2022年05月16日

神の子としての行動規範

 大宇宙の中の太陽系という豆粒みたいに小さい存在である地球のそれ又極小の存在、人間が大宇宙の一部分として今こうして生きているわけなんです。
 しかしその極小な存在である私たちがなぜ大宇宙の広さを実感できるのでしょうか、どんなに精巧なレンズを通しても肉眼で見る宇宙の広大さは認識できないのです。
 なぜか、それは私たちの心そのものが宇宙大の大きさを持っているからなのです。その神の子としての私たちが、それでは何を物差しに生きていく規範を定めるのでしょうか

 ここでは、その徳目に関して考えてみたいと思います。
第一の徳目・・・友愛(愛と慈悲)、救助、協調、今日胴、忍耐、正直 などなどどれがかけてもダメなんですが、これらの心を持ちそれを実践すること。つまり、神性といわれるあらゆる善徳を実践するという事になるのです。

第二は・・・・・我々の生活をできるだけ優雅に親切に、調和を保って日々が明るく朗らかになれるよう努力をし完全に生き抜くことによって成就するものであります

第三には・・・あらゆる立場をこころよく迎えて謀反心を起こさず、我慢強く就中理解ある心を持つことによるものであること
こうした理解ある心は 凡その環境とあらゆる試みとして異義を認め、そこに魂の向上の機会を発見しようとする心構えでいることなどです

 目の前に現れている環境、現象や事件は私にとってまた、私の周囲の人々にとってどういう意味があるのか、これは私が何かを学び取り それによってさらに一層自分を「神理」に近づけるための出来事であるか、そうしたときに私は心的に何を思った誠意か、また肉体的に何をしたらよいのかについて考慮しなければならないのであって

 これらの事件を「宇宙的原理の秤」で測っているか、それとも「我欲」という有限の秤、すなわち単なる幻想で結局は心の損害になるような一時的便法の秤で測っているかどうか、その動機の在り方に心を寄せるべきことであります。

 こうした事態を体験しいかに解決していくかということで、自ら進んで錯誤と幻覚の世界に三輪いれ体験を通してその結果
比較対照によって、ついに私たちは完全なる「神理」をはっきりと自覚するようになるのであります。
 

(注) これらの文章は「天と地を結ぶ電話」より抜粋したものであります

 我々は誤りを犯す自由とその誤りから何かを学ぶ自由があるという事を何度も何度も認識しなくてはなりません
 日々、私たちはこうすればよかったとかこうしたから解決したとかの事例はたくさん持っているものです
 小さな悟りはいずれ大きな生命の悟りにつながるのです。





posted by 筆文字や隆庵 at 16:12| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神の子である

 この大宇宙を創造した神の意識は、創造の最後に自らの意識を分け与えるものとして人間を
まず実在界というあの世にエーテル状態の肉体を形づくられ  その中にポンと、神の意識を持った魂を配置された
その他の動物、植物も同じようにまず実在界に姿を現し、次いで地上界に物質化されていくのであり、忽然と大地に現れたのであります。

 元をただせばこの大宇宙の中に存在している私たちは紛れもなく神の子であって、どうあがいてもその立場から離れることはできないのであります。しかもその生命の目的は「調和の実現」という「神の意思」から逃れることのできない「宿命」を背負っているといえます。
したがって目的である「調和」に反する思いや行為には必ず相当の「反作用」があり、本来の姿に立ち戻るようにと反省を促す出来事が起きるわけであります。

 問題は真の世界であるあの世ともいうべき振動の精妙な世界から最も粗い振動数を持つ地上界に降り立った人類は、自らの持つ意識を働かせる割合が10%未満になってしまうため、盲目同然の人生を歩まなければならない事態になっていることによる「大いなる誤解」をもって日々の暮らしを余儀なくされているという実態であります。要するに「間違いを犯しやすい」状態が常に私たちの周りにまとわりついているということなのです。

 過去、多くの詩人や哲学者 はたまた宗教家によって「人生は苦なり」といって人生は苦闘の連続であってこれこそが人間なのだものという事を書き残していたり、文学や戯曲などにその「苦闘」に対する人のあがきを題材にしている物語となっていることを私たちはよく知っています。

 しかし、過去の偉人、所謂仏陀や、イエスはそんなことは言っていないのです、彼らは実在界あの世こそが真の世界でありこの地上物質の世界は仮の世界であり、本来人は善そのものであり神の子であるという事を教えるためにこの世に何度も生をもった「光の大指導霊」であります。
 ものにおぼれ、情欲におぼれ人としての在り方を忘れがちな私たちが自ら神の子として自覚しその事実を思い出すことを手助けしてくれているのです。

 曰く「苦とは私たちが神の創造した法則に外れた思念と行為の結果として訪れてくるものて゛ありそもそもが苦を作り出しているのが私たち自身であって苦の世界があらかじめ用意されているという事などないのです

 今から凡そ7000年ほど前にこの世に生を持ちエジプトの宗教的指導者であったとされる「アガシャー」という霊人は次のように述べていられる。
 我々は自己も他人をも罪ありとしては認めてはならないのです。我々は我々自身から学び、又他人から学ばなければならないのです。
本来は善と悪という二元性ではなく悪というものは存在していなくて、悪と見えるものは神性的な自分の心普遍的な生命活動の表現ができていないという極めて消極的な状態のことを指すのである。
「善一元論」というのであります

 苦痛は我々が法則に外れていることを示してくれ未習熟の課題があることを示してくれる合図であり正しい調和のある考え方に導いてくれる刺激であると理解し苦痛をのがれるにはどうしたらいいかを学ぶ題材を供してくれているという事に感謝しなければならないのです。
 という事は我々には誤りを犯す自由もその誤りから何かを学ぶ自由もあるわけですから、その誤りを熟考し他から強制されることなく自己訓練を完成するという自由を持たなければならないのです。

 自由といっても我々が属している集団の因果による苦痛の場合はその自由も制限されるのであります。

しかしながらその集団の苦痛はといってもそれすらもいずれかの過去の思念と行為の結果としてあるという事も忘れてはならないことでしょう
 永遠の魂の旅を続けている私たちにとって原因と結果の輪廻が続くわけでありますから、きょう一日を正しくいきたいと思います。

そのための「徳目」についてまた次回書きます
posted by 筆文字や隆庵 at 10:28| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする