2021年06月24日

陽明学の骨子

聖人の良知は、雲一つない青空の太陽と同様に全くさえぎられていない。賢人の良知は、片雲のうかぶ空の太陽同様に一部分がさえぎられている。愚人の良知は、黒雲のたれこめる空の太陽同様にすっかりさえぎられている。このように良知の発現に明暗の違いがあるといっても、ちゃんと黒白を見分けるという点は同じである。真っ暗な夜でも物事に黒白を見分けるのは、それこそ太陽の余光がつきていないからである。苦心して学ぶという努力をするとは、この一点の明るさを基点にしてとくと考察していくことなのである。

阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」にある言葉に「蒼天かける日輪・・・」とありますがまさしくこのことなり
人もすべては雲がかかっているように見えても実は燦然と輝く日輪は常に健在であるという事です。
したがって、その曇りさえ取り除けば光り輝く善なる存在が私たちの本質である。と陽明は論じたのです。

その曇りとは自我我欲というものでありその自我にまつわる心の動きによって現象化される不都合な状態をいうのですから、それを取り除く努力をせよ・・という話なのです

さて問題はこれらの思考は学問であるか否かという論があり、確かに「朱子学」であり「陽明学」とよびあたかも学問である訳ですがもとはといえば四書五経の発展的理論なのであり日々の暮らしから政治に至るまでの段階的な成り立ち、システムを解説したものとなります。

治国平天下は斉家、修身からスタートするのだといった考えを重点的にまとめたものに朱熹と王陽明の思想が加味されたのが14世紀15世紀あたりの江戸時代に学問として入ってきたのであります。
posted by 筆文字や隆庵 at 11:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする