2022年05月31日

子供の通知表より抜粋

  小学生の孫の通知表にある「行動の規範」これらの項目は子供のみならず多くの大人たちにも当てはまるものと思い、生き方の見直しを行ってみようと思い自答してみた

 1. 基本的な生活習慣・・・・(あいさつ・コミュニケーション) 誰にでも気軽に気持ちよく挨拶をする。
 2. 基本的な生活習慣・・・・(時間)必要なものをそろえ時間を守る。
 3. 健康・体力の向上・・・・健康や安全に気を付けて生活する。
 4. 自主・自立   ・・・・自分の考えをはっきり言える
 5. 責任感     ・・・・自分の係、当番、掃除などの仕事をやり通す
 6. 創意工夫    ・・・・新しい考えや方法を見つけて生活をよりよくしようとする。
 7. 思いやり    ・・・・相手のことを思いやり、友達と協力する
 8. 生命尊重    ・・・・自然愛護、自然や生き物を大事にする
 9. 勤労奉仕    ・・・・自らが進んで仕事をお手伝いをする
10. 公平・公正   ・・・・相手の立場を考えて誰に対しても同じように接し 気持ちよく生活をする
11. 公共心・公徳心 ・・・・みんなで決めたことや学校の決まりを守る

 実はこれらのことは数字で表せられる成績などより大切なことと思う。無題 - 2022年5月1日 17.35.51.jpg

 山野の名もなき花ひとり、誰にみられているかも意に介すことなく、自らの生命を輝かせている。そんな花の命も 太陽があり
 大地があり、水があるからこそ存在があるのだと そのことを知っている
 人間だけが自己中心に、欲ばって生きている。なんと愚かなる振舞かを知ろう



 
 
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2022年05月30日

誤解だらけの人生

 つくづく思うこと、私たちの周囲に蔓延している数々の出来事とそれによって影響を受ける人、受けない人。
事故にあう人あわない人、どこがどう違うのであろうか。

 単なる運・不運で割り切れるものだろうか、神の創られた法則に忠実に生きていればその災いなるものから免れるのである。という人達がいる

とはいうものの、現実に苦慮しているわけだからそう簡単に納得できるものではないのである。
 そもそも人生というのは自分自身とそれ以外の事象、物や人や組織との関わり合いの中でいかに幸福感をもって生きていこうか、と考えることから始まるのであろう。
 そして、人生とは一体どういうものであるかという事をある時は試行錯誤をして、またある時は先人たちの教えを学びながら、その解答を求めてきた。そのことの連続が人類の歴史を作ってきた大きな要因であっただろうと考えるのである。

私たちは仕事をとおして、又家庭生活を通して様々な問題解決に挑んできたものであるが、さて数々の書物や体験を通して知らず知らずのうちにそれらの問題を解決すべき手順を大まかに次のように考えてきた。

 1. 現状認識と解決後の形・・・現実はいったいどのようになっているのか、どうなっていればいいのかを図る
 2. 原因追跡、類推・・その現実をあらわしてきたのはどういう原因があったのだろうか
 3. 原因究明と課題抽出・・原因が解れば対策の方針策定ができるのである。
 4. 課題解決に必要なこと・・技術や協力者や時間や予算の獲得などのリストアップ
 5. 優先順位の設定・・緊急短期、中長期の区分
 6. そして行動基準徹底後の行動そのもの
 7. 達成・・・達成の道筋の記録
  ここまでが解決のための手順なのである。

 ところが、現状認識といった最初の段階で間違った情報・・その情報が意図されているかいないかにかかわらず、そのことを問題解決の基本としている場合はその後のすべての施策は全く無意味になってしまうのである。
 マスコミ情報を信じ鵜吞みにして間違いを犯してしまう人たちが増えてきていないか、要注意なのである。

 独りよがりで、思い込み、固定観念などが私たちを苦しめているという事を知らなければならないと思う次第である
物事の本質を理解するためには、まず物事を見る目を養わなければならない。
 法則の第一は正しく見るという事なのである。心の目で見るということをしなければならない。釈尊が説かれた「八正道」は正しく見るという「正見」からはじまり次に正しく思う「正思」と続き、次いで正しく語る「正語」という風に連続していくのである。

 多くの人たちの思惑が絡み合って現実を作り上げているという事はそこに誤解と思い込みが集約されているといって過言ではない、ついでに自己中心的な欲望も渦巻いていることも加味していかなければならないだろう。

 そうした世界の動き、日本社会の動き、日常生活の中での動きなどは法則に照らし合わせて考えよう・・・と日々自らに問いかけている
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2022年05月27日

誤解と思い込み

 世の中のほとんどの事態は誤解と思い込みで成り立っている。そこに真実を見出すことができるのか、例えばある人のこと。彼は噂によると○○の癖があり中々難しい性格だよね・・などとある有力者が語ると、そのまま世間に流れ そのようにある人レッテル張りがされる。これ世の常なるもの。
 マスコミによる報道は誤解の根源となりかねない。
誤解どころか社会生活に悪影響すら与えかねないのが現代のマスコミだといいたいところであるが、この手の類は大昔から存在していたのです。 人のうわさしかりですな、
今みたいに情報伝達手段がなかった頃においても同様に社会は多くの誤解から成り立っていたような気がするのである。
このことは、太古の昔からそうだったであろうと思います。
だから、釈尊は八正道を説き、正しく見よと説かれています。現象に対してその背後にある因を配慮してみなければならない。というのは同じ現象にさいして様々なことを感じるものであってそのことにとらわれてはいけないのであって自らの心の中に問いかけるという事が大切である。
という事なのです、

思い込みで判断したりしてはいけない

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2022年05月23日

知識は人生にとってどんな意味があるか

 えてして頭の良い人というのは、物事を知りえたというだけで満足してしまい、現実の暮らしにどう生かすのであるかという行動力にかけている場合が多いように思います。
 知識を得たらそれを実践し、その知識がいかなる結果をもたらしたかを知る必要があると思うからです。
そう思わないと知識そのものを成立させているいろいろな要素に対して失礼じゃないかとも思う次第なのです。
 知るは行いのはじめ 行いは知るの完成・・・というメカニズムこそが私たちを大きく成長させ人生を豊かなものにしていく手段であると考え
 (良いと知ったら為せという「知良致」「知行合一」という陽明学の教えに準ずる)

つまり行動を伴わない知識などなんの役にも立たない、智慧になりえないという事なのです。

 私たちが必要としている知識、教養というものは無論インターネットなどにあるような薄っぺらい雑多な情報の集合体ではないのであり、又書斎に閉じこもって本をめくってばかりばかりでは得られないものであります。
つまり現実対応型によるものでなければならないのです。
 屍のごとき知識ではなく日々の生活に役立ち、命を吹き込まれた知識として、さらにその知識に情緒や、形(行動様式)と一体になった時に智慧となり真の教養という事になるものと思います。

では、情緒や形とは一体何であろうか、

情緒とはほぼ先天的に備わっている喜怒哀楽という心の動きではなく、より高次元ともいえる後天的な体験から得られるものと思われます。
 その人が生まれ育った環境や思想、習慣などによってどのように培われてきたか、どんな人生を歩んできて、どのように反応してきたか、その繰り返しによって後天的な人格が形成されるものです。
 その教養の中には「美的感受性」「正義感」「もののあはれ」感じるもの感性とでもいえるものが含まれているという事をここでは述べています。
私の考えている情緒とは、自らの周りの環境に対してポジティブな思考をもって対処しようとする心の働き、学問と体系化された行動哲学
 されど非論理性なものに対する心配り、科学絶対主義に対する反対意見の整理、弱者に対する思いやり、卑怯を憎む心、正義感、勇気、誠実性、また文学や芸術に関する造詣や歴史、歴史が作り上げてきたブランドなど、例えば日本国を日本たらしめている国家理念や、皇室をいただくといった世界に類を見ない国であることの自覚、過去現在未来にわたって有するイデアなどを含めたもの。これを教養の礎にしたいものだと
思う次第です。

 これらは、ポジショントークしかしない政財界の大物といわれている似非エリートたちやテレビ・マスコミでもっともらしいことを自信満々に語る人々でなく幾年月にわたった歴史の中に存在した聖人や愚人や庶民の中での様々な物語を書物によって知ることで身につくものだといえましょう。

それこそが人としての生き方であるし嘘のない誠実な人生を歩むことのできる秘訣だと思うのであります。

 偉大なる指導者から原理原則を学び、庶民の文学や芸能からもののあはれを知った豊かな人間性を発揮し
 ある時は笑い、涙し、共感しながら日々の生活から学んだことを自らの歴史として今生を有意義なものにしていきたいと
 思う次第であります。
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2022年05月21日

知性と調和と

 調和に関して考えてみると、調和には高低があります。
調和の頂点は「宇宙即我」であり低次元では「自我我欲」であります。
自我我欲は調和とは言えないが自我我欲におぼれるものはその状態が「調和」とみているかもしれません、しかし現実の想念行為は客観的にはわかっている事柄でも、自分に都合の良いように是非判断を下している場合が多いのではないかと思うのです。

 どう考えてみても客観的事実を踏まえたら「新型コロナ」などはインフルエンザと同じ程度の扱いでも構わないとはおもうのですが政府はエボラ出血熱などと同等の伝染病扱いという位置づけを変えませんし、医師会、分科会も同様で国民の暮らしを不自由にしたまま ただ「怖いよ」というだけのマスメディアのいいなりになっていっているのは、問題が起きた時の言い訳になるといった選挙対策、つまりは自我我欲の議員と医師会その他関係各位の間違った行動だといえるのではと、思う次第です。いずれにしても利権が働いているとしか思えない現状ではあります。

 本来の意味においてそこが調和であるか否かの一線は自分の欲望のためだけに知性が動いているかどうか、物の効用のみに執心し物の成り立ちを忘れていないか(すべてのものは方便にしかず、本来心主体でなければならない) 正しい想念のもとにこそ真の智慧が湧現されるものだという事を私たちは知らなければならないのです。
そこで、目的と手段のバランスを見なくてはならないという事なのですが、実際のところ調和を目的として働いている知性は智慧となって心の底から湧き出てくるのであって
たいていは望んでいる良い結果が表れてくるものなのです。

 調和を目的としてものごとを進めようとするときは天からの加護があるのです。それはなにも知性だけではなく感情・本能・理性についても勿論のことですが。天の加護といってもそれは私たちに非常に縁のある守護霊・指導霊の導きであります。
 あることについて、追求し求めていると私たちはしばしばヒラメキや直観というものが働き全く関係なき事柄があっという間に結びつき成功につながったという体験は誰しもが持っているでしょう。

 これらの作用はもちろん本人の努力の結果であるがしかしその努力に対する示唆が守護・指導霊からあるというのも事実であります。
自ら努力しないでタナボタ式に何かを求めようとしてもこうした作用は働きません、第一 知性を通して知識という縁が結ばれていないので智慧もわいてこないのであります。
 前世で学んだものは今世でも何らかの形で同じものを学ぶ機会があるものだ、だから今生でそうした縁をつくると本人の心の広がり(自我我欲を捨て去るとおのずと心の広がりは実現する)に応じて必要な智慧はどんどん湧いてくるものなのです。
 知識は外的なものであり智慧とはその外的な知識が心の中で濾過され、体験という努力を通して現れてくるものであります。

 私たちがこの世に生まれてくる前に守護霊とは様々な点での援助や叱咤などについてお願いしているという事を多くの人は知らない
 古人のことわざに「天知る・・・」「天網恢恢・・・」などというのはこのことなのであります。守護霊が私たちの今生での思念や行為はすべて筒抜けであるという事です。

 自己保存 自我我欲の煩悩をすてよ さすれば天からの示唆に敏感になっていき間違いが少なくなっていくのです。




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2022年05月20日

故郷の記憶

 私たちの肉体は父母からいただいた。肉体の故郷は遠き夢の中にあるようで、生まれそだった田舎の風景がいつもぼんやりとはいえ
心の中の記憶としてよみがえるもの
 山野の名もなき花もひとり、誰にみられるかも意に介す事もなく自らの生命を輝かせている
そんな花の生命も大地があり、水がありそして太陽の光があるからこそ
そこに存在することができるのである

 これ大自然の理 一人で生きていくことは許されないという事を花も 山も知っている
いわんやわたしたちにおいてをや
 この理をしらずして生きてゆけるものではない。

 人間よ目を覚ませ、単独で存在できるものなど何一つないという事を確認せよ、私利私欲の行為が誤りであることを日々の出来事や過去の歴史から学ぶのだ

 先般半世紀ぶりに同級生と交流した、故郷の写真を送って頂いたので絵にしてみました。

高森両へいから.jpg

 
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2022年05月19日

環境との調和

 私たちを取り巻く環境、大自然の存在 なかんずく花鳥風月、森羅万象の営みすべてが一定の律動をもって私たちの目前に展開されていきます。
 春夏秋冬という季節の移り変わりを持つ日本の風土は多くの文化を生み出し支えてくれています。

そうした世界観をもつ私たちは、景色の移り変わりに感激し、感謝するものとして新たな数々の文学や芸術を育んできました。
 とりもなおさずそれらのシーンは紛れもなく私たちの人生を彩ってくれたと思うのです。

私たち人間は大宇宙の大自然界から見れば極小の世界にいるとるに足らないものだと思うけれども
心の世界ではこの大宇宙大自然界につながっているという事を知っています。

 これらの営みが私たちに大いなる恵みを得ているという事に感謝したいものです。

大宇宙大自然界に意識あり 意識は大宇宙体を支配し万生万物をして調和の姿を示さん
posted by 筆文字や隆庵 at 21:45| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月18日

体験に学ぶ

 禍福は糾える縄の如しとはいうものの、本来は福だけで済めばと誰もが思うこと。

 しかし、はからずも禍にまとわりつかれ一向に心の安定を得ることができないと、いう事も現実として否定はできないものであります。その折に私たちはいかなる心構えでいることが大事なのかを考えてみたいと思います。

 そもそも、禍(わざわい)とはいかなることを指すのでしょうか、今の自分が置かれている環境が気に入らないとか物質的な飢餓があるとか
病気で苦しんでいるとか、知識が不足しているために世の中に対応できないとか、いろいろあります。
 それらは何らかの原因があってそうなっていることを考えもせず○○が悪いとか、問題が自分以外にあったのであるとか言って責任転嫁している人の多いこと、運がいいとか悪いとか といった言葉も何かほかに問題を転嫁しているのではないかと、自己反省している人は少ないのではないかと思う次第です。

 なるほど、世間を見るとそう思わせられるような事件や事故が多発していて、どう考えても他人のせいであって当人には問題がないではないかという事案は数多く存在しています。それでも、自分が作った原因の結果だという事。これが因果律という法則であるという事を仏陀も、イエスも述べているのであります

 結論からいうと、その禍も含めて福なのであるという事であって、人間の生命の目的と使命は魂の成長なのであるから禍福もそれぞれがその材料なのだという事
 死しても永遠に生きているのだから一時の死に執着しない その禍福から学ぶべきものを発見し自らの魂の成長を図っていく。
これこそが正しい心構えだというのが真理であります。
posted by 筆文字や隆庵 at 20:36| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月17日

宇宙そのものである心

 私たちの心は宇宙そのものでありそれこそが創造主である「神」ともいうべき存在から分かれたものであるといえます。
では、心とは一体何でしょうか

 大きくは次のように機能分化されています。1.本能 2.感情 3.知性 4.理性 とそれらを統合している想念帯というべきいわば記憶庫という領域であり過去世の記憶も潜在している場所であります。
 また前述の4っの機能 本能 感情 知性 理性も表面意識と潜在意識とがあり無限の世界観は大自然の仕組みが理解されており神の恵みを受けている世界を作っているのです。

本能の表面意識は、欲望につながりがちであり所謂 地位 名誉 財 愛欲 エゴ 逃避 拒否 闘争 建設 破壊 戦争(男) 平和(性の混乱)などの両極端に分かれる。本能の潜在意識は「建設と調和」に収れんされていくのでありますが、一時本能として食と性を軸に二次本能へと展開していき前述した地位 名誉 財産という風になっていきます。
 
とはいえ、本能があるからこそ肉体の維持ができ子孫を残すことができるものであり男女の調和は幸福の基礎でもあります。

感情というものは行動の源泉であり理屈はわかっていても、感情が肯定しないと人は行動に出ることは少ないのです。
人間の行動の7〜8割は感情の働きともいえる。
 感情の表面意識は「喜怒哀楽」怒り、喜び、哀しみ、愚痴、嫉妬、そねみ、ねたみ、恨み、中傷、恐怖 など自己中心的行動。
感情の潜在意識は愛そのものであり、感動や感激 感謝 豊かな情操・調和、他を生かす愛が働くためこうした感情が働くのであります。喜怒哀楽もあるが、自己本位ではない

 豊かな感情想念は利害を離れて明るい社会をつくる源でもあるわけです、感情のない世界を想像するとそこにあるのは暗黒世界であります。


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2022年05月16日

神の子としての行動規範

 大宇宙の中の太陽系という豆粒みたいに小さい存在である地球のそれ又極小の存在、人間が大宇宙の一部分として今こうして生きているわけなんです。
 しかしその極小な存在である私たちがなぜ大宇宙の広さを実感できるのでしょうか、どんなに精巧なレンズを通しても肉眼で見る宇宙の広大さは認識できないのです。
 なぜか、それは私たちの心そのものが宇宙大の大きさを持っているからなのです。その神の子としての私たちが、それでは何を物差しに生きていく規範を定めるのでしょうか

 ここでは、その徳目に関して考えてみたいと思います。
第一の徳目・・・友愛(愛と慈悲)、救助、協調、今日胴、忍耐、正直 などなどどれがかけてもダメなんですが、これらの心を持ちそれを実践すること。つまり、神性といわれるあらゆる善徳を実践するという事になるのです。

第二は・・・・・我々の生活をできるだけ優雅に親切に、調和を保って日々が明るく朗らかになれるよう努力をし完全に生き抜くことによって成就するものであります

第三には・・・あらゆる立場をこころよく迎えて謀反心を起こさず、我慢強く就中理解ある心を持つことによるものであること
こうした理解ある心は 凡その環境とあらゆる試みとして異義を認め、そこに魂の向上の機会を発見しようとする心構えでいることなどです

 目の前に現れている環境、現象や事件は私にとってまた、私の周囲の人々にとってどういう意味があるのか、これは私が何かを学び取り それによってさらに一層自分を「神理」に近づけるための出来事であるか、そうしたときに私は心的に何を思った誠意か、また肉体的に何をしたらよいのかについて考慮しなければならないのであって

 これらの事件を「宇宙的原理の秤」で測っているか、それとも「我欲」という有限の秤、すなわち単なる幻想で結局は心の損害になるような一時的便法の秤で測っているかどうか、その動機の在り方に心を寄せるべきことであります。

 こうした事態を体験しいかに解決していくかということで、自ら進んで錯誤と幻覚の世界に三輪いれ体験を通してその結果
比較対照によって、ついに私たちは完全なる「神理」をはっきりと自覚するようになるのであります。
 

(注) これらの文章は「天と地を結ぶ電話」より抜粋したものであります

 我々は誤りを犯す自由とその誤りから何かを学ぶ自由があるという事を何度も何度も認識しなくてはなりません
 日々、私たちはこうすればよかったとかこうしたから解決したとかの事例はたくさん持っているものです
 小さな悟りはいずれ大きな生命の悟りにつながるのです。





posted by 筆文字や隆庵 at 16:12| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神の子である

 この大宇宙を創造した神の意識は、創造の最後に自らの意識を分け与えるものとして人間を
まず実在界というあの世にエーテル状態の肉体を形づくられ  その中にポンと、神の意識を持った魂を配置された
その他の動物、植物も同じようにまず実在界に姿を現し、次いで地上界に物質化されていくのであり、忽然と大地に現れたのであります。

 元をただせばこの大宇宙の中に存在している私たちは紛れもなく神の子であって、どうあがいてもその立場から離れることはできないのであります。しかもその生命の目的は「調和の実現」という「神の意思」から逃れることのできない「宿命」を背負っているといえます。
したがって目的である「調和」に反する思いや行為には必ず相当の「反作用」があり、本来の姿に立ち戻るようにと反省を促す出来事が起きるわけであります。

 問題は真の世界であるあの世ともいうべき振動の精妙な世界から最も粗い振動数を持つ地上界に降り立った人類は、自らの持つ意識を働かせる割合が10%未満になってしまうため、盲目同然の人生を歩まなければならない事態になっていることによる「大いなる誤解」をもって日々の暮らしを余儀なくされているという実態であります。要するに「間違いを犯しやすい」状態が常に私たちの周りにまとわりついているということなのです。

 過去、多くの詩人や哲学者 はたまた宗教家によって「人生は苦なり」といって人生は苦闘の連続であってこれこそが人間なのだものという事を書き残していたり、文学や戯曲などにその「苦闘」に対する人のあがきを題材にしている物語となっていることを私たちはよく知っています。

 しかし、過去の偉人、所謂仏陀や、イエスはそんなことは言っていないのです、彼らは実在界あの世こそが真の世界でありこの地上物質の世界は仮の世界であり、本来人は善そのものであり神の子であるという事を教えるためにこの世に何度も生をもった「光の大指導霊」であります。
 ものにおぼれ、情欲におぼれ人としての在り方を忘れがちな私たちが自ら神の子として自覚しその事実を思い出すことを手助けしてくれているのです。

 曰く「苦とは私たちが神の創造した法則に外れた思念と行為の結果として訪れてくるものて゛ありそもそもが苦を作り出しているのが私たち自身であって苦の世界があらかじめ用意されているという事などないのです

 今から凡そ7000年ほど前にこの世に生を持ちエジプトの宗教的指導者であったとされる「アガシャー」という霊人は次のように述べていられる。
 我々は自己も他人をも罪ありとしては認めてはならないのです。我々は我々自身から学び、又他人から学ばなければならないのです。
本来は善と悪という二元性ではなく悪というものは存在していなくて、悪と見えるものは神性的な自分の心普遍的な生命活動の表現ができていないという極めて消極的な状態のことを指すのである。
「善一元論」というのであります

 苦痛は我々が法則に外れていることを示してくれ未習熟の課題があることを示してくれる合図であり正しい調和のある考え方に導いてくれる刺激であると理解し苦痛をのがれるにはどうしたらいいかを学ぶ題材を供してくれているという事に感謝しなければならないのです。
 という事は我々には誤りを犯す自由もその誤りから何かを学ぶ自由もあるわけですから、その誤りを熟考し他から強制されることなく自己訓練を完成するという自由を持たなければならないのです。

 自由といっても我々が属している集団の因果による苦痛の場合はその自由も制限されるのであります。

しかしながらその集団の苦痛はといってもそれすらもいずれかの過去の思念と行為の結果としてあるという事も忘れてはならないことでしょう
 永遠の魂の旅を続けている私たちにとって原因と結果の輪廻が続くわけでありますから、きょう一日を正しくいきたいと思います。

そのための「徳目」についてまた次回書きます
posted by 筆文字や隆庵 at 10:28| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月13日

貴重な人生

 凡ての人には、生まれてきた意味というものがあります。それは例外なくです。
凡ての人にはなさねばならない使命があります。

 何度も生まれ、何度も死にそして今があり、それぞれの人生にてなしたことなしえなかったこと
それらの功績や、失敗やすべてのドラマが刻み込まれている魂なるもの それが私たちなのです。

 現在地上世界に於いては戦争や飢餓、天変地異、パンデミックなど私たちに警告を与えているような出来事が次から次へと起きています。
その中で私たちは一体どう生きていけばいいのでしょうか、
 調和のとれた世界を建設していくのが人類に課された共通の目的のはずなのにそのことを忘れ、常に「闘争と破壊」といったサイクル(循環の法則)の中に巻き込まれ、その中で混乱しているというのが現代の世相といえるでしょう

 その原因は私たち人間が持つ自己保存という、自分さえよければ云々といった勝手な思考から生じる「私利私欲」という心の動きが顕現された世界だということなのでしょう、一個人の人生模様も同じく私利私欲といった思考から様々な問題を派生させ様々な現象を体験するということになっています。
 2500年前のインドのお釈迦様はこのことを「善因善果」「悪因悪果」と言われてますし2000年前のイエスは「蒔いた種が生える」と言ってます。つまりは原因結果、作用反作用という法則に関して述べられているのです。

 限られた物資を独り占めにしようとばかりに奪おうとしたときに起きる闘争の思いは破壊という結果を招き、さらにその破壊という現象から新たな闘争を生み出していくわけであります。

 自分さえよければどんな手を使っても構わないのだという思考はいずれ循環していき自らの破壊につながるのであることを世界の歴史は教えてくれています。ある原因となる行為をどこかで修正しなくてはならないというのが真理なのであるということを知りましょう。反省という機会があるということを知りましょう
 これこそ神の慈悲だということです。

だから、特にリーダーという存在の重要性が問題となっていきます。リーダーの思考や行動などによって多くの人々にある影響を与えていくわけですから、徳のあるリーダーでなければならないのです。国家としてのリーダーたちの体たらくは目に余るものがあります、まさしく私利私欲、党利党略、に終始しているさまはみっともないだけではなく彼らに対しての同情心さえ覚えるわけです。

 永遠の命である私たちのわずか100年未満の出来事でしかないこの地上界でのふるまい、物質至上主義の愚かさを知りましょう。
posted by 筆文字や隆庵 at 09:33| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする