2021年12月20日

今一度再び人間の生き方

大我の人
「マタイ伝」『福音書』第16章、25節より
 己が命を獲得する者はこれを失い、わが為に己が命を失う者はこれを得べし。
 イエスのこの言葉を意訳すると、「己が小我を獲得するものは大我を失い、我が為に己が小我を捨てるものは大我を
 得べし」ということになる
 小我の人とは
 人に褒められることを好み、集会の上席に座り、人に見られんがために施しをし、正しい人間(信仰者)であるかのような顔をして
 長い祈祷や説教をし、又意見し。常に自己中心的で高邁不遜で、小さいことにこせこせし、常に感情的であって、その場限りの
 欲望を満たそうとする人である。
 仏教的に言うと、人間を肉体だと見て、肉体の煩悩執着に振り回されている人々である。
 大我の人とは
 寛容にして慈悲あり、妬まず誇らず、驕らず、礼儀を正しく守り、奉仕報恩の行為をして個人的な利益を求めず、少しのことなどに憤らず、人の悪を思わず、不義を喜ばず、神理を喜び、忍辱し、信仰し、希望と愛、慈悲に生きる人である。
 仏教的によると、人間を霊的存在と知って、慈悲のこころを持ち、肉体的な欲望である煩悩執着をなくして、生き通しの永遠の生命を生きることを知った人である。

 園頭広周 著 「二十一世紀の宗教」より

 小我の人も大我の人も同じく「永遠の生命」であり魂巡礼の旅を現在地球上にて続けている仲間であることは間違いなきことでは
 あるが、それぞれの自我の在り方によって今の人生に影響を与えていくのである。
 
 この内容を理解するには現在の国会議員(特に特定野党のみなさん)の行動をみれば小我とは何かがよりお分かりいただけるものと
 思います

さて、私たちが永遠の生命として今あるとき
イエスは、「人は二人の主に仕えること能わず」といわれた。これは、肉体の小さな自分に仕えるのか、それとも神に仕えるのかということである。
キリスト教的に大我というのは、仏教的には宇宙即我に到達した人ということである。
宇宙即我に到達すると、大宇宙と自分が一体になり、大宇宙が自分であり、自分が大宇宙であり、万象万物すべては神の生命に生かされている生命の兄弟だということがわかる。
愛とは、すべての生命が切り離すことのできない、一つに繋がっている生命であるということを知った自覚から起こってくる聖なる心である。その一つの生命であるからこそ、人が病気をしたり、苦しんでいることを見て自分の事の様に悩み苦しむのであり
また、人の喜びや感動している姿をみて同じように喜び感動するのである。

宇宙と自分と一体となる「宇宙即我」と、神の心をはっきりと知ることが出来る。
その神の心を知ることが出来た自分を大我という。

真の大我の発見、即ち宇宙即我になることは大変難しいことではあるが しかし我々は大我になるように
精進しなければならない。

  参考文献 園頭広周 著 より抜粋

※ 恐らく大我の心を得た人として私たちが知っている偉人はそう多くはないと聞いています肉体を持ちながら
  宇宙即我を顕現した
  ゴーダマ仏陀、イエスキリスト、モーゼ、モーゼの後のエリア ギリシャにおけるアポロ
  近年では高橋信次師(1976年)などがあげられますが
  間違ってはいけないことは少なくとも世の中で宗教と呼ばれているものや○○教とか○○  会などという組織とは一切関係なく自らの心の中はすべて宇宙に通じているということです。
  私見ですがわたしは一宗、一派、一冊の経典にこだわることなくただ永遠の存在である神と神の法にそって生きようと精進していこうと念ずるものである。

posted by 筆文字や隆庵 at 19:07| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする