2021年05月11日
利他愛の実践
利他愛の実践こそが霊的成長の道であります。紛れもなく私たちは神の子であり好むと好まざるにかかわらず神の法則の枠から逃れることはできません、例外なくです。つまり物理学でいうところの原因結果・作用反作用の法の中に私たちが存在していることは疑いのない事実なのであります。
お釈迦様は「善因善我・悪因悪果」といわれてます。イエス様は「まかぬ種は生えぬ」といわれています。
利他愛は創造主である神の愛を実践することが私たちの霊的成長に欠かせない徳目であるといえます。その実践がないところに霊的成長はなく、どれだけ仏典や聖書の知識があろうとも実践なき所に成長はないのです。
シルバーパーチ曰く
「宇宙に存在を与えたのは神の愛です。宇宙が存在し続けるのも、神の愛があればこそです。全存在を支配しているのも神の愛です。その愛の波長に触れた者が、自分の愛する者だけでなく、血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差し伸べんとする同胞愛に燃えます。愛は自分より不幸な者へ向けて、自然に手を差しのべさせるものです。
全生命の極致であり全生命の根源であるところの愛はより一層の表現を求めてね人間の一人一人を通して地上に流れ込みます。
好感を覚える人を愛するのはやさしいことです。そこには徳性も神聖さもありません。好感の持てない人を愛する・・・これが魂の高さを示します。あなたに憎しみを抱いている人のもとに赴くこと、あなたの気に食わぬ人のために手を差し伸べる事。これは容易ではありません。しかし、この難しいことを為そうと理想を掲げ目標としなければなりません・・・・「汝の敵を愛せよ」
かわいそうにと思える人々に優しくする、これは別に難しいことではありません。気心のあった人に同情する。これも難しいことではありません。が、敵を愛する、これは実に難しいことです。最高の徳は利他愛です。愛すべきだから愛する。愛こそ神の摂理を成就することであるがゆえに愛する。愛するという事以外に表現の方法がないから愛するまでです。
神は無限なる愛であり、自己のために何も求めません。向上進化の果てには、己のためには何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界にたどり着きます。ただ施すのみの世界です。
我欲を捨て、他人のために自分を犠牲にすればするほど、内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就し始めることになります。真の愛は、人のために尽くし、人を支え人を慰めんと欲します。愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。愛はまた滅私と犠牲の行為となって表れます。
愛の真の意義を悟るのは霊の世界に来てからです。何故なら愛の本質は霊的なものだからです。愛は魂と魂、精神と精神とを結びつけるものです。神の顕現なのです。互いが互いのために尽くす上で必要ないかなる犠牲をも払わんとする欲求です。愛は己のために何も求めないのです。
以上、シルバーパーチの゛愛゛についての説明を見てきましたが「利他愛」こそが「神の愛」であり、霊的成長の決め手であるという事がご理解いただけたと思います。
人類は地上に誕生して以来今日に至るまで、宗教・道徳・哲学によってより良い生き方、より価値のある生き方、より崇高な生き方を模索してきましたがその答えはー「利他愛の実践」という簡単な言葉の中にすべて含まれることになります。あらゆる宗教の教えは、この利他愛の実践という極めてシンプルな教訓の中に収斂されることになります。
古今東西の古文書や仏典や聖書を小難しく説明する必要などなくただ「利他愛の実践」こそが真実の宗教的生き方なのです。
宗教の宗という文字はうかんむりに示すと描きます・・宇宙を示すという意味で教は教え、つまり宇宙の仕組みを示す教えという言葉が
宗教という意味になるのです。