絵本でも書こうかなぁと思い原稿を準備する
「水のお話し」
私は水です
ある時は水蒸気であったし、またある時は氷の世界
にもいたし 水という液体の世界にも存在していた私は、
飲み水として人の体内にも存在したこともあり、
大地の草花の生命活動を推進したりしていたのです。
そうして様々に形状を変えた私は、今は雲という呼び名
になっているのです。
ん?年齢ですか?
たぶん地球という名の星が出来た時から数えると40
億年位かな、考えたことがないのでよくわかりません。
それより今日は私の体験話を聞いて下さい。
つい最近の出来事ですが、凡そ3200年ほど前の話です。
みなさんがよくご存じだと思うのですが「海が割れた事件」
と私たちの仲間の語り草になっているそのことです。
ある方が私たちの前に現われ大きく両手を広げ杖を空に
掲げ祈りの言葉を唱えられていたのです。
心に響く波動を持たれた方で確か周りのみんなからは
「モーゼ」と呼ばれていました。そこはエジプトという所の
近くでした。彼は当時の王様の命によって抹殺されそうな
幼子の頃、幸いにも王宮に拾われ王子として成人していく
という稀有な運命を持った方なのですがその「モーゼ」
いう方と私のかかわりに関してお話ししたいと思います。
先ほども申した通り杖を持ち天に祈られると私の周りに
大異変が起きたのです。急に何かの波動が起き左右上下
に揺さぶられたかと思う間もなく空に向かって噴射される
ようにちょうど水柱のようになってしまったのです。
しばらくはそのままの状態にとどめおかれていた下を見ると、
海の底が姿を顕しそこを何千何万という人や家畜が
荷車とともに通っていったのです。一体なぜこんなことが
起きたのか
と訝っている間に元の海面に戻っていったのです。
この時の事は後日誰かの手によって聖書という書物に神話
の如く書かれていることを最近知ったのです。
モーゼという方は神様より地球の人々を正しく導く役割を
持たれた大指導霊だそうです。
【プロフィール】
モーゼ・・・今から3200年前、独裁政治下のエジプトに奴隷の児として生まれ後王宮に拾われ王子として育てられるも奴隷という過酷な環境下にある人々の存在に同じ奴隷の児として、また人間としての矛盾のため解放させる事を神の命を受け地上に生を得た光の天使である。シナイ山にて天上界の大指導霊から 【十戒】を授かる。
2021年11月28日
2021年11月26日
欠点を見ること
人を見て利己主義だなあ、と思ったり妬む心が起きたり、腹立たしく思いムカムカしたりこれは間違いだととして激しく非難したり、このように相手を裁く心が起きた時は、確実に自分の中にあるものが現れているのである。これをしらず毎日やっていると、作用反作用の法則どおり後になってその報いが必ず帰ってくるのである。
自分の考えや行いが正しいとして、それに捉われている間は自分自身の未熟の現われである。
相手を非難している間は、実は自分自身を非難している哀れな心である。
相手の欠点を見て、全く非難する心がなくあわれみの心や慈しみの心が現われた時は自分にその欠点がないか、あったとしても自分の努力によって心を修正した姿である。
最も腹立たしい事態に陥ったらそのことは自分自身にあったのである。これを自覚したならば結果として自分に腹をたてているということになるのである。
同類であるという事を理解したならば、どんな出来事にであっても相手を非難する心がなく、愛の心、慈しみの心で接していきたいものである。
自分の考えや行いが正しいとして、それに捉われている間は自分自身の未熟の現われである。
相手を非難している間は、実は自分自身を非難している哀れな心である。
相手の欠点を見て、全く非難する心がなくあわれみの心や慈しみの心が現われた時は自分にその欠点がないか、あったとしても自分の努力によって心を修正した姿である。
最も腹立たしい事態に陥ったらそのことは自分自身にあったのである。これを自覚したならば結果として自分に腹をたてているということになるのである。
同類であるという事を理解したならば、どんな出来事にであっても相手を非難する心がなく、愛の心、慈しみの心で接していきたいものである。
2021年11月24日
意識の世界の波長と無意識の世界
周りには何にもない空間だと思っているが、実は原子が満ち溢れていて飛び交っているという。
ラジオの波長だったりたくさんの周波数をもつテレビや、携帯電話の電波などが物質を通り抜けるような力をもって存在しているのです。
これ量子力学の世界なのですが、エネルギーが満ち満ちているという事実は否定できないのであります。
私達の意識もエネルギーそのものであるため、同じように空間を飛び交っているという事なのですから、それぞれがお互いに関連しあっているということも否定できないのです。
意識そのものはエネルギーであるがそのものに善悪の能力はない、どんな波長を作るのかは意思のあり方によるため注意しなければならないのです。
心に思うといった行為はバイブレーションを起こし空間にばらまかれます、そうしてそれらの波長に合致する事態をよびよせ結果として現実の世界に事象が現れてくるという事になります。だから陰気な思いや陽気な思い、喜怒哀楽の思いというものがその方の雰囲気、人柄などに影響を及ぼし運命を作っていくという事になるのです。
人は周りとの関係性によって様々な人生模様が繰り広げられるという事を知るならば自己を中心としたわがままで、頑固な性格にはそれなりの事象を引き寄せるし優し気で活発な他人のために尽くそうという性格にはやはりそれなりの事象がついて回るという事を身をもって体験する。
また、そのことによって色々と反省をしながら生きていくというのが、この世での普遍的なテーマであるのです。
ラジオの波長だったりたくさんの周波数をもつテレビや、携帯電話の電波などが物質を通り抜けるような力をもって存在しているのです。
これ量子力学の世界なのですが、エネルギーが満ち満ちているという事実は否定できないのであります。
私達の意識もエネルギーそのものであるため、同じように空間を飛び交っているという事なのですから、それぞれがお互いに関連しあっているということも否定できないのです。
意識そのものはエネルギーであるがそのものに善悪の能力はない、どんな波長を作るのかは意思のあり方によるため注意しなければならないのです。
心に思うといった行為はバイブレーションを起こし空間にばらまかれます、そうしてそれらの波長に合致する事態をよびよせ結果として現実の世界に事象が現れてくるという事になります。だから陰気な思いや陽気な思い、喜怒哀楽の思いというものがその方の雰囲気、人柄などに影響を及ぼし運命を作っていくという事になるのです。
人は周りとの関係性によって様々な人生模様が繰り広げられるという事を知るならば自己を中心としたわがままで、頑固な性格にはそれなりの事象を引き寄せるし優し気で活発な他人のために尽くそうという性格にはやはりそれなりの事象がついて回るという事を身をもって体験する。
また、そのことによって色々と反省をしながら生きていくというのが、この世での普遍的なテーマであるのです。
2021年11月23日
病気とどう向き合うかという話
園頭先生研修会講話より
【病気・不幸になるという事・・・病気・不幸になるのは、その人を救おう救おうとする神の慈悲と愛のあらわれである。高橋先生は、「反省は神の慈悲である」とおっしゃっている。神の慈悲である反省というチャンスが与えられたという事。その反省によって魂の向上を図ること。(神の慈悲であるという事は魂向上のためという前向きにとらえる事)病気を通してどうしてそうなったかを反省して、魂の成長につなげていく。魂を成長させる一つのきっかけとして与えられるのである。病気の人を指導する際は、肉体が治っても、治らなくても、その人の魂が成長すればいい、また魂が救われればいいという事、そのことをしっかり知っておかなければいけない。心の持ち方を正しくすると病気は治る。
【病気・不幸だという人達】・・・この人達の根本的な問題は、感謝するという心を持っていない。してもらうのが当たり前で、自分では何もしない人達が多い。だから指導して心を変えていくわけだが、最後は「感謝の心を持てるようになる」まで指導しなくてはならない。感謝することの中で最大に感謝しなければならないのが神様である。水も空気も人間が造ることはできない。我々はこの大自然に生かされているのであるという事。次に感謝しなければならないのは自分の両親。父、母によって肉体を与えられ、今自分がここに存在しているという事。次に周りの人達のおかげで生活が出来ている、という事。これらの事に気づかせる事。感謝の心が最高の純粋な心の状態であり、最高の明るい心なのである。
【病気が治りにくい人】・・・入院していて医者や看護師の言いなりになっている人。私は具合が悪いんですという心を持っている人。逆に反抗的な人の方が病気は早く治る。人から同情されたいという気持ちを持つと、同情されやすい状況を自ら作るようになる。例えば昔の病気をひけらかす。嫁姑の不仲を話したりして同情を引く等。そういった人は「自分で自分の運命を積極的に開拓する」という心を持たないために運命がよくならないし病気も治りにくい。・・・・例えば胃が悪いという人は、朝から晩まで「この胃が、この胃が」と、気になって仕方がない。健康な状態というのは、自分の体があるのかないのか、一向に身体の事が気にならない状態。ここが悪い、ここが痛いとそこに意識が集中すると、その通りに悪い症状が次々に出てくる。胃に執着していた心を離すと、治るのも早くなってくる。
【病気・不幸になるという事・・・病気・不幸になるのは、その人を救おう救おうとする神の慈悲と愛のあらわれである。高橋先生は、「反省は神の慈悲である」とおっしゃっている。神の慈悲である反省というチャンスが与えられたという事。その反省によって魂の向上を図ること。(神の慈悲であるという事は魂向上のためという前向きにとらえる事)病気を通してどうしてそうなったかを反省して、魂の成長につなげていく。魂を成長させる一つのきっかけとして与えられるのである。病気の人を指導する際は、肉体が治っても、治らなくても、その人の魂が成長すればいい、また魂が救われればいいという事、そのことをしっかり知っておかなければいけない。心の持ち方を正しくすると病気は治る。
【病気・不幸だという人達】・・・この人達の根本的な問題は、感謝するという心を持っていない。してもらうのが当たり前で、自分では何もしない人達が多い。だから指導して心を変えていくわけだが、最後は「感謝の心を持てるようになる」まで指導しなくてはならない。感謝することの中で最大に感謝しなければならないのが神様である。水も空気も人間が造ることはできない。我々はこの大自然に生かされているのであるという事。次に感謝しなければならないのは自分の両親。父、母によって肉体を与えられ、今自分がここに存在しているという事。次に周りの人達のおかげで生活が出来ている、という事。これらの事に気づかせる事。感謝の心が最高の純粋な心の状態であり、最高の明るい心なのである。
【病気が治りにくい人】・・・入院していて医者や看護師の言いなりになっている人。私は具合が悪いんですという心を持っている人。逆に反抗的な人の方が病気は早く治る。人から同情されたいという気持ちを持つと、同情されやすい状況を自ら作るようになる。例えば昔の病気をひけらかす。嫁姑の不仲を話したりして同情を引く等。そういった人は「自分で自分の運命を積極的に開拓する」という心を持たないために運命がよくならないし病気も治りにくい。・・・・例えば胃が悪いという人は、朝から晩まで「この胃が、この胃が」と、気になって仕方がない。健康な状態というのは、自分の体があるのかないのか、一向に身体の事が気にならない状態。ここが悪い、ここが痛いとそこに意識が集中すると、その通りに悪い症状が次々に出てくる。胃に執着していた心を離すと、治るのも早くなってくる。
2021年11月22日
自我とは何か
自我という言葉は非常に抽象的でありますから、ここでは偽我、善我、真我と三つに分けて考えてみたいと思っています。その前にでは自我とは何かというとその意識は、他の対象と区別して意識される自己であるのです。例えば生まれたばかりの赤子はまだ自我の意識に目覚めていません、三月、半年と経っていくにつれ始めて親と自分といった周囲の対象の中で自分の存在を自覚するわけです。
さて、そこで自我の何の偽りの我は、対象の中の自分をより強く意識し、このため自己本位に流れ自己中心に生活してしまう自分であります。
俗にエゴともいい、他人の不幸を考えず自分の事だけしか思わない、小さな自分です。
小さな自分しかわからないと、不安動揺が絶えず心の中は苦しみに満ちてきます。なぜなら、心が小さければ小さいほどものがよく見えず、ものの判断が自由に出来ないから(独断の思い込みがある状態)いつも問題にぶち当たり悩み続けます。仏教ではこれを称して煩悩といっています。煩悩という迷いの原因は、すべてものに対する執着、捉われ、小さな心といっているわけです。
次の善我というのは、この世の中は自分一人では生きていけない、みんなと手を取り合い、愛に生きていかなくてはならない。各人がめいめい好き勝手に生活をしているが、ものの裏側を覗くと実は各人が人々の相互作用の関係の中で生きており、自分勝手に生きるという事は結局は自分で自分の首を自分がしめてしまっているということがわかります。
助け合い、補い合い、話し合う愛の生き方こそ自分を生かし、みんなを生かすことだと理解する自我です。すべからく人はこうした愛に目覚め、相互関係の中で、他を生かしていくことです。これから外れるとこの外れた分量だけ自分が苦しむようになっています・
では、真我とはどういうものでしょうか。「真我」とはこうした相対的な関係から離れて、人と自分とは本来一つのもので別々ではない。現われの世界では別々でも神の子としての心は一つであり、そうしてすべての万物は神の心の中で生かされ生きている。という自覚した自我です。
この場合の自我は大我というものであり慈悲と愛一筋に生きるものです。
ここで今一度考えるべきことは、これらの自我が心の領域のどの部分に当たるのでしょうか
心の領域である本能、感情、知性、理性の機能がそれ自体単独で意志に繋がる時、偽我となって現われます。感情が単独で意志に繋がれば例えば怒りに燃えた感情が爆発し、行動となって現われるため破壊につながっていきます。知性が意志に繋がると冷酷な人間になります。善我の自我は、反省によって自覚されます。したがって各人の想念の働きは、感情から意志に繋がる単独行動ではなく想念は各領域に万遍なく作用し、愛の行為として現われます。
私たちの心は反省によって偽我から善我に移行すれば正しい生活が約束されてきます。つまり、安らぎのある生活が出来てくるわけです。
高橋信次師のことばより
さて、そこで自我の何の偽りの我は、対象の中の自分をより強く意識し、このため自己本位に流れ自己中心に生活してしまう自分であります。
俗にエゴともいい、他人の不幸を考えず自分の事だけしか思わない、小さな自分です。
小さな自分しかわからないと、不安動揺が絶えず心の中は苦しみに満ちてきます。なぜなら、心が小さければ小さいほどものがよく見えず、ものの判断が自由に出来ないから(独断の思い込みがある状態)いつも問題にぶち当たり悩み続けます。仏教ではこれを称して煩悩といっています。煩悩という迷いの原因は、すべてものに対する執着、捉われ、小さな心といっているわけです。
次の善我というのは、この世の中は自分一人では生きていけない、みんなと手を取り合い、愛に生きていかなくてはならない。各人がめいめい好き勝手に生活をしているが、ものの裏側を覗くと実は各人が人々の相互作用の関係の中で生きており、自分勝手に生きるという事は結局は自分で自分の首を自分がしめてしまっているということがわかります。
助け合い、補い合い、話し合う愛の生き方こそ自分を生かし、みんなを生かすことだと理解する自我です。すべからく人はこうした愛に目覚め、相互関係の中で、他を生かしていくことです。これから外れるとこの外れた分量だけ自分が苦しむようになっています・
では、真我とはどういうものでしょうか。「真我」とはこうした相対的な関係から離れて、人と自分とは本来一つのもので別々ではない。現われの世界では別々でも神の子としての心は一つであり、そうしてすべての万物は神の心の中で生かされ生きている。という自覚した自我です。
この場合の自我は大我というものであり慈悲と愛一筋に生きるものです。
ここで今一度考えるべきことは、これらの自我が心の領域のどの部分に当たるのでしょうか
心の領域である本能、感情、知性、理性の機能がそれ自体単独で意志に繋がる時、偽我となって現われます。感情が単独で意志に繋がれば例えば怒りに燃えた感情が爆発し、行動となって現われるため破壊につながっていきます。知性が意志に繋がると冷酷な人間になります。善我の自我は、反省によって自覚されます。したがって各人の想念の働きは、感情から意志に繋がる単独行動ではなく想念は各領域に万遍なく作用し、愛の行為として現われます。
私たちの心は反省によって偽我から善我に移行すれば正しい生活が約束されてきます。つまり、安らぎのある生活が出来てくるわけです。
高橋信次師のことばより
2021年11月19日
意図された違和感
同じような看板が立ち並んでいるロードサイドに巨大な人形をモチーフにした広告看板が出現したら目立つように、今までとちょっと違うコンセプトが表現されたらドキッとしますよね。なんか違和感を感じるシチュエーションが演出されている画像とかあると何か気になるというか、そんな気になりませんか?
例えば思いっきり下手な絵とか、文法のおかしいキャッチコピーとか、文句の一つも言いたいような画像なんかその例でしょう
また、強烈なコピーもありですか、急カーブの続く山道の看板に「死ぬな!!!」とあったのを思い出しています。
普通では考えられないようなキャッチコピーが結構記憶に残ることおおいですね
それも意図された違和感という作戦です。端的に伝えたいことを伝えることが目的ならばとても効果的な手法ですが、
伝統とか格式がレゾンデートルとなっている場合はまた別な話です。所謂ブランディングマーケティングというやつです。ロゴマークを見ただけでその商品や企業がわかるといったもので多くの人々が直感的に把握できる類のものです。
そこに至るまでには相応の時間や積み重ねていった信用などの総和が必要であるという事は言うまでもないのですがねあらかじめそういったブランディング計画をもって展開するという方法をとった方が良いとは思います。いずれにしましてもビジュアルなアプローチという基本的なものは押さえておくべきマーケティングの基本であります。
一方逆もまた真なりとばかり目立たないことが印象に残るという事もありましょうが、それこそ時間と口コミと圧倒的な商品力が芸術の域まで達していなければならないという事です。
何をどんな方向で進むのかは研究の余地がありそうですね
例えば思いっきり下手な絵とか、文法のおかしいキャッチコピーとか、文句の一つも言いたいような画像なんかその例でしょう
また、強烈なコピーもありですか、急カーブの続く山道の看板に「死ぬな!!!」とあったのを思い出しています。
普通では考えられないようなキャッチコピーが結構記憶に残ることおおいですね
それも意図された違和感という作戦です。端的に伝えたいことを伝えることが目的ならばとても効果的な手法ですが、
伝統とか格式がレゾンデートルとなっている場合はまた別な話です。所謂ブランディングマーケティングというやつです。ロゴマークを見ただけでその商品や企業がわかるといったもので多くの人々が直感的に把握できる類のものです。
そこに至るまでには相応の時間や積み重ねていった信用などの総和が必要であるという事は言うまでもないのですがねあらかじめそういったブランディング計画をもって展開するという方法をとった方が良いとは思います。いずれにしましてもビジュアルなアプローチという基本的なものは押さえておくべきマーケティングの基本であります。
一方逆もまた真なりとばかり目立たないことが印象に残るという事もありましょうが、それこそ時間と口コミと圧倒的な商品力が芸術の域まで達していなければならないという事です。
何をどんな方向で進むのかは研究の余地がありそうですね
人が行動を起こす時
人が行動を起こす際にはその行動を促進するための何かきっかけが働いているという事を感じざるを得ません。
端的に言えばある情報をもとに行動をしているという事です。その情報そのものは凡そ人の五感を通して決断を迫ってくるのですが、人そのものの様々な環境にも大きく左右されると考えます。
まず五感という事を考えてみると、五感即ち見る事、聞くこと、におう事、味あうこと、触覚、によって意識する、しないを決定しているという反応が脳を通して認識します。
その時点で行動を決定するというメカニズムが働きます。
マーケティング活動における顧客へのアプローチの最初はこういった一連の流れを意図的に仕掛けているのだ。という事を知ると同時に、私たちの多くの行動基盤の元がこのプロセスの中に組み込まれているという事なのです。
五感でとらえた情報をいかに取捨選択するのか、そのことを司っているのが心の在り方なのです。
心の機能は以下のように領域があります
1. 本能の領域・・・この領域は生きていくために必要な食や性、眠などを司っている領域でありまた肉体的危機管理に不可欠でーな働きをしている。大脳生理では脳幹にそれらの神経があるとされている。
2. 感情の領域・・・人間が持つ豊かな情操を司っていて人の行動の70%はこの領域の働きである。喜怒哀楽の思いなどあるが究極的には愛や感動、感激などの動きが顕著である。心の浅い部分では自己中心主義になるが深いところでは利他心、明るい世界を創造することができる。
3. 知性の領域・・・考える能力、合理性客観性などあるが、その働きがそのまま意志につながり単独の行動が冷酷性が現われ角が立つような人間関係を作りがちである。
4. 理性の領域・・・物の道理を判断する領域、経験主義が視野を狭くする恐れがあるものの行動のブレーキ役として重要な領域。具体的には旧来の陋習や伝統・習慣、気候風土に左右されやすいという一面もある。
そしてこれらの領域から生じたものが意志につながり肉体神経に伝達され行動につながるのです。
これら一連の習性に対応しているのが様々なマーケティング活動であることは周知の事実であろう、手に入れたいものに関しては本能的に必要になっているもの、つまり衣食住といった人間の生命活動に直結するものから、欲望に関するものとか選択肢のたくさんあるものとかそれぞれではあるが、その中でも情報収集の重要な時代がいまなのであろう。
ところで情報発信力に関して考えてみると次の公式を思い出す。
画像訴求が言葉訴求よりも印象に残るが画像だけでは不足するため言葉とくっつける、いわゆるポスターとキャッチコピー、映像とキャッチセリフといった組み合わせ、とそれらの間をおいた反復告知などが効果的である。
そのあとに考えるのが個性の演出。意図された演出という事である。
端的に言えばある情報をもとに行動をしているという事です。その情報そのものは凡そ人の五感を通して決断を迫ってくるのですが、人そのものの様々な環境にも大きく左右されると考えます。
まず五感という事を考えてみると、五感即ち見る事、聞くこと、におう事、味あうこと、触覚、によって意識する、しないを決定しているという反応が脳を通して認識します。
その時点で行動を決定するというメカニズムが働きます。
マーケティング活動における顧客へのアプローチの最初はこういった一連の流れを意図的に仕掛けているのだ。という事を知ると同時に、私たちの多くの行動基盤の元がこのプロセスの中に組み込まれているという事なのです。
五感でとらえた情報をいかに取捨選択するのか、そのことを司っているのが心の在り方なのです。
心の機能は以下のように領域があります
1. 本能の領域・・・この領域は生きていくために必要な食や性、眠などを司っている領域でありまた肉体的危機管理に不可欠でーな働きをしている。大脳生理では脳幹にそれらの神経があるとされている。
2. 感情の領域・・・人間が持つ豊かな情操を司っていて人の行動の70%はこの領域の働きである。喜怒哀楽の思いなどあるが究極的には愛や感動、感激などの動きが顕著である。心の浅い部分では自己中心主義になるが深いところでは利他心、明るい世界を創造することができる。
3. 知性の領域・・・考える能力、合理性客観性などあるが、その働きがそのまま意志につながり単独の行動が冷酷性が現われ角が立つような人間関係を作りがちである。
4. 理性の領域・・・物の道理を判断する領域、経験主義が視野を狭くする恐れがあるものの行動のブレーキ役として重要な領域。具体的には旧来の陋習や伝統・習慣、気候風土に左右されやすいという一面もある。
そしてこれらの領域から生じたものが意志につながり肉体神経に伝達され行動につながるのです。
これら一連の習性に対応しているのが様々なマーケティング活動であることは周知の事実であろう、手に入れたいものに関しては本能的に必要になっているもの、つまり衣食住といった人間の生命活動に直結するものから、欲望に関するものとか選択肢のたくさんあるものとかそれぞれではあるが、その中でも情報収集の重要な時代がいまなのであろう。
ところで情報発信力に関して考えてみると次の公式を思い出す。
画像訴求が言葉訴求よりも印象に残るが画像だけでは不足するため言葉とくっつける、いわゆるポスターとキャッチコピー、映像とキャッチセリフといった組み合わせ、とそれらの間をおいた反復告知などが効果的である。
そのあとに考えるのが個性の演出。意図された演出という事である。
2021年11月18日
自分をほめる
大切な事は自分を善意なる第三者の立場で見る事。褒めるべきところを見つけ褒める事から始めると心が前向きになり良い結果を生むことになります。
反対に自分をいじめるような考えを持つと結果も暗いことになるのです。実は自分をいじめているという事は本質的に他人をいじめるという事になりますからその反作用は自分に帰ってきてますます虐めるようになっていくのです。
現代日本を覆っている間違った自虐史観、マスコミによる極端な日本叩き、他者の悪口を主体とした報道姿勢などは結果的に日本の元気を奪いかねません。一体何が目的なんでしょう
個人も組織も国家もその思想をリードしている一部の人達の影響を受け、自らを汚していることに気付かなければなりません。
最近本屋に行くと「自己肯定」に関する書籍が目立ってるような気がします(わたしだけかなぁ)。
これらの前提にあるものは、自分をほめて下さいという本来の人間の姿を顕現させるものだと思います。
同じく自らの反省すべき点も善意の第三者でみるわけですから感情的に流されず客観的に判断することが可能になるのです。そして至らなかった点を論理的にその原因を分析して修正をしていくといった一連の流れが出来上がっていくのです。
自らをほめ、肯定的に捉える事から生じる前向きのエネルギーは自分の心構えを積極的にするのみならず関連している仲間に派生し必ずやよくなっていくという事を信じてほしいと思っています。
日常の些細な事もすべては自分を成長させてくれる材料だという事を認め、感謝する心こそが神意なのだという事を知ったときに大いなる未来が拓けるものと私の信仰心がそう言っているのです。
反対に自分をいじめるような考えを持つと結果も暗いことになるのです。実は自分をいじめているという事は本質的に他人をいじめるという事になりますからその反作用は自分に帰ってきてますます虐めるようになっていくのです。
現代日本を覆っている間違った自虐史観、マスコミによる極端な日本叩き、他者の悪口を主体とした報道姿勢などは結果的に日本の元気を奪いかねません。一体何が目的なんでしょう
個人も組織も国家もその思想をリードしている一部の人達の影響を受け、自らを汚していることに気付かなければなりません。
最近本屋に行くと「自己肯定」に関する書籍が目立ってるような気がします(わたしだけかなぁ)。
これらの前提にあるものは、自分をほめて下さいという本来の人間の姿を顕現させるものだと思います。
同じく自らの反省すべき点も善意の第三者でみるわけですから感情的に流されず客観的に判断することが可能になるのです。そして至らなかった点を論理的にその原因を分析して修正をしていくといった一連の流れが出来上がっていくのです。
自らをほめ、肯定的に捉える事から生じる前向きのエネルギーは自分の心構えを積極的にするのみならず関連している仲間に派生し必ずやよくなっていくという事を信じてほしいと思っています。
日常の些細な事もすべては自分を成長させてくれる材料だという事を認め、感謝する心こそが神意なのだという事を知ったときに大いなる未来が拓けるものと私の信仰心がそう言っているのです。
2021年11月16日
新型コロナいつまで
東京の本日の新型コロナ感染者数15名だそうだ。ここまでくると一体その報道の必要性があるのか疑問ですね・・福岡県では5名だという
それぞれ人口1000万超、福岡県500万超だからほとんど問題ないとは思わないかなあ、実際インフルと同じ扱いでいいんではないかと思うんだけどね。
ともかく担当者各々が責任を取りたくないという態度が見え見えだしこんな連中に政策は任せられんと思うのは小生だけであろうか。もともとエビデンスのない行動自粛指導に関しては大いなる矛盾すら感じる
責任ある立場の方特に分科会の動きの中で尾身さんの立ち位置ってどういうものなのか、教えてほしい。
飲食店の人数が何故4名かというと5名からクラスターなんだという取り決めがあるそうで、なんかバカバカしくなってきた。
いつまでマスクが必要なんだろうか、本当に唾液の飛翔が最大原因なのか
分からないまま終焉を迎えるのでしょうね
それぞれ人口1000万超、福岡県500万超だからほとんど問題ないとは思わないかなあ、実際インフルと同じ扱いでいいんではないかと思うんだけどね。
ともかく担当者各々が責任を取りたくないという態度が見え見えだしこんな連中に政策は任せられんと思うのは小生だけであろうか。もともとエビデンスのない行動自粛指導に関しては大いなる矛盾すら感じる
責任ある立場の方特に分科会の動きの中で尾身さんの立ち位置ってどういうものなのか、教えてほしい。
飲食店の人数が何故4名かというと5名からクラスターなんだという取り決めがあるそうで、なんかバカバカしくなってきた。
いつまでマスクが必要なんだろうか、本当に唾液の飛翔が最大原因なのか
分からないまま終焉を迎えるのでしょうね
2021年11月15日
言葉という波長
この世のすべての物質。つまり万象万物にはそれぞれが独特固有の波長によって存在が成立しています。特に音に関してはその波長の存在が容易に理解できます。
放送に使われている音の波は○○ヘルツとかテレビだとチャンネルだとかあり波長が数値で表現されているため、その波長を受け取るための受信の波長があるという事も当然理解できます。
という事は私たちが語るという言葉の音声にも波長があるという事で、実は単なる音ではなく発する人の心根や特別な意思というものがその音にピタッとくっついているというのである。
それらの波長は同じ波長をもち、同じ意思を引き寄せるという事になります。
もともと、言葉は自分の思いから始まる行為ですから同じ思いを持っている人にたいして深く作用するという事になり「類は類をもって集まる」という「波長共鳴の法則」に合致するのであります
釈尊はこのことを「縁生」といわれたものと思うわけです。よきも悪しきも、仲間になっていく方たちとは何らかの因縁があるという事なのでしょうね・・
世界人口数十億の中からわずかな人としか接する事しかできないですね
だから、袖すり合うも他生の縁という事で、大事にしたいものですね
放送に使われている音の波は○○ヘルツとかテレビだとチャンネルだとかあり波長が数値で表現されているため、その波長を受け取るための受信の波長があるという事も当然理解できます。
という事は私たちが語るという言葉の音声にも波長があるという事で、実は単なる音ではなく発する人の心根や特別な意思というものがその音にピタッとくっついているというのである。
それらの波長は同じ波長をもち、同じ意思を引き寄せるという事になります。
もともと、言葉は自分の思いから始まる行為ですから同じ思いを持っている人にたいして深く作用するという事になり「類は類をもって集まる」という「波長共鳴の法則」に合致するのであります
釈尊はこのことを「縁生」といわれたものと思うわけです。よきも悪しきも、仲間になっていく方たちとは何らかの因縁があるという事なのでしょうね・・
世界人口数十億の中からわずかな人としか接する事しかできないですね
だから、袖すり合うも他生の縁という事で、大事にしたいものですね
2021年11月10日
自然の法則
自然の法則というものは人間の我というものははいりこめないのであり何人たりともその法則を変えることはできないのです。
それを「諸法無我」という
諸々の自然法は吾々の我が入らないのであるから、素直に従って生きようというのがお釈迦様の教えなのです。
さて、その法則の典型的な事例を考えてみたい
その⒈ 原因と結果の法則・・・ある現象を志向し行った時にその原因に適合した結果が生じる。世の中のすべてはこの原因と結果というサイクルによって様々な現象が意識的、無意識的を問わず顕れてくるのであります。
この法則によって吾々の運命が決められるといっても過言ではありません。だから少なくとも自らの意思で原因を作っていきたいものです。
その2. 循環の法則・・・物事は循環しながらその存在を維持しているという事、形は変わっても永遠にその個性を失う事のない水(H₂Oのように水、氷、水蒸気という具合に実はすべてはその法則化に存在しているという事。 「過去世・現世・来世」の三世は生命エネルギー活動の原点であるという事
その3. 慣性の法則・・・止まっている物体はとどまろうとする。動いている物体は動き続けようとする。車は急に止まらないという原理です
別名カルマの法ともいう、
要するに癖といった習慣が様々な場面に顔を出しては成功したり失敗したりするのです
その4. 波長共鳴の法則・・・いわゆる「類は類をよぶ」ということであって、気が合うとか波長が合うとかは日常的によく使う言葉ではあります。
一つの状態をつくり上げ習慣化してしまう時にその状態に適した人やモノが集まってくるようです。汚れた場所には汚れたものが集まりきれいな場所にはきれいなものが集まるとは人の流れの事であるが
飲食店のマネジメントしているとよく理解できる話がこれなのである
その5. エネルギー不滅の法則・・・永遠の生命活動、霊の不生不滅の法則は般若心経に記されていてこれこそが神理なのです
これらの法則を人生の指針にするにはやはり自分の行動の見直しが必要である。ことを知らなければならない
それを「諸法無我」という
諸々の自然法は吾々の我が入らないのであるから、素直に従って生きようというのがお釈迦様の教えなのです。
さて、その法則の典型的な事例を考えてみたい
その⒈ 原因と結果の法則・・・ある現象を志向し行った時にその原因に適合した結果が生じる。世の中のすべてはこの原因と結果というサイクルによって様々な現象が意識的、無意識的を問わず顕れてくるのであります。
この法則によって吾々の運命が決められるといっても過言ではありません。だから少なくとも自らの意思で原因を作っていきたいものです。
その2. 循環の法則・・・物事は循環しながらその存在を維持しているという事、形は変わっても永遠にその個性を失う事のない水(H₂Oのように水、氷、水蒸気という具合に実はすべてはその法則化に存在しているという事。 「過去世・現世・来世」の三世は生命エネルギー活動の原点であるという事
その3. 慣性の法則・・・止まっている物体はとどまろうとする。動いている物体は動き続けようとする。車は急に止まらないという原理です
別名カルマの法ともいう、
要するに癖といった習慣が様々な場面に顔を出しては成功したり失敗したりするのです
その4. 波長共鳴の法則・・・いわゆる「類は類をよぶ」ということであって、気が合うとか波長が合うとかは日常的によく使う言葉ではあります。
一つの状態をつくり上げ習慣化してしまう時にその状態に適した人やモノが集まってくるようです。汚れた場所には汚れたものが集まりきれいな場所にはきれいなものが集まるとは人の流れの事であるが
飲食店のマネジメントしているとよく理解できる話がこれなのである
その5. エネルギー不滅の法則・・・永遠の生命活動、霊の不生不滅の法則は般若心経に記されていてこれこそが神理なのです
これらの法則を人生の指針にするにはやはり自分の行動の見直しが必要である。ことを知らなければならない
2021年11月08日
信仰という事
世の中において信仰していない人々が皆無であってすべての人が信仰に値するものを持っているとは以前書いた。
問題は、信仰する対象が一体何かということであって、その対象によって幸不幸が確実に顕れてきているのであり、その是非を自らが受け入れなければならないのだという事を知らなければならないのである。
わたし達が生きていく条件として宗教団体が必要なのでしょうか
わたし達が生きていく条件として必要なのは大自然の淡々とした営みを知ることであってその営みの循環こそが信仰に値する現象なのである。
この大自然の営みに感謝し、その大自然の摂理に沿って生きていくことか゜真の信仰生活といえるのである。
物質社会に於いても
心の社会に於いても 同じ自然の法則が働いている訳でその法則はどんな宗教団体に属しようが、神仏を信じようと信じまいと同じ現象が起きるのであるという事を知らなければならないのである。
○○会とか○○教とかいう存在は全く意味のないことであり自らの思ったことや行ってきた事こそが自分の存在でありその思ったことや行ったことが自然の法則に反していたり自然の法則に忠実であったりしたことが今の自分を作っているという事を認識し自らを省みる習慣を日常の生活に取り入れる事が真の信仰生活であると思う次第である。
自然の法則とは以下の事をいう
1. 原因と結果の法則・・・あまねく宇宙の法とは一つの原因に対して必ず結果としての現象が現れるわけであって善行には善果が悪行には
悪果が現れるのであってその結果を軽んじ消滅せしめんとするには反省という心の掃除しかないのである。神は反省というチャンスをすべての人に与えているのである。
キリスト教では懺悔といい仏教的には止観というのであるがもともとは教とかは関係ないのであるすべての事には必ず原因があるという事を知ることが必要である。
心の法則に当てはめると、愛すれば愛される 憎めば憎まれるという事、イエスは「汝を憎むものを愛せよ」といわれたこれ究極の神の意識であろう
2. 循環の法則 ・・・地球は自らが回転しながら太陽の周りを回転している、天体はすべて回転している春夏秋冬の四季があり水は液体、個体、水蒸気と三態をあらわしている、動物と植物の間には酸素と二酸化酸素の循環があるすべての物質は過去世があり現世があり来世があるという事を知らなければならない
つまり、輪廻転生を積み重ねることによって自らの神性を磨くのである。
3. 波長共鳴の法則 ・・・類は類をもって集まる、ラジオやテレビは波長があってこそ見えたり聞こえたりする。同様に明るい心の人の所には明るい人が暗い心の人には暗い心の人が集まる
「笑う門には福来る」「泣きっ面に蜂」とはこのことを言っているのである。
4. エネルギー不滅の法則・本来は一番先に述べなければならない法則であり霊が永遠不滅であることを知らなければならないのである。
今私たちがここに命を営んでいるという事は過去世があり来世があるという事であって
永遠という魂の旅の途中であることを認識しなければいけないのである
また、それは一宗の話ではとうていなくてすべての人々に共通する宇宙の真理であることを
知らなければならないのである
(脚注)人が死なないという事は肉体がなくなった後にどうしているのかという事を考えなければならない 人は地球上で生きているところの原子体が本来の自分を保つために有機質としての体を持っているのだが、実はもう一つの永遠不滅の体を持っていて地球上における肉体と表裏一体の存在としてあり、地上の肉体が滅びればこの有機質から離れ実在の世界で生活するための体にのりかえるのである。実在とは肉体を去った永遠の世界のことである。
問題は、信仰する対象が一体何かということであって、その対象によって幸不幸が確実に顕れてきているのであり、その是非を自らが受け入れなければならないのだという事を知らなければならないのである。
わたし達が生きていく条件として宗教団体が必要なのでしょうか
わたし達が生きていく条件として必要なのは大自然の淡々とした営みを知ることであってその営みの循環こそが信仰に値する現象なのである。
この大自然の営みに感謝し、その大自然の摂理に沿って生きていくことか゜真の信仰生活といえるのである。
物質社会に於いても
心の社会に於いても 同じ自然の法則が働いている訳でその法則はどんな宗教団体に属しようが、神仏を信じようと信じまいと同じ現象が起きるのであるという事を知らなければならないのである。
○○会とか○○教とかいう存在は全く意味のないことであり自らの思ったことや行ってきた事こそが自分の存在でありその思ったことや行ったことが自然の法則に反していたり自然の法則に忠実であったりしたことが今の自分を作っているという事を認識し自らを省みる習慣を日常の生活に取り入れる事が真の信仰生活であると思う次第である。
自然の法則とは以下の事をいう
1. 原因と結果の法則・・・あまねく宇宙の法とは一つの原因に対して必ず結果としての現象が現れるわけであって善行には善果が悪行には
悪果が現れるのであってその結果を軽んじ消滅せしめんとするには反省という心の掃除しかないのである。神は反省というチャンスをすべての人に与えているのである。
キリスト教では懺悔といい仏教的には止観というのであるがもともとは教とかは関係ないのであるすべての事には必ず原因があるという事を知ることが必要である。
心の法則に当てはめると、愛すれば愛される 憎めば憎まれるという事、イエスは「汝を憎むものを愛せよ」といわれたこれ究極の神の意識であろう
2. 循環の法則 ・・・地球は自らが回転しながら太陽の周りを回転している、天体はすべて回転している春夏秋冬の四季があり水は液体、個体、水蒸気と三態をあらわしている、動物と植物の間には酸素と二酸化酸素の循環があるすべての物質は過去世があり現世があり来世があるという事を知らなければならない
つまり、輪廻転生を積み重ねることによって自らの神性を磨くのである。
3. 波長共鳴の法則 ・・・類は類をもって集まる、ラジオやテレビは波長があってこそ見えたり聞こえたりする。同様に明るい心の人の所には明るい人が暗い心の人には暗い心の人が集まる
「笑う門には福来る」「泣きっ面に蜂」とはこのことを言っているのである。
4. エネルギー不滅の法則・本来は一番先に述べなければならない法則であり霊が永遠不滅であることを知らなければならないのである。
今私たちがここに命を営んでいるという事は過去世があり来世があるという事であって
永遠という魂の旅の途中であることを認識しなければいけないのである
また、それは一宗の話ではとうていなくてすべての人々に共通する宇宙の真理であることを
知らなければならないのである
(脚注)人が死なないという事は肉体がなくなった後にどうしているのかという事を考えなければならない 人は地球上で生きているところの原子体が本来の自分を保つために有機質としての体を持っているのだが、実はもう一つの永遠不滅の体を持っていて地球上における肉体と表裏一体の存在としてあり、地上の肉体が滅びればこの有機質から離れ実在の世界で生活するための体にのりかえるのである。実在とは肉体を去った永遠の世界のことである。
2021年11月01日
それでも諦めなければならない事
「諦める」・・という話
人が生まれるという事は必ず死ぬという事、「生老病死」という人生のサイクルは例外なくすべての人に物質にあてはまるわけであり
何人たりとて逃れない現象であることだから諦めることが必然である。
ただ
肉体の死はあっても霊である心の死は永遠になく生き続けているというを知らなければならない。
このことは全く宗教とは関係なく真理としてあるわけで、これもまた何人たりとて逃れない事なのだ
だから、昨日起きた電車内での事件・・・ナイフ切りつけ、放火の事件で犯人曰く「死刑になりたかった」といっても本来の自分の霊は永遠に生き続けるわけだから死んで現実から逃れようとしてもムダなのである。
地獄のバイブレーションの中でもがき苦しむという事態を自らに招き入れるだけなのに・・・
全ての人の来世は肉体を去りし諸霊の世界なり、この世界は意識の調和度による光の量の区域であり、同じ波動を持つ人々の集合しているところに存在するのであり上記の彼はその自分と同調している世界に行くことになるのだ。反省が出来るまでそこで何百年も過ごすという事になろう。
逃れられないことがあり諦めるという覚悟を持ち
天に従うことが大切だと思うこと
天の指示は人を通して、また物を通して
私たちの周りに難儀な問題という姿かたちをもって
顕現してくれている
それらの問題解決を通して私たちの人格が磨かれる
そのことの認識を深めていくことこそが人生の醍醐味で
あることを知ること
だから
それらの問題を明るい心で前向きにとらえ
積極的に行動、言動することが肝要である
こうした言葉を常に自らのそばに置きことあるごとに読み 目に入れることで心の中に
種子を播くようにしているのだ
結果として潜在意識という畑の中で成長していき現実となる
善きも悪しきも心の世界の投影されたものと理解せよ
人が生まれるという事は必ず死ぬという事、「生老病死」という人生のサイクルは例外なくすべての人に物質にあてはまるわけであり
何人たりとて逃れない現象であることだから諦めることが必然である。
ただ
肉体の死はあっても霊である心の死は永遠になく生き続けているというを知らなければならない。
このことは全く宗教とは関係なく真理としてあるわけで、これもまた何人たりとて逃れない事なのだ
だから、昨日起きた電車内での事件・・・ナイフ切りつけ、放火の事件で犯人曰く「死刑になりたかった」といっても本来の自分の霊は永遠に生き続けるわけだから死んで現実から逃れようとしてもムダなのである。
地獄のバイブレーションの中でもがき苦しむという事態を自らに招き入れるだけなのに・・・
全ての人の来世は肉体を去りし諸霊の世界なり、この世界は意識の調和度による光の量の区域であり、同じ波動を持つ人々の集合しているところに存在するのであり上記の彼はその自分と同調している世界に行くことになるのだ。反省が出来るまでそこで何百年も過ごすという事になろう。
逃れられないことがあり諦めるという覚悟を持ち
天に従うことが大切だと思うこと
天の指示は人を通して、また物を通して
私たちの周りに難儀な問題という姿かたちをもって
顕現してくれている
それらの問題解決を通して私たちの人格が磨かれる
そのことの認識を深めていくことこそが人生の醍醐味で
あることを知ること
だから
それらの問題を明るい心で前向きにとらえ
積極的に行動、言動することが肝要である
こうした言葉を常に自らのそばに置きことあるごとに読み 目に入れることで心の中に
種子を播くようにしているのだ
結果として潜在意識という畑の中で成長していき現実となる
善きも悪しきも心の世界の投影されたものと理解せよ