人間の行動を司っている意思というものの発信装置は一体何なのだろうか。それは心という、精神ともいうが行動そのものの第一原因はそこにあるのです。
生きとし生けるもののすべてはまず思うという行為から始まっていてその次に行動という事になります。
結果的にその行動があらゆる現象(善くも悪しくも)を生んでいくのだが多くの人はその事実に中々気づかずに物事が偶然に起きているのだろうと勝手に思い込んでいるのではないだろうか・・という事で「心」が一体どういった方向性をもって働いているかについて考えてみたいと思う。
明治の文豪夏目漱石は次のように記している
智(ち)に働(はたら)けば角(かど)が立(た)つ情(じょう)に棹(さお)させば流(なが)される 理知だけで割り切っていると他人と衝突するし、他人の感情を気遣っていると、自分の足をすくわれる。 夏目漱石の小説「草枕」の冒頭の部分。
これが心の動きというものであるがさてもう少し詳しく分け入ってみたい。
高橋信次 著 「心の原点」を参考にしてその概要を説明してみる。
日常に最も隣接し反応するごく浅い部分に存在している領域を表面意識といい、それぞれの役割をみると大きく4分野に分かれる・・@感情の領域 A本能の領域 B知性の領域 C理性の領域となっていて それぞれが一つの現象に対してバランスを保っていければいいのだが時として各領域だけが突出して自らの意思に直結してしまい、大きく判断を誤ることがあるものだ。
幼い子供、赤ちゃんの動きはほとんどというか本能と感情の領域で日々を過ごしそこに知性も理性ももだ発達していない様相を顕しているのである。
件の著書によると人はこの世に生を受ける時にはまずは両親の調和によって形創られた肉体に魂が宿るという事は、天上の世界から肉体に入り込むという手順になっていて最初は本能、次に感情、学びとともに知性そして遅れて理性という具合に特性が現われるのだと記されていてそれでも全体の90%しか現実に対応できないという事であって、この90%の潜在意識は例えていえば水中に氷を浮かべても表面に現われるのが
10%であるという事と等しいのである。同じく鉄の塊もドロドロ溶けた液体の上に顔を出す部分は10%という。これが物質の世界の取り決めなのである。と高橋信次師は述べられている。
さて、私たちは地上での生活体験を積み重ねることによって心の顕在化が進んでいく、徐々に知性や理性が発現されてくるのと同時にすでに芽生えていた本能や感情という領域との共同発信が始まるために色々と葛藤しなくてはならなくなるのである。生まれてきた環境や教育・思想習慣そして五感というものに翻弄されながらある時は智が先立ち、冒頭の草枕の如き様相に出会あうという事になるのである。
少年少女がお年頃になると恋愛という感情と本能という領域が大きく膨れ上がり知性、理性を小さくしていく時を経なければならないというのも私たちの試練というものかもしれない。
そうした様々な心の領域も単独で働くとどうも問題が大きくなりそうだという事で知性という論理的理解と理性というブレーキが適度に働くことで周りとの調和を図っていく事、これが地上界における私たちの課題なのである。