生活をしていく中で起きる現象に対して、人はどのような反応をするのかを考える。
あらゆる現象らにはすべてその現象を起こしている原因というものが存在し、原因なく無意味に顕れることがないのであります。
そういった現象の情報を受け取るのは五感ともいうべき、人間の基本機能であります。つまり眼耳鼻舌身というものであり、そこから入ってきた情報は何らかの判断と何らかの行動を引き起こしていきます。(何も判断しないというのは判断しないという判断であり何も行動しないというのは何も行動しないという行動であり双方ともそれなりの結果を生むことになります)
判断をするという行為は本能でするのか、感情か知性かによってずいぶんと行動の為し方が変化します、本来正常に行動しようという時には必ず理性というものを働かせなければならないのです。
もし感情や本能のみで反応すれば多くは独りよがりになりがちであり、偏見や常日頃の不満などがあれば間違いやすい行動をとったり、ただただうろたえパニックに陥るということになり、問題の本質を見誤るという事を何度も経験しているのです。特に人間関係に関しては顕著な例を私たちはよく見聞きしているのです。
また、これが知性のみで反応したりするとどうでしょう、計算づくめであり理屈が先行しがちであり情に欠けるきらいはあるものの概ね冷静な分析は可能であり段階に応じた目標解決のプロセス設計は比較的容易であります。
そしてこれらの一連の心の働きを制御していくのが理性という心の領域の役割でありましょう。
反応の中で「思う」といった領域については下記の如く言われています。
第一想念によってその後の行為が左右されがちであり不統一でバラバラな思いは統一された思いに吸収される。という事でありもっと突き進んでいけば大なる生命に(リーダー的な思いつまりある種の性格によって)優先されるケースが多いのであります。これは大きい組織企業や国家によく見られますが、
感情が先だった反応という事もありうるのであります。そうであるならば結果的に熟慮不足による歪が生じまた新たなる問題を生じさせる原因になっていきます。その先だった感情が実に浅く表面的であればあるほど問題の本質から遠ざかっていきます。
では相対する問題とは一体なんでしょう、それは自分の中で(もしくは所属する組織体の中)取り決められている大まかなルール上からみて違っていると思われる現象。自らの目的と現実の差ということなのですが、この時に判断する方向性は大きく二分されるのです。
個人の思い込みと独断から発生している問題なのに愚者はその差の原因を他者に求め、賢者はその差は自らの内にあるものと認めるところから始まります。
他者を悪者にして自分を正当化することによって得られる心情は周りの理解を得ることなく結果的に自らを苦しめる事になるのです。多くは誤解によって生じているか物事への理解不足によって発生している問題なのに(※詐欺にあう人はあう原因が自らにあり、また他人からの誹謗中傷もそうされる何かが自分にある) そのことに気付くことができないという欠陥を持つものであります。因果の巡り方は次のように考えられます。 他人が悪いー憎悪がわくー関連して嘘をつく(あることないことの吹聴)ー屁理屈ー冷酷ー依存心ー暗い心ー自分のために他者を犠牲ーさらにこのサイクルが回る・・・闘争と破壊の中にうずまり不幸な人生を歩むこととなる。
一方賢者は、自分が悪い(自分に何か問題があったのかもしれない)自分に降りかかってくる問題には必ずそれなりの原因がありその原因の元を消さない限り同じことが繰り返されるのであると認識する。
考察、自己診断を為していく過程でその問題を解決する智慧が生まれ、勇気ある行動に結び付くそうすることによって物事の本質が明らかになり反省をすることが可能となりそれは陳謝の念と同時に感謝の念が溢れる。結果協力者も増え明るく楽しい道が拓かれるのです。
ここで原点に戻って最初の感じ方がどうだったのか、どう感じたのかのポイントがわかってくるのです。このことを深く考えてみることが大事であり結局は自らの生まれ持った性格や、日常の態度や心構え、行為などに顕れている「本性」に気付くものであり一切の現象は突き詰めればその本性にあるという事がわかるはずです。
わたしを含めた少なくない愚者はこんな心構えを持っています
怒り、愚痴、不平不満、貪欲、くよくよ、後悔、疑い、優柔不断、優越感、劣等感、他人を見下す、他人をうらやむ、鳥越苦労、持ち越し苦労
自己嫌悪、自己中心・・・・
これらをなくす努力をしていくのが実は「人生の目的」だともいえよう