世にいう「宗教的生活」特に職業宗教家といった人々が修行と称して毎朝のお勤めである仏壇の前の読経。はたまた神主さんの祝詞と祈りの儀式、キリスト教会では聖書や讃美歌及びそれぞれの説法。また新興宗教とよばれている各団体における生活ぶりを鑑みる時それらはどういう理由で為されているかに関して考えてみたいと思います。
そもそもどんな理由で何を信仰しているのでしょうかね 多くの人々はまず「死という事」に関する恐れがあるのでしょう。死後の世界に関する無知から生じる言いようのない恐怖感から逃れたいといった考えが心を支配します。所詮人は例外なく死ぬのですが未知の世界と思っている以上そのことにこだわってしまうわけです。
だから、本来の職業的宗教者や学者先生たちは死後の状態に関して知らない人々に教えてあげる必要があると思うのであるが、そは如何に。お経に残されている極楽浄土とは何?具体性のない代物なのか、形而上学にても説明されているとはとても思えず単なる方便にしか伝わらない代物になっている。
死についての考察は当ブログにて何度も紹介していますので是非バックナンバー参照してください
さて、現状の宗教的背景は現世利益の在り方が多くの信者にとって重要なポイントになっているようです。神社にいくとお願いごとばかり、お寺に行くと先祖供養ばかり、キリスト教会は罪を贖い天国にいくのだといった頗る自己中心的で偽善の世界、特にある宗派は聖書を学ぶことによって自分たちは、いや自分たちだけが復活するのだという愛のない世界観を持ち日々を過ごすのである・・・いずれも現実という世界をないがしろにしているのだと思う。
一方において「潜在能力開発・・・」「成功のための瞑想法・・」などといったセミナーも形を変えた「宗教」であるといえる。確かに潜在意識云々に関しては人間の真実に近く、能力発揮の手順として正しいと思う、ただしその動機がやはり「物質主義」であることは否めない。この物質優先主義こそが人類の歴史上最も人々への影響を及ぼしたことになるのである。
つまり物質というものを信仰している「物質教」という宗教であるといえる。
神とは何ぞや・・神とは私たちの存在そのものの第一原因者であり、神自らの能力を私たちに与えてくれている父であり母であるわけです。
だから本来私たちは元々の自分に帰らなければ心が落ち着かないのです。こころ優先であり物質は二の次であることを知り、今を生きていく
そのことを自覚し実行すると必要な「物質」は与えられるものです。
次回・・・卑しい仕事についての考察