2022年04月20日

正しいということを宗教に求められるか

 そもそも信仰していない人はいない、なぜなら信じていることが、ものが、人があるからこそ日々生きていけるのが真実だからと思うわけです。
例えば、一夜が明ければ朝はやってくるということであったり食べるものには毒は入っていないと信じているから食べることができるのであったり、信号が赤だったら車や人は止まるものと信じているからこそ日々暮らしていける、信じているのです。
 たまに、信じていないという人がいますが、そういう人でも「信じていない」ということを信じているということになるのです。レトリック的言い回しかもしれませんが
信仰とはそういうものです。

 世には非常識な信仰もあり、物質充足こそが最大の目的としそのことを信じているという信仰もあり、自分だけが裕福でありたいという信仰もあるわけで、もう何が何やら真実が一体どこにあるのかが混とんとしているのが現代社会ではないでしょうか、この混とんとした社会を改善しようとばかり古今東西数多くの哲学者や宗教指導者によって研究され人としてのあるべき形や、社会とのかかわり方などを論じてきたという記録が、古文書や伝え書き、伝聞としてであっても 世界各地に点在しているのが人類の混迷の証左でありましょう。
 現代の日本はといえば、仏教系、キリスト教系の宗教団体なるものが何百と存在しているのですが、何百何千とある宗教法人の存在こそが逆にそれらの宗教が正しくないということであると思うわけです。

 いうまでもなく仏教という「仏の教え」はおおよそ2500年ほど前の古代インドに於いて、当時クシャトリヤという武家の王子であった「ゴーダマシッダルター」と言われた方が出家し「悟り」開かれ、その悟りの内容に関しての論理説法をもとにして構築されたものであります。その当時「悟り」を開かれた聖者のことを「仏陀・・・ブッダ」というわけです。その仏陀の教えが長い年月をかけインドからチベットに亘り、中国を経て日本へと伝えられてきました。
 平安時代に伝教と言われた方や弘法大師が中国から学び持ち帰った教えがそれぞれ「法華経」「密教」として定着していったのであります。
 もともと文字の読めない人々が多かったとされている古代インドでゴーダマブッダによって語られた言葉を文章にまとめたのが「アナン」言葉を記憶しアナンとともに教えをまとめる手伝いをしたのが「マイトレイヤー」のち言い伝えられる「ミロク菩薩」と言われた方、によった文集は「古代インドの文字」で書かれてあったわけです・・当然のことながらさらにこの言葉を中国語にします。

 般若心経は中国の偉い坊さんであった「玄奘三蔵」と言われた方が書き残したのですが、インドからその言い伝えられてきた「ゴーダマブッダ」の教えが書いてあるもの(おそらくはサンスクリット語に近いもの)を中国に持ち帰り自国の言葉に、漢字に翻訳するという作業をしていくわけでありますから、
 さぞかし秀才であったことが想像できます。日本に伝えられた時は中国語ですから、今度はそれを日本語にかえていくといったこれまた大変なことであったでしょう。

 翻訳作業というのは翻訳する方の言葉の知識、恣意などの混入によって微妙な解釈違いが発生することはやむを得ないことであったと考えられます。本来の「仏陀」の教えはこういう経路を経て、又は権力者の影響なども受け変化していったものです。
 伝教大師の比叡山も、弘法大師の高野山もその時々の権力者との関連から、本来あるべき姿から遠のいていったものだと考えられます。

 こうしてみたとき仏教はすでに仏陀の教えとはかけ離れていき「末法」と化しているのが現状であると思う次第です。



 


 

 
posted by 筆文字や隆庵 at 10:27| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする