2021年06月27日

陽明学からみた朱子学

 朱子学を学びし後世の人々は、格物致知という概念にて聖人となる基本は、天理そのものになることだという事をわきまえずに逆に知識の量や才能の大小ということで聖人を追求した。
 そこで、聖人は何でも知っているしどんなことでもできる人の事だから我々はぜひとも聖人の膨大な知識・才能を一つ一つものにしてこそはじめてよろしいことだと考えた。

 その結果「天理」そのものになることをなおざりにして、無意味にも精力を使い果たして書物を研究し、モノの名称を考察し、事績を調査して知識が広くなればなるほど人欲益々旺盛になり、才能力量におぼれ知が豊かになればなるほど「天理」はますます蔽われてしまった。

 知識・才能を得るための努力は否定されるものではないのだがその裏にある個の立身出世欲や財に関するためのものとなるとき人は堕落するのである。
 陽明はこの点に関して朱子学を批判したのである。
 つまり、先天的にすでに天理であるはずの私たちに後天的な個の欲という不純物を付けてしまい本来の人生の目的である人格の向上を邪魔しているのである。と論じたのである。

 ここで聖人となるための基本をわきまえていないと決めつけられているのは「朱子学徒」である。後天的に知識、学問、才力を得ることのみに努めるのはその動機によって天理から益々遠ざかるものだと王陽明は「本来聖人」を確信しきれていない朱子学を似非の性善説というのである。
posted by 筆文字や隆庵 at 09:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする