人生という旅の中で一体私は何を残したのだろうか、と思いながら死を迎える人がいる。
財産があってもったいないから死にたくないという人がいる、
いい人生だったと感謝しながら死ぬ人もいると聞く
しかしながら、本来は肉体の死を迎えるだけで魂は、自らの個性を維持しながら生き通しの生命なのです。
生き通しの生命体である私たちは、ではどのような心構えで死を迎えることが正しいのであろうかと考える人は少ない。
そこで、よくよく考えなければいけない。
それには、この世界におけるあらゆる生命、動物のみならず植物、鉱物に至るまでいかなる仕組みで存在しているのかを知らなければならないでしょう。
この世界という言葉の裏にはあの世界という言葉がついて回ります。世界は一体だれが作ったのでしょうか・・・旧約聖書の創世記では神が創造したものとして描かれています。日本の古事記ではも同様に記されています。最近では高橋信次師によって天地創造の在り方が説明されています。それは「人間釈迦」第一巻157頁からのくだり・・・この大宇宙は神によってつくられた。大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけが、そこにあった。
神はその意識の中で意思をもたれた。大宇宙の創造は、神の意思によってはじまった。意識の働く宇宙と、物質界の宇宙の二つの世界を創造した。
意識界の宇宙はその意思をもって物質界の宇宙を動かしそうしてこの二つの世界は光と影という相関関係を通して、永遠の調和を目的とすることになった。
神の意識は「永遠の調和」をめざし、そうして二つの世界にあって、調和の要である中道という法秩序のなかに住まわれることになった。
人間は、天地創造とともに、神の意識から別れ、神の意思を受け継ぐ万物の霊長としてうぶごえをあげた。人間の誕生は、意識界という実在の宇宙世界(あの世)にまず姿を現した。そうして神の意思である調和を目指す神の子として物質界に降り立ったのである。物質界に降り立った最初の人間を、地上の眼でみるならば、大地の一隅に忽然と物質化されたといえる。
人間以外の動物、植物、鉱物もこうしたプロセスを経て、大地に姿を現した。こうしてあらゆる生命物質は実在界(意識界)と現象界(地上界)の間を、輪廻することになった。・・・・・
という事は私たちがこの世の肉体を去る時、つまり死ぬという事はあの世という意識界に転生するという事に他ならないのであってこの世的な地位とか財産などといった形に顕わされているものはに翻弄されていることはバカバカしい事なのですね。
あの世に持っていけるものは自らが思っている事、行為の結果としてどんな生き方をしたのかというすこぶる形而上の観点からしかないのではないかという意見に関しては、高橋信次師はつぎのように述べられている。
永遠に存在している人の心には想念帯という領域があり、そこには魂の遍歴即ち意識界に誕生してからのすべてが記録されていて今まで体験したこと、思ったことや行ったこと、夢に至るまでの実態を映像化できるのだということだそうです
すべての人は想念帯にある生活体験によってつくった原因の結果を甘んじて受けなければならないようになっているという事であって、もしまずい結果が引き起こされるようなことを反省することが出来ればその原因に対する結果は軽減されるという事を教えて頂いたのです。
続く・・・人間こま未知なる存在について