 人間は、天地創造とともに、神の意識から別れ、神の意識を受け継ぐ万物の霊長として産声を上げた。人間の誕生は、意識界という実在の宇宙に、まず姿を現した。そうして、神の意思である調和を目指す神の子として、物質界に降り立ったのである。物質界に降り立った人間を、地上のめで見るならば、大地の片隅に忽然と物質化されたといえるだろう。人間以外の動物・植物・鉱物もこうしたプロセスを経て大地に姿を現した・・・・

 是非ご一読あれ

 とにもかくにも私たちは神の意思によって地上界と霊界を行き来しているのです。
 このことが「神の愛」を知るために必要なのです

 ・・・





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2021年04月24日

神の経綸

 私たちの一挙手一投足は、好むと好まらずに関わりなくすべて天の元に明らかになっているのであります。その証拠として自分に対して決して嘘は付けないのであって、自分自身をだますことはできないのです。
 中国古典 孟子による言葉として『天網恢恢疎にして漏らさず」とあり、どんな内緒にしていた悪事も必ずその報いとして天罰が下されるであろうという事ですが、逆もまた良きこともちゃんとその報いがあるという事になるわけです。
 自己主義から他利主義にいたる道のりが地上界に居する私たちの大切な修行科目であることを知らなければならないのです。
物質という限りのあるものを絶対として追い求めていけば必ず利己主義という思いが働きます。現代社会はこの物質至上主義におかされ人間性を失った地獄の様相が日夜繰り返されているような気がします。

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2021年04月22日

実在界と現象界

 死んだらどうなるという話から分かることなのですが。霊界がホントの世界であってこの地上界は仮の世界であるからひと時たりとも形状を維持し固定化することはあり得ないのです。つまり「物質は変化する」という事こそがこの世の仕組みであって、これを「諸行無常」というのです。またその無常の中に変化しえない存在が同居しているのです。人間の魂そのものは増える事もなく減ることもなく生まれる事もなく死ぬこともないのであります。
 変化していくものに対して変化しないものが同時に同居しているというのが、「色即是空」「色心不二」という事であって空しいという解釈は間違いなのです。
 西洋における「聖書」という存在はイスラムでは「コーラン」東洋では「仏典」ということになるのでしょう。私たち日本人にとって神社神道及び仏教というものはとても身近なものとして意識させられるわけですが、元をただせば今から2500年ほどの過去に人間の道を説いたゴーダマシッダルタという方が説かれた話を、それぞれの弟子たちが如是我聞・・私はゴーダマ仏陀からこのように聞きましたという話を文章化したもの、もしくは歌にしたもの、寓話にしたものといった形状にて残していったものなのです。
 それが現在お経という形で残っている訳なのですが、そもそもゴーダマ仏陀はインドの方でしたから、今のような漢字で教えが残っているという事も変な話ですよね。まして2500年前のインドの言葉ですからその言葉が現代も通じるわけがないと思うのです。要するに2500年前のインドから今の日本までの時間と距離を考えたときに数知れない人々の口伝えから現代にまで物事が正確に伝わってきているかははなはだ疑問に思うところではあります。
 しかしながら人類の叡智は古代インドの文字からどのような地理的経緯を経て、言語を解読しながら突き止めていったその努力には頭が下がる思いであり貴重な人類史としても大いなる業績であったように思うのです。

 また、無理のない話ではありますが現代において仏像の前でお経をあげるという事がいかに滑稽な事であるかについては従来の陋習という事で疑問なく行われているに違いないのですが、お釈迦様の仏像の前にでてお釈迦様に対して2500年前にお釈迦様が説かれた教えを唱えるという事になるわけでして そこに矛盾を感じないのでしょうか。
 遡って考えるに、インドで説かれたお釈迦様の教えはチベットを経て中国にわたり、そして体系化されたものが伝教大師最澄によって日本へ持ち込まれたのですが、漢文でかかれたお経を当時の日本語に訳されなければならない事から一部の学術者、高僧のみにしか広まっていかなかった。
その後日蓮、法然、親鸞といった方たちによって大衆へと広まっていったのです。
 聖書と同じく時の権力者によって都合よく解釈されたものが現代まで続いています。
 それにしても現代唱えられている「お経」も難しい言い回しであり、本来お釈迦様が2500年前の大衆に対してそんな難しい言葉で道を説いたでしょうか、仏教の根本精神とは本来そんな難しい言葉で説かれたわけではないでしょう。

その鍵を解くに最適な図書として 高橋信次著 「人間釈迦」T〜W をお勧めいたします。
posted by 筆文字や隆庵 at 13:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月21日

生きていくのに必要なもの

 肉体人生を生きる現在の私たちにとって物質の存在は否定できません。肉体を維持するためには食べなければならないし、気候の変動や危険回避のためには住むところも必要だし、当然衣服も必要なのであります。
 また、日本という国家に居を構えているという事から我が国を大切に思い、居住している地域の調和を求める事も、最小単位ではあるものの家庭や個人という存在もないがしろには出来ません。治国平天下という言葉があるように私たちの世界の平和に対する貢献の仕組みはこの言葉に収斂されているような気がします。
 世界平和の前に治国・・各国が自国の調和を図っていくこと。これは内政という事柄で政治家の力を存分に発揮していってもらいたいものです。一般の国民の代わりにあらゆる生活分野特に経済や衛生問題、何より防衛、外交という分野こそが日本国の政治の要でありましょう。つぎに地方地域のことに関しても同様、地方自治体が最も適した仕事に全力を尽くしてもらいたいのが知事をはじめ地方議員の役割でありましょう。付随して公務員の方々の奮闘もそこに集約されるべきです。
 では、大多数を占める一般国民である私たちがよりどころとする事とはどんなことでしょうか、斉家・・・家庭の調和、平和こそが大切であり
最も身近な家庭という名の組織が平和であることだといっています。そしてその家庭内の平和を担保するのが修身という事になるのです。

 あの世という存在があり、この地上界での目的がわかれば当然のごとく修身という徳目に行き着くはずなのですが、多くの人は間違った知識や習慣、人類が持ち越している悪の想念などに影響され本来持っておくべき゛愛と慈悲゛の心を見失っているかの如き世相を作ってしまっています。
 過去に遡ってみてもこれらの教えは言葉は違えても同様な意味を言い伝えてこられたという事を認識しなければならないと思うわけです。人類の歴史上最も近い過去に「イエス・キリスト」といわれる大覚者が地上の世界に生を得られ、多くの民にあの世の存在、生きるすべに関し伝道していくのですが、その際に行く手の障害になったのが「モーゼ」の教えであったとされているユダヤ教だったのです。そのユダヤ教もモーゼの神の教えが、真実の教えが、時の権力者によって聖書が書き換えられ間違ったものが一般大衆の間で広まっていたという不幸がありました。「イエス」はその過ちをも伝えなければならなかったのです。結果的に十字架にかけられるという前代未聞の出来事で地上での生命を絶たれてしまったのです。しかし、その後の経過を考えるとわかるように「イエスの教え」は全世界に伝播していったのです。これが今から約2,000年ほど前のお話です。

その後はまた、時を過ぎ間違った解釈がまたもや大衆の間に広がっていってしまいました。

・・・・参考図書 高橋信次著「心の発見」より




posted by 筆文字や隆庵 at 12:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月19日

地上人生の目的

 一人ひとりの人間が至った霊的成長レベルのことを「霊格」と言いますが、その霊格が死後の霊界での階層を決定することになります。霊の世界での生活が永遠であるのに対し、地上人生はほんのわずかな時間にすぎません。この事実は地上人生の目的が「魂を成長させて永遠の死後の世界に備えること」であることを示しています。地上におけるつかの間の人生によって゛永遠の世界゛での幸福が決定されるとするなら、地上生活を送る私たちは、何よりも自らの「霊的成長」を自らの人生の第一目標としなければなりません。人類にとっての重大な哲学のテーマの一つが「人間は何のために生きているのか?」というものですが、その答えは「魂の成長・霊的成長」という一言で言い尽くされてしまうのです。
 しかし、現在の地球上には「自分の心を成長させることが人生の目的である」と断言する人はめったにいません。心の大切さを強調する人はいますが、霊的成長こそが地上人生の目的のすべてであると主張する人は稀有な存在であるといえます。
 一方霊界においては一人一人の霊が自分の霊的成長を人生の最大目的とし、それを求めて歩み続けています。霊界人が霊的成長にかける熱意は地上人が物的資産獲得のために抱く執着など足元に及びません。それほど霊界では、霊的成長がすべての人々の願望となり、人生の目的そのものとなっているのです。この点で霊界人と地上人では、天と地ほどの違いがあります。

 ではなぜ地上世界の存在があるのでしょうか、これこそが「神の意思」なのです
神は人間が成長を為すにふさわしい環境として地上世界を創造され、そこで生きていくための道具として肉体を与えられました。地上が霊界と比べて極めて粗雑で何をするにも困難な伴う場所であるのは、人間の霊的成長を効果的に促す場所として、神がそのように計画されたからなのです。
 それこそが神の愛であり慈悲なのです。

こうした「神の愛・慈悲」の存在を私たち人類に伝え導いて下さる大指導霊といわれる方々がイエスであり、釈迦でありモーゼであるわけで時代時代にひそかに肉体を持たれ人として生きる道を教えて頂いていたという事を私たちは忘れてはならないのです。





posted by 筆文字や隆庵 at 10:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月15日

人生の目的と使命

 永遠の生命を頂いている私たちには、共通の目的があるのです。その目的が何であるかを知るにはまだ相当な時間を要する必要があるかもしれません。いや ただ漫然と生きているだけではどれだけ時間を使ってもその目的を知るというところまでには至らないと考えます。
 まず、人生の目的とは何かといった深淵なる思いすら持たず日々をいたずらに費やしているのが事実かもしれません。
実はその目的を知らぬという事そのものが、私たちの身の回りに多くの弊害を生み出しているという事を認識しなければなりません。
 日々私たちは本来の目的を知らぬために間違った情報に引きづられて本来の自分を忘れてしまいがちになります。
人は、意識的にせよ無意識的にせよ引き込んでいった情報を元に反応するようになっています。それは潜在意識のなせる業なのですがそのため自らの目的ではなくその情報発信者の目的達成に巻き込まれてしまうのです。
 特に取るに足らないような情報に振り回され貴重な人生時間を無為に過ごしてしまっている愚を改めなければならないでしょう。そもそもテレビや新聞から流される問題などが私たちの日々の暮らしにとって重要なのでしょうか、
 自らの生命を運んでいる私たちにとっての共通の目的とは一体どのようなものでしょうかという最初の自問に戻ると 次の点が明らかになってきます。
 まず、日々が平和で幸せであるという実感があるか、その中での自分の存在感は自分で確かめられているかに関して考察してみましょう。本来の自分、元々の自分は平らかで幸福であるのですが実はそのことを妨げている障害となる事象があるわけで、それは様々な場面で展開されています。 
 どんな場面があるかというとそれはある時家庭の問題であったり、仕事場だったり地域社会の近所づきあいの問題だったり、さらにそれらの原因を追究していくと、健康問題や経済問題などが派生はたまた思想的問題などさまざまな模様が現れては消えていく、その繰り返しが世相というものかもしれません。いずれも行くつく先は「人間関係」というものに収斂されていくのです。
 集約すると私たちの幸福を担保するのは「身体の健康」「経済の健康」そして「心の健康」という三つの要素をまんべんなく充足されている状況を無理なく維持するという事に尽きるかもしれません。

しかし、その状態を維持することが即「人生の目的」になるかというとそうではなくそれもまた手段の話なのです。(手段とはいえ大切で重要な事柄ではあります)
 永遠の生命活動を行っている私たちが目的としているのは「霊的成長」なのですからそれ以外の手段を目的にするとどこか納得していないと
いう心に自らが気づくのです。
 それはなぜか?





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2021年04月11日

地上付近をうろつくよからぬ霊

 霊界には地上人に悪なる影響を及ぼす未熟霊もいます。こうした霊たちが、地上人を絶えず霊的成長の道から逸らせようと画策しているのです。その邪悪な霊たちとはいかなるものたちなのでしょう、
⑴地縛霊の存在とは・・・地上でつくりあげた魂のレベル(霊格)がその人間の死後の状態を決定することになりますが、地上生活をただ物欲や肉欲の追求だけで終えた者は霊的成長がなされないどころか肉体本能性の染みついた魂をつくり上げてしまいます。そうした人間は霊界に入ってからも「死の自覚」を持てず、いつまでも゛地上で生きているのだ゛と思い込み、そして地上時代のように、物質的・本能的欲望を追求し続けます。
 ここでも波長共鳴、類は類を呼ぶとばかり地上の同類の人間に取りつき、その人に働きかけて自らの物質的快楽を味わおうとしたり、悪の道に誘い込もうとします。
 現代においての「猟奇的殺人や、まともでは考えにくい犯罪など」は彼ら地縛霊の跳梁を許してしまっている地上人によって引き起こされていますが、多くはというかそのすべてと言ってもいいでしょう。罪を犯しているにも関わらず「ニヤニヤ」と笑っている映像などよく見る現象であり言っている事のつじつまが合わないという特徴が物語っています。

 地縛霊は、このように自分の死を自覚してなく地上意識を取り除くことか゛出来ずにいるかわいそうな存在でもあるわけです。
こうした霊たちは、いまだ物質的なバイブレーションが残っている地上に近い下層に限られている場所に住み着いているのです。特に地上人の物欲や肉欲の渦巻く場所などが格好の住処なのです。

霊界全体から見れば狭い箇所に限られているため地上人の心が「怒り、愚痴、妬み、嫉み、自己中心的な心」を持たないようにしていれば何ら問題はないのです。


posted by 筆文字や隆庵 at 11:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月09日

あの世での暮らし

 地上にて生活していた時に使っていた肉体を原子肉体といい時が経過するとともに劣化していきいずれ滅びてしまいます。
しかし、その原子肉体にピタッと張り付いていた、というか原子肉体が張り付いていたといたといった方が適しているかもしれませんが・・
そのもう一つの肉体そのものが本来の姿なのであってそれは光粒子のようなもので構成されています。それを光子体と呼んでいます。
 その形の特徴は地上で暮らしていた時と同じように存在しているのです。
だから、誰なのかはわかるという事になるのですが地上と大きく異なるのは年を取らないという事なのだそうです。
 ただこの世で悪事を働いてあの世の最下層に住んでいる霊たちは心のままの表情が現れますから鬼のような顔や、蛇やキツネやタヌキのような霊たちも存在しているのです。
 それは生前自己中心的に生きてきて、他人のことなど気にもせずわがまま三昧に生きてきた人たちの形相なのです。・・・この内容は高橋信次著
「心の発見・現象編」その他のご著書に詳しく記されています。
とにもかくにも地上でも働いている原理原則、波長共鳴の法則によって私たちのあの世の生活場所もおのずから決められているのです。波長の鈍重な世界は地上と地上に近い場所であり精妙な波長の世界になるにつれ物理的には高い場所になるという事なのです。
 一般的な人々から見ればはるかかなたの上空に「イエス」や「仏陀」の世界がありその下には仏教的に言われている如来、菩薩の住んでいる世界が今も存在しているという事になるのです。
 その方たちの体は
光り輝いており地上界のひとたちから見れば黄金の玉に見えることでしょう。その特徴的な様相が多くの画家たちが描いたイエスキリストの頭上の輪であり仏像の後光なのです。

 ・・・そなた達もいずれはそのようになるのであります・・・とお釈迦様の説法にあります「如来寿量品」にて・・・
posted by 筆文字や隆庵 at 09:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月07日

間違った宗教の影響力の大きさ

 生前、宗教によって「死」に対する間違った知識を身につけてしまうと、死の自覚に決定的なマイナスの影響を及ぼすことになります。周りの霊たちがすでに死んでいることを教え、地上時代の宗教の間違いをを正そうとしてもね一切受け入れることが出来ません。その結果、長い期間地縛霊として地上近くに留まり続けるようになってしまいます。
 シルバーパーチの交霊会で、地上生活時代に受けた間違った教えのために魂の進化が阻害されている霊のことが話題になりました。
それに対してシルバーパーチは、次のように述べています。

「最後の審判日を待ちながら、死体の埋葬されている墓地で暮らしているクリスチャンの霊がいるというのは、事実その通りです。それが霊界にいる者たちにとっての厄介な問題の一つなのです。
 教会で聞かされた通りのことが本当に起きるものと信じ切っているのですから、自分からその考えに疑問を感じるようにならない限り、傍からはどうしようもないのです。
 イエス様の復活と同時に「千年王国」が来るのだと信じ切っているしそのことに疑問を持ちその信念がくずれない限りいつまでもその世界からは抜け出せないでいるわけです。「復活の日」がくるまで待ちますといってその場にとどまっているわけです。

 死の自覚を持たないままくらしているのです。

さて問題は、そうした他界者(霊)の側だけにあるのではありません。地上に残された人間が、いたずらに死を悼み、哀しみ続けることも大きな問題になります。地上の遺族が死者に対して未練を持てば持つほど、他界した霊はその遺族のエネルギー(念)に引き寄せられ意識が地上に引き付けられたままになるのです。
本来、死は悲しむべきものではありません、永遠の別れだと思い込んで悲しんでいるのは地上に残された人間だけであってね当の本人(霊)は生前と何も変わらない様子で生きているのでするしかも真実の愛にで結ばれた人とは将来必ず霊界で再会できるようになっています。死はすべての人間にとって新しい世界への旅立ちを意味し、物質世界の鈍重さから解放してくれる喜びの時なのです。では他界者(霊)への正しい対処とはどのようなものでしょうか
 それは、地上に残された人間が死に対する正しい知識を持っていることが不可欠です。もし死後時間が経っているにもかかわらず、遺族の夢の中などに死者の霊がしつこく出てくるようなことがあれば、その霊はいまだに死の自覚が出来ていないと思って間違いはありません。また、自分の墓についてあれこれ注文を付けてきたり供養を要求してくるような場合も地上への意識があまりにも強すぎて「霊的意識」が目覚めてないことを意味します。
 そのようなときは、地上の人間が・・・「あなたはすでに死んで、そちらの世界での生活が始まっているのです。いつまでも地上のことを心配してはいけません。あなたの傍すぐ近くに、あなたを導いてくださる゛守護霊゛がいらっしゃいますから、その方の指示に従っていきなさい」と教え諭せば、真の道を、進歩の道を早く歩み出せるようになります。これが真の意味での「先祖供養」であり「死者への供養」なのです。
霊的自覚の乏しい先祖の霊に、死んだことを自覚させることが本当の意味での先祖供養です。位牌を作ったり読経をしたり、花や果物などの供え物をしても本人の霊的意識の向上には何のプラスにもなりません。いったん本人に「死の自覚」が出来ればもはや先祖供養など必要ではなくなります。あとは守護霊、指導霊に任せればいいのです。

現在地上における宗教の死に対する無知は目に余るものがあります。人々を教え導く立場にある宗教家という者たちがね死についての事実をまったく知らないという実情は゛悲劇゛としか言いようがありません。現代の宗教の多くは゛形式的儀式゛という何の意味もないものを大事にし、それを人々に勧めています。こうしたことは、他界した者地上に残された者双方にとって大きなマイナスを生み出すだけなのです。

続く・・・

posted by 筆文字や隆庵 at 09:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月02日

死後しばらくして

 承前
さて、守護霊によってはじめに病院のような休憩所に連れていかれます。そしてそこにしばらく滞在することになります。死んで間もない者は、いまだ地上の波動を持ち続けているため、これから赴く新しい環境(霊界)には、そのままでは適応できません。霊的世界に入るための準備として、ここでもう一度休息の時間を過ごすことになるのです。風呂に入ってまどろむような半醒半睡の状態の中で霊体の調整がなされます。
 このまどろみの最中に、地上での一生の行為や歩みがスクリーンのようなものに(そのスクリーンは現在の立体ピクチャーモーションでありのままの形として3次元の姿です)映し出されていてそれを見ながら、自分の人生の善し悪しを自らが判断することになるのです。
 地上で為すべきことをしっかりしたかどうか、エゴ的な動機から行為に走って他人を苦しめるようなことをしなかったか、何が地上人生で足りなかったのかを知ることになるのです。人によっては地上時代に隠していた悪事が目の前に示されることになります。実はそれが、これまでの宗教で言われてきた「最後の審判・死語の裁き」の実態なのです。
 休憩所で一定の期間を経た後、新参者は生き返ったようなすがすがしい霊的意識をもって再び守護霊に連れられて霊の世界へと入っていくことになります。
以上が、平均的な人間の死の直後の様子ですが、生前から死についての正しい知識を持っていることがいかに大切か、という事がわかります。
人間は死を迎えてもそれで存在がなくなってしまうわけではなく、霊として永遠に生き続けるという事実を知っていることは、自分の死を自覚するためにとても大切な事です。
死ねば、それですべてが終わると思い込んでいた人は、いつまでたっても自分の死を自覚できません。死後にも生があることは厳然たる事実であり地上生活中に必ず知っておくべく常識なのです。

他界後は、死者が自分の死を自覚しさえすれば、次に進むべきプロセスが自動的に示されるようになります。したがって死についての正しい知識の有無が、他界直後の運命の分かれ道になってしまいます。
尤もすべての人間も同じ結果になるのですが、そうなるための時間経過が地上的に言うと何百年もかかることになるという事です。

ある「霊界通信」では次のように述べられています。

「現代では、こちらの世界(霊界)に入ってくる多数の者が、自分の死を意識していません。そのためこちらへきて彼らは、あなた方が 死んだらどうなる かについて知っている事を何も知らなかったのです。
 次回・・間違った宗教の影響力の大きさ「千年王国」の間違いについて


posted by 筆文字や隆庵 at 12:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする