永遠の生命を頂いている私たちには、共通の目的があるのです。その目的が何であるかを知るにはまだ相当な時間を要する必要があるかもしれません。いや ただ漫然と生きているだけではどれだけ時間を使ってもその目的を知るというところまでには至らないと考えます。
まず、人生の目的とは何かといった深淵なる思いすら持たず日々をいたずらに費やしているのが事実かもしれません。
実はその目的を知らぬという事そのものが、私たちの身の回りに多くの弊害を生み出しているという事を認識しなければなりません。
日々私たちは本来の目的を知らぬために間違った情報に引きづられて本来の自分を忘れてしまいがちになります。
人は、意識的にせよ無意識的にせよ引き込んでいった情報を元に反応するようになっています。それは潜在意識のなせる業なのですがそのため自らの目的ではなくその情報発信者の目的達成に巻き込まれてしまうのです。
特に取るに足らないような情報に振り回され貴重な人生時間を無為に過ごしてしまっている愚を改めなければならないでしょう。そもそもテレビや新聞から流される問題などが私たちの日々の暮らしにとって重要なのでしょうか、
自らの生命を運んでいる私たちにとっての共通の目的とは一体どのようなものでしょうかという最初の自問に戻ると 次の点が明らかになってきます。
まず、日々が平和で幸せであるという実感があるか、その中での自分の存在感は自分で確かめられているかに関して考察してみましょう。本来の自分、元々の自分は平らかで幸福であるのですが実はそのことを妨げている障害となる事象があるわけで、それは様々な場面で展開されています。
どんな場面があるかというとそれはある時家庭の問題であったり、仕事場だったり地域社会の近所づきあいの問題だったり、さらにそれらの原因を追究していくと、健康問題や経済問題などが派生はたまた思想的問題などさまざまな模様が現れては消えていく、その繰り返しが世相というものかもしれません。いずれも行くつく先は「人間関係」というものに収斂されていくのです。
集約すると私たちの幸福を担保するのは「身体の健康」「経済の健康」そして「心の健康」という三つの要素をまんべんなく充足されている状況を無理なく維持するという事に尽きるかもしれません。
しかし、その状態を維持することが即「人生の目的」になるかというとそうではなくそれもまた手段の話なのです。(手段とはいえ大切で重要な事柄ではあります)
永遠の生命活動を行っている私たちが目的としているのは「霊的成長」なのですからそれ以外の手段を目的にするとどこか納得していないと
いう心に自らが気づくのです。
それはなぜか?