2021年12月28日

老いるということ

 わたし達が年老いていくという事は
自然の流れの中での一場面の出来事であって、どうあらがおうとしてもそれは無駄な事なのだから素直にあきらめたらいいのです。
肉体には肉体の法則があり、諸行無常という事なのです。
 表面的には往年の如く若々しい姿を保つという事が出来ず、年々醜い姿に変化していくのであってその衰えにストップをかけようとしても無駄な努力という事になります。

 この世の中にあって生老病死という生命のメカニズムは普遍的なものであります。がしかしその普遍的なものに逆らい少しでも若く見せようといった執着心につけこみビジネス展開を図っているのが「健康食品」さらにトレーニングカリキュラムといった「アンティエイジング」の推奨、はたまた器具の販売、挙句の果ての整形美容など枚挙にいとまがない世界が展開され、日夜のコマーシャルの量も高齢者相手のコンテンツが目白押しです。
 実態はこんな世界不必要だとは思うのですが、これもまた「人間の業」なのでしょう。なぜならば中身は変わらないでしょう、どんなに努力しても心構えが変わらなければただの張子の虎といえます。

 年老いて肉体美が衰えてきている時こそ真の自分の「本性」が表面に現われてくるものです。
それぞれの人はそれぞれの人生の中で何を価値観として、何を重点的にして生きてきたのかが表面に現われてくるものです。
 顔の形そのものはその人それぞれなのですが顔つき、表情、立ち居振る舞い、普段の言動などにだんだんと人生の収斂されたものが顔を出してくるものです。

 尤も、肉体は衰えていっても心は永遠の存在なのですから、劣化していく肉体に執着を持つことなく滅びの後の心構えを明確にしておくという作業をしていけばいいのです。もともとこの世の肉体生命というのは限りありて、実に相対的な世界の中で善悪をいかに乗り越えていくかの修行をしているというのが正しい人生のありかたなのです。連続体である心 魂をいかに大きく豊かにするかをこの世の三次元世界で学ぶというのが好むと好まざるにかかわらず「人生の使命と目的」であります。
 実在界といわれているあの世と現象界といわれているこの世を何千回何万回と行き来しながらおのが魂を磨き万物の霊長として平和で豊かな世界を作っていくというのが万人に与えられた仕事なのだという事をかみしめていきましょう。
 あと数日で激動の2021年が終わり新しい年を迎えます。
気持ち新たに魂向上の旅を送っていくことを自らに約束して今年最後のブログとす。

posted by 筆文字や隆庵 at 09:51| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月25日

様々な現象の捉え方

 身の回りには多くの出来事が毎日発生している、直接自分に関係する事に関して一体どういう捉え方をすればいいのであろうか・・・を考えてみたい。

よくあるたとえ話にコップの水に対する考えとして「あと半分しかない」と思うか「まだ半分もある」と思うかによってその人の日常の考え方の習慣がわかるという。
 同じ状態をどう考えるか前者は悲観的な見方であり後者は楽観的な見方というのだが同じ現象においても考え方ひとつで意味がことなるのであります。つまり前向きな積極的思考と後ろ向きの消極的な思考のどちらかを選ぼうとするときは前向きになろうという話です。

 なぜか、それは時が前にしか進まないし振り返ってみて反省は善いが後悔ばかりで自分を貶めていってもいいことひとつもないという事を知っているからです。でもいつもそういう考えに陥る習慣を持っている人もいます。
 車を運転していてバックミラーばかり見ていると事故を起こすよという話です。
 前向きの人はプラスの言葉を吐き後ろ向きの人は愚痴をこぼし他人の悪口をいう、それぞれが「類は類をよぶ」ということわざ通り同様の思いを持った集まりが出来てしまうのです。
 色々な環境が出来上がります。
後向きで消極的で否定的な言動の多い人が発する雰囲気は暗くどんよりとした空気感をまん延させ、その雰囲気と同様な環境を作り不平不満の磁場ともいうべき世界が出来上がるのです。結果自己を不幸な境涯に貶めてしまう事になるわけです。
一方、積極的で前向きな言動は明るく楽しく素直な集団をつくり上げることが出来ます。結果として元気ではつらつとした環境となり善なる循環を呼び込むことになり幸福な人生を送れることになるのです。

 という事は調和された世界を求めるならばその環境をよくするためにはまず正しい心構え、積極的思考と正しい言葉遣いをする必要があるのです。その言葉は日頃から自らが培っている私たちの本性によって発せられていることに気付かなければなりません。
 だから自分の性格から変えなければならないという事なのです。
日々の生活の中において、どんな事態に対して(例えば人と仕事の話をする)どんな受け取り方をして(ああこの人は機嫌がわるいなあとかいいなあとか、また言葉遣いなどが好きとか嫌いとか)そして何を語ったか(何のために語ったのか、それは調和に役立ったか否かなど)に関して追跡とて行くという方法もあり、まとめて一週間とか一か月とかのサイクルでチェックしてみながら、正しく前向きで感情的ではない話し方が出来ていたかを観察しながら自分の本性を発見しては修正するといった一連の思考手順を身に付けたいものです。実はこれこそが人生を構築していく秘訣の第一歩だと考えるからです。

 
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2021年12月24日

人の対応の仕方に関して

 様々な出来事に対して何らかの考えがあり、その対応の仕方があります。特に日々の生活の中に発生する問題は毎回毎回それぞれに対して反応していくのでありますが、まずは正しく物事を見るという事をしなければなりません。
 正しく見るという事の反語は邪に見るという事になります。究極的にはその二極であってその中間という事はありません。あると思うのは思考がそうさせているのであって現象に対しては正しく見てるか否かという事になります。
 つまりは見るといった行為そのものはある客体に向けてなされるわけだから素直な感覚で見るといいのです、反語として挙げた邪推で見るという事はそこに何らかの恣意が入っているという事であって客観しているとは言えないのです。
 自分の思い込みというのが邪推に繋がり邪見となっていきます。
最初の段階からすでに邪であるから、次の段階である語ったり行動したりといった一連の反応が正しいはずがありません。
 物事には何らかの理由があって成り立っているわけで、私たちが日々目にしたり耳にしたことも原因と結果といった背景が存在するのです。

 そういったことから事象に対応していくわけです。正しく見るという事は私意を入れずに客観的に知性を使った見方を心掛けておく努力が必要なのです。

現在の日本政府の判断に関して、岸田内閣のはっきりしない有様も中国に対する方針(北京オリンピックの外交的ボイコットの有無)や18歳未満への給付金の件など迷走しているのにも理由があってのことだとは理解できるでしょう。

対中に関する決断を躊躇させているのは「経済界」との調整であろうし、クーポン券配布の件に関しては政治的な背景があろうし、オミクロン株に関しての調整は厚労省、医師会との調整であろうことは重々理解するものでありますが、これじゃ何のためのリーダーの存在かが疑われます。
日本丸のかじ取りを行うべき船長が決断しなくてはならない局面になっているのですがね・・・・
反応する材料はすでにそろっていると思われるのになぜか遅いのです。

大局をみる事が望まれます。





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2021年12月23日

専門知識に関して

専門知識にこだわった問題は過去から現在に至るまで多くみられる現象であります。
ここ2年に亘るコロナウィルスに対する考察、施策に触れるたびにそう強く思うのであります。
 司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」にこんなセリフがありました。
旅順攻略の際、砲術の専門家といわれていた伊地知参謀長に対して児玉源太郎がこのように言います「君は昨日までの専門家であって現在の専門家でない」とこのような意味の事をいうわけです。
専門家の知識は確かに重要である。が、しかし果たしてその専門知識を発揮する領域やその分野、環境を含め変化している場合があった時には何の用にも立たないのです。公式そのものがすでにあてはまっていないのだからうまくいくはずもありません。

 コロナ禍の中に於いての専門家の意見も上述の如く的外れだったような気がします。未知の分野なるゆえに当初は致し方ない事であったことは認められるし、それ相応の国民の努力を要請するのもむべなるかなとも思います。(それにしても飲食サービス業に特に問題ありとしたことには閉口しましたが)
 現在の研究が一体どうなっているかはわかりませんし様々な意見があるはずなのに「注意喚起と自粛」以外の情報、つまり正しい現状の分析、感染者激減の理由や外国との差がどうなのかと国民を勇気づけるような報道は目にしません、かろうじてネットの情報がそのことに触れているのですが、正しい見解について政府も専門家も触れませんよね

そもそも問題解決の手法があいまいな場合、その研究と検証作業の繰り返しが新たな専門分野として体系づけられるといったプロセスを踏んでいくものです。少なくとも一般の経営手法はそうした手順で成り立っているわけで、試行錯誤を繰り返しながら成果に結びつけるという活動を行っているわけです。

厄介なことは問題発生の初期段階においてはその精通者が限られている事とその従来の専門家といわれている人々の知識の枠内でしか判断できないという危険をはらんでいる事です。
現実の問題を客観的に把握するほうほうとして統計学があるのですが、そちらの専門学者の意見は取り入れられているのでしょうかはなはだ疑問に思うわけです。

2020年の1月中頃に初期段階を迎えあれから2年、一体専門家はどんなデータを持ちどんな対応をするのか見ものです

今回の一連のコロナ騒ぎで判明したことは
1.医師会のていたらく・・・病床解放ふびとポジショントーク
2.マスコミの偏向・・・全く信用できないレッテル張りがされました
3.政府の及び腰、官僚の不遜な態度
4.浅はかなワイドショーに踊らされる国民と選挙の事しか頭にない政治家

これらの存在を理解させて頂きました
情報リテラシーをしっかりと身に着ける必要性を感じた一年でしたね


posted by 筆文字や隆庵 at 15:25| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月22日

よくある話

 とある職場での話です。
上司が部下の山田君(仮称)に対して次のようなことを言った「よく仕事が出来る○○君だが、最近どうも独断で勝手に好き勝手やっているようだがどうなんだ」
山田・・・「一体誰がそんなことを言っているのですか?」
上司・・・「誰が・・ではない。その話が事実かどうかを聞いておる。みてみぬふりをしていては何も解決しないし、問題は誰が言ったのかではなく何を言ったのか、何が話題になっているのかということであって そのことが部員みんなの共通認識にまでなっているのかということなのだ
こうして、はからずも上司の私の耳に入ってきているという事はそれなりの事実か、さもなければ単なる誤解、もしくは意図された誤解なのかという事を当然理解しておく必要があるのだ」
山田・・・「客観的事実を確認いたします。その原因も追究します」

 という会話だったのですが 
 
言われている○○君本人がどう感じているかがポイントなのです

 通常他人から何か言われたり、噂になったり、誹謗中傷されたりするのは、その人に誹謗中傷されるなにか原因があるからであってその解決を図るには自らが考えなければならないのであります。
 ここで考えるべきは普段の立ち居振る舞い、言動、表情に至るまでの態度が果たして調和にやくだっていたかどうかが先ず第一であること
 人を見下していないか、また逆に誰かに取り入ろうとしているか、優越感や劣等感などで人を区別していないかその他など
 これらの生活状況がないかと反省する必要があります。

 真の人間は自らの行動をいましめている人の事を言います。





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2021年12月21日

物事に相対した時のふるまいに関して

 生活をしていく中で起きる現象に対して、人はどのような反応をするのかを考える。
あらゆる現象らにはすべてその現象を起こしている原因というものが存在し、原因なく無意味に顕れることがないのであります。
そういった現象の情報を受け取るのは五感ともいうべき、人間の基本機能であります。つまり眼耳鼻舌身というものであり、そこから入ってきた情報は何らかの判断と何らかの行動を引き起こしていきます。(何も判断しないというのは判断しないという判断であり何も行動しないというのは何も行動しないという行動であり双方ともそれなりの結果を生むことになります)
 判断をするという行為は本能でするのか、感情か知性かによってずいぶんと行動の為し方が変化します、本来正常に行動しようという時には必ず理性というものを働かせなければならないのです。
もし感情や本能のみで反応すれば多くは独りよがりになりがちであり、偏見や常日頃の不満などがあれば間違いやすい行動をとったり、ただただうろたえパニックに陥るということになり、問題の本質を見誤るという事を何度も経験しているのです。特に人間関係に関しては顕著な例を私たちはよく見聞きしているのです。
 また、これが知性のみで反応したりするとどうでしょう、計算づくめであり理屈が先行しがちであり情に欠けるきらいはあるものの概ね冷静な分析は可能であり段階に応じた目標解決のプロセス設計は比較的容易であります。
そしてこれらの一連の心の働きを制御していくのが理性という心の領域の役割でありましょう。
 反応の中で「思う」といった領域については下記の如く言われています。
第一想念によってその後の行為が左右されがちであり不統一でバラバラな思いは統一された思いに吸収される。という事でありもっと突き進んでいけば大なる生命に(リーダー的な思いつまりある種の性格によって)優先されるケースが多いのであります。これは大きい組織企業や国家によく見られますが、
感情が先だった反応という事もありうるのであります。そうであるならば結果的に熟慮不足による歪が生じまた新たなる問題を生じさせる原因になっていきます。その先だった感情が実に浅く表面的であればあるほど問題の本質から遠ざかっていきます。

 では相対する問題とは一体なんでしょう、それは自分の中で(もしくは所属する組織体の中)取り決められている大まかなルール上からみて違っていると思われる現象。自らの目的と現実の差ということなのですが、この時に判断する方向性は大きく二分されるのです。
 個人の思い込みと独断から発生している問題なのに愚者はその差の原因を他者に求め、賢者はその差は自らの内にあるものと認めるところから始まります。
 他者を悪者にして自分を正当化することによって得られる心情は周りの理解を得ることなく結果的に自らを苦しめる事になるのです。多くは誤解によって生じているか物事への理解不足によって発生している問題なのに(※詐欺にあう人はあう原因が自らにあり、また他人からの誹謗中傷もそうされる何かが自分にある) そのことに気付くことができないという欠陥を持つものであります。因果の巡り方は次のように考えられます。 他人が悪いー憎悪がわくー関連して嘘をつく(あることないことの吹聴)ー屁理屈ー冷酷ー依存心ー暗い心ー自分のために他者を犠牲ーさらにこのサイクルが回る・・・闘争と破壊の中にうずまり不幸な人生を歩むこととなる。

一方賢者は、自分が悪い(自分に何か問題があったのかもしれない)自分に降りかかってくる問題には必ずそれなりの原因がありその原因の元を消さない限り同じことが繰り返されるのであると認識する。
 考察、自己診断を為していく過程でその問題を解決する智慧が生まれ、勇気ある行動に結び付くそうすることによって物事の本質が明らかになり反省をすることが可能となりそれは陳謝の念と同時に感謝の念が溢れる。結果協力者も増え明るく楽しい道が拓かれるのです。

 ここで原点に戻って最初の感じ方がどうだったのか、どう感じたのかのポイントがわかってくるのです。このことを深く考えてみることが大事であり結局は自らの生まれ持った性格や、日常の態度や心構え、行為などに顕れている「本性」に気付くものであり一切の現象は突き詰めればその本性にあるという事がわかるはずです。

 わたしを含めた少なくない愚者はこんな心構えを持っています
 
怒り、愚痴、不平不満、貪欲、くよくよ、後悔、疑い、優柔不断、優越感、劣等感、他人を見下す、他人をうらやむ、鳥越苦労、持ち越し苦労
自己嫌悪、自己中心・・・・

 これらをなくす努力をしていくのが実は「人生の目的」だともいえよう





posted by 筆文字や隆庵 at 15:33| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月20日

今一度再び人間の生き方

大我の人
「マタイ伝」『福音書』第16章、25節より
 己が命を獲得する者はこれを失い、わが為に己が命を失う者はこれを得べし。
 イエスのこの言葉を意訳すると、「己が小我を獲得するものは大我を失い、我が為に己が小我を捨てるものは大我を
 得べし」ということになる
 小我の人とは
 人に褒められることを好み、集会の上席に座り、人に見られんがために施しをし、正しい人間(信仰者)であるかのような顔をして
 長い祈祷や説教をし、又意見し。常に自己中心的で高邁不遜で、小さいことにこせこせし、常に感情的であって、その場限りの
 欲望を満たそうとする人である。
 仏教的に言うと、人間を肉体だと見て、肉体の煩悩執着に振り回されている人々である。
 大我の人とは
 寛容にして慈悲あり、妬まず誇らず、驕らず、礼儀を正しく守り、奉仕報恩の行為をして個人的な利益を求めず、少しのことなどに憤らず、人の悪を思わず、不義を喜ばず、神理を喜び、忍辱し、信仰し、希望と愛、慈悲に生きる人である。
 仏教的によると、人間を霊的存在と知って、慈悲のこころを持ち、肉体的な欲望である煩悩執着をなくして、生き通しの永遠の生命を生きることを知った人である。

 園頭広周 著 「二十一世紀の宗教」より

 小我の人も大我の人も同じく「永遠の生命」であり魂巡礼の旅を現在地球上にて続けている仲間であることは間違いなきことでは
 あるが、それぞれの自我の在り方によって今の人生に影響を与えていくのである。
 
 この内容を理解するには現在の国会議員(特に特定野党のみなさん)の行動をみれば小我とは何かがよりお分かりいただけるものと
 思います

さて、私たちが永遠の生命として今あるとき
イエスは、「人は二人の主に仕えること能わず」といわれた。これは、肉体の小さな自分に仕えるのか、それとも神に仕えるのかということである。
キリスト教的に大我というのは、仏教的には宇宙即我に到達した人ということである。
宇宙即我に到達すると、大宇宙と自分が一体になり、大宇宙が自分であり、自分が大宇宙であり、万象万物すべては神の生命に生かされている生命の兄弟だということがわかる。
愛とは、すべての生命が切り離すことのできない、一つに繋がっている生命であるということを知った自覚から起こってくる聖なる心である。その一つの生命であるからこそ、人が病気をしたり、苦しんでいることを見て自分の事の様に悩み苦しむのであり
また、人の喜びや感動している姿をみて同じように喜び感動するのである。

宇宙と自分と一体となる「宇宙即我」と、神の心をはっきりと知ることが出来る。
その神の心を知ることが出来た自分を大我という。

真の大我の発見、即ち宇宙即我になることは大変難しいことではあるが しかし我々は大我になるように
精進しなければならない。

  参考文献 園頭広周 著 より抜粋

※ 恐らく大我の心を得た人として私たちが知っている偉人はそう多くはないと聞いています肉体を持ちながら
  宇宙即我を顕現した
  ゴーダマ仏陀、イエスキリスト、モーゼ、モーゼの後のエリア ギリシャにおけるアポロ
  近年では高橋信次師(1976年)などがあげられますが
  間違ってはいけないことは少なくとも世の中で宗教と呼ばれているものや○○教とか○○  会などという組織とは一切関係なく自らの心の中はすべて宇宙に通じているということです。
  私見ですがわたしは一宗、一派、一冊の経典にこだわることなくただ永遠の存在である神と神の法にそって生きようと精進していこうと念ずるものである。

posted by 筆文字や隆庵 at 19:07| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月15日

何を残したか

 人生という旅の中で一体私は何を残したのだろうか、と思いながら死を迎える人がいる。
財産があってもったいないから死にたくないという人がいる、
 いい人生だったと感謝しながら死ぬ人もいると聞く
 しかしながら、本来は肉体の死を迎えるだけで魂は、自らの個性を維持しながら生き通しの生命なのです。
生き通しの生命体である私たちは、ではどのような心構えで死を迎えることが正しいのであろうかと考える人は少ない。
そこで、よくよく考えなければいけない。
それには、この世界におけるあらゆる生命、動物のみならず植物、鉱物に至るまでいかなる仕組みで存在しているのかを知らなければならないでしょう。

 この世界という言葉の裏にはあの世界という言葉がついて回ります。世界は一体だれが作ったのでしょうか・・・旧約聖書の創世記では神が創造したものとして描かれています。日本の古事記ではも同様に記されています。最近では高橋信次師によって天地創造の在り方が説明されています。それは「人間釈迦」第一巻157頁からのくだり・・・この大宇宙は神によってつくられた。大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけが、そこにあった。
神はその意識の中で意思をもたれた。大宇宙の創造は、神の意思によってはじまった。意識の働く宇宙と、物質界の宇宙の二つの世界を創造した。
意識界の宇宙はその意思をもって物質界の宇宙を動かしそうしてこの二つの世界は光と影という相関関係を通して、永遠の調和を目的とすることになった。
神の意識は「永遠の調和」をめざし、そうして二つの世界にあって、調和の要である中道という法秩序のなかに住まわれることになった。
人間は、天地創造とともに、神の意識から別れ、神の意思を受け継ぐ万物の霊長としてうぶごえをあげた。人間の誕生は、意識界という実在の宇宙世界(あの世)にまず姿を現した。そうして神の意思である調和を目指す神の子として物質界に降り立ったのである。物質界に降り立った最初の人間を、地上の眼でみるならば、大地の一隅に忽然と物質化されたといえる。
 人間以外の動物、植物、鉱物もこうしたプロセスを経て、大地に姿を現した。こうしてあらゆる生命物質は実在界(意識界)と現象界(地上界)の間を、輪廻することになった。・・・・・

 という事は私たちがこの世の肉体を去る時、つまり死ぬという事はあの世という意識界に転生するという事に他ならないのであってこの世的な地位とか財産などといった形に顕わされているものはに翻弄されていることはバカバカしい事なのですね。
 あの世に持っていけるものは自らが思っている事、行為の結果としてどんな生き方をしたのかというすこぶる形而上の観点からしかないのではないかという意見に関しては、高橋信次師はつぎのように述べられている。

 永遠に存在している人の心には想念帯という領域があり、そこには魂の遍歴即ち意識界に誕生してからのすべてが記録されていて今まで体験したこと、思ったことや行ったこと、夢に至るまでの実態を映像化できるのだということだそうです
 すべての人は想念帯にある生活体験によってつくった原因の結果を甘んじて受けなければならないようになっているという事であって、もしまずい結果が引き起こされるようなことを反省することが出来ればその原因に対する結果は軽減されるという事を教えて頂いたのです。

続く・・・人間こま未知なる存在について



 

 

 
posted by 筆文字や隆庵 at 14:57| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月10日

人間・この未知なるもの

 一体私たち人間とは何だろうか 手足があり胴体があり筋肉、皮膚、そして心臓をはじめとした内臓、胃腸 などがあり、それらを神経が結びつけていて各機能が活動し生命を維持しているのであり、これらの形は万人に当てはめられる普遍的なものである。
 これらの生命活動を司っているコントロールセンターとして脳の存在があるとされており、このコントロールセンターから各機能への伝達手段を担っているのが神経系統それぞれであります。自らの意志で動かせる手や足を管理しているのが他律神経といい、心臓をはじめ内臓の動きを管理しているのが自律神経というのだそうだ、特に自律神経に関しては心と密接な関係があ り心が病むとそれに関連し臓器が病むのだといわれているのです。
 
 要するに人間の肉体の中に働く自律神経は、自動的に働くのと同時に肉体の主人公である私たちの心の影響を受けて失調するから自律神経失調症というのである。
 つまりこれらの問題が「心の在り方」によって左右されているという事になるのである。
 
人が肉体だけで構成されているとして、その本質を探っていけば数十兆個の細胞から成り立っていてその細胞をさらに細かく分けていくと原子にまで分類され、その原子は原子核と電子の組み合わさったものになっているのです。この膨大な数の原子が集まり分子となりそしてさらに細胞になっているというのが肉体としての人間だという事であります。当然目には見えないミクロの世界という事なのですが、現代の科学では「量子学」の世界という事になるのです。

 今一度考えてみて「人間」とは一体何なのだろう、何のために生まれ、どんな理由で今ここにいるのだろうかと思わない人っているのであろうか、そんな気がしている昨今の社会環境である。
世界各国においても人類の尊厳など無きに等しい有様に心が痛む次第である。
 人間の体の機能同様 世界規模の困難な問題は、各人の心の総和がつくり出している現象であると思うのである。
posted by 筆文字や隆庵 at 13:50| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月07日

人生行路・仕事の事

 人生はよく旅に例えられる、人生航路の乗り船に己の命を乗せ荒波に挑むといった言い方をする。
その航路とは海の事であります。海面は地球と月と風という要素が高気圧低気圧を生み出し静かな海であったり、荒々しい海であったりと色々な様相を現していきます。
 船を操縦していくという事は様々な役割を持ったクルー・乗組員の協力体制が確固たるものでないと不安になりますそこにチームワークとか役割分担という概念が入り込んできます、そうして共通の目的地まで到着するというミッションを遂行していくのです。

 あるお店の診断後に記した内容を披露したいと思います
その店はコロナ禍においてずいぶんと業績を悪化させていったのですが、実はそれ以前人が採用されにくい入っても長続きしないという現象が常であって、どこに問題があるかを従業員個人にそれぞれのレポートを書かせた結果 
それぞれが働く仲間としての信頼関係を失っていて誰もそのことにメスを入れていなかったために発生しているお店の不協和音が何となくお客様に対して悪い雰囲気を提供していたのだと思ったのです。
 いうまでもなく、あらゆる組織はお互いリスペクトしあい、相互扶助の連携から成り立っているものであり、精妙なエネルギーの交流から醸し出されるバイブレーションが良い雰囲気・・調和のとれた美しいハーモニーが生まれ、そこにお客様を呼び込む力が増加するのです。
よって、まずそのことを理解して頂けなければならないのです。

 人の組織運用に関し それぞれの生き方は各人それぞれに異なり 生まれた環境や教育・思想・習慣、五感による感受性などの違いから千差万別の様相があるという事は当然のことながら、少なくとも同じ職場に居るという事だけは縁があったという事になるわけです。
そうであるからこそ協力して仕事をするのだ・・ということは不可欠な課題であります。
 根本的な問題ですが、私たちは一体何のために仕事をしているのでしょうか、無論経済的理由のためという事はわかっています、否定はできませんが 果たしてそれだけが理由でしょうか・・・本来、人は皆で協力しあいながら色々の問題を解決し目的を達成するのが過去数百年もの昔からの人間の尊い生き方であるという事を知りましょう。そうした中から見出すのが自分の力を発揮できる場所でありねその結果として報酬を得るという事になるのです。
 だから、不満を持ち続けての仕事や普段の私生活がいかに自分のことを痛めつけているのかを知ることです。

 すべての出来事は関連しあっていて自分と他者とどちらかが一方的に問題があるのではなくお互い様だという事を学習するために今生きているということを知ることが大事です。
  まずは、自分の事を信じ自分を大切にしようと思うのであれば、他者に対する思いやりや、周りに存在てしてる物品や原材料、機械を大切にすることが大事なのだと思います。
 これは、私の意見ではなく歴史や科学が証明している原理原則 「原因と結果の法則」のなかにすべてがあるわけで、良い結果も悪い結果もそれぞれ何らかの原因があるという事です。

 どうかこの点ご理解お願い致します

 すべて自分の身の回りに起きていることは少なくとも自分に全く関係ないという事はありません。

 色々なレポートに書いてくれているおかげで全体が少しずつ把握できるようになってきました。
 元々、お客様の減少というのは店の雰囲気により左右されるものです。
 その雰囲気というのは、人が考えている事や行っている事の集約されたものが醸し出します。
 厳しいようですが、これが事実だと考えるのです。

posted by 筆文字や隆庵 at 12:44| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月01日

人生の経営者

 この素晴らしい人生
そのものを経営しているあなた自身がいる
あなたは経営者 
 なぜなら あなたは今 あなた自身の人生を経営している

 時々刻々と変化していく環境の中で
 人生の経営はあなた自身の歴史をつくる

 その人生の中で あなたは自らを経営し
 縁ある人々を幸せにする

 大きな使命をもって・・・

 
どのような人生を歩むか経営計画を作ろう


 
posted by 筆文字や隆庵 at 09:50| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする