朱子学も陽明学もともに「意」を「心の発する処」と定義した。
陽明は「意」を誠意と私意に区別した。
私意は後天的であり悪を生む意となり本来完全な善であるという自らを覆ってしまうのである。
世の中における悪といった現象ははその後天的に身についた悪癖が引き起こすものであり私意がなくなり万民がともに豊かな人生を、本来は送れるはずなのである。
という事であり、悪は専ら根源的に「非在」なのである。
したがって「私意」を働かせれば悪を生じさせる危険をはらみ「誠意」を働かせれば善が生じるのである。
しかしながら現在の世界は物質主義が正義とばかりに唯一の価値観になり果てている。
八百年前に説かれた「朱子学」・・朱熹の思想として「格物論」というのがあり世のすべてのものは天理より起因しているがゆえにそれぞれの人間が有する知識、才力の分量によって比較することを覚え、結果的に「功利主義」に堕落するのである。と陽明は朱熹の論を批判するのである。
より多くの者を持つものが偉大であり、そのものの質に関しては問わないといった心を誘発する恐れがあると陽明は論じたのである。