2021年06月12日

伝習録より

 人間は本来完全であり善であるという王陽明とその弟子たちによる問答を書記したものであり「陽明学」の神髄である「良知」「知行合一」がいかなる理によって成り立っているかを知る教材であります。
 凡そ「四書五経」を基本としている、人間いかにあるべきかに関しての思想哲学を元にその発展形としてより具体的な行為推進といった生き方の基本をまとめたものであり、特に「朱子学」との比較が興味深い。

 陽明は次のように述べている。人はすべからくその本質は「善」なのであるから「悪」の世界からは救われて存在せしめられている。現実にはいかほどに深刻に悪を顕現していようともそれはあくまでも非本来的要因(後天的な習得、身体的欲望など)に起因するにすぎないのであるから「本来の完全」であることを回復しさえすれば、その悪から救われるのである。そして人間は本来完全なのであるからそれを回復する能力を完全に固有するのである。

 つまり人間は自己の外に存在する救済者を必要としないのである。

 この徹底した自力主義が王陽明の思想の中核であるのです。

 一方において陽明出生時より三百数十年ほど前に説かれていた「朱子学」の提唱者「朱熹」はどのように人間の本質をとらえていたのでしょうか
朱熹もまた「性善説」主張することで「自力主義」を基本とするがそもそも「性即理」とはいうものの「心即理」とは言っていない。朱熹は心と性(創造発見力え心救済力)とは心がその性を統制下にあってこそ初めて心を介して発揮されるものと説く。

 ※「性即理」とは性・・・人間が持って生まれた本性・・・が即ち「天理」であるとする説で人間の本性は天理に適う「善」なるものである
   (性善説)という考え方である。
性とは、仁・義・礼・智・信の五常であるがこれは喜怒哀楽の「情」発達する前の未完の状態である。

 朱熹は次のように述ぺている人そのものの人生は後天的習得、身体的欲望などに深く縛されるものと苦慮し、根源来処の天理に答えを求めよ
うとしても天はものを言わない、
そのために、天理の実現者である聖人(この場合「孔子」という個別者・・・天の代理)にたいして格物に求めそれを神性化し天の意思として依存する事にて生き方を決めるという事なのです。

 実はこのことこそ陽明が朱子学を批判する骨子であったものと思われる。
posted by 筆文字や隆庵 at 09:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする