えてして頭の良い人というのは、物事を知りえたというだけで満足してしまい、現実の暮らしにどう生かすのであるかという行動力にかけている場合が多いように思います。
知識を得たらそれを実践し、その知識がいかなる結果をもたらしたかを知る必要があると思うからです。
そう思わないと知識そのものを成立させているいろいろな要素に対して失礼じゃないかとも思う次第なのです。
知るは行いのはじめ 行いは知るの完成・・・というメカニズムこそが私たちを大きく成長させ人生を豊かなものにしていく手段であると考え
(良いと知ったら為せという「知良致」「知行合一」という陽明学の教えに準ずる)
つまり行動を伴わない知識などなんの役にも立たない、智慧になりえないという事なのです。
私たちが必要としている知識、教養というものは無論インターネットなどにあるような薄っぺらい雑多な情報の集合体ではないのであり、又書斎に閉じこもって本をめくってばかりばかりでは得られないものであります。
つまり現実対応型によるものでなければならないのです。
屍のごとき知識ではなく日々の生活に役立ち、命を吹き込まれた知識として、さらにその知識に情緒や、形(行動様式)と一体になった時に智慧となり真の教養という事になるものと思います。
では、情緒や形とは一体何であろうか、
情緒とはほぼ先天的に備わっている喜怒哀楽という心の動きではなく、より高次元ともいえる後天的な体験から得られるものと思われます。
その人が生まれ育った環境や思想、習慣などによってどのように培われてきたか、どんな人生を歩んできて、どのように反応してきたか、その繰り返しによって後天的な人格が形成されるものです。
その教養の中には「美的感受性」「正義感」「もののあはれ」感じるもの感性とでもいえるものが含まれているという事をここでは述べています。
私の考えている情緒とは、自らの周りの環境に対してポジティブな思考をもって対処しようとする心の働き、学問と体系化された行動哲学
されど非論理性なものに対する心配り、科学絶対主義に対する反対意見の整理、弱者に対する思いやり、卑怯を憎む心、正義感、勇気、誠実性、また文学や芸術に関する造詣や歴史、歴史が作り上げてきたブランドなど、例えば日本国を日本たらしめている国家理念や、皇室をいただくといった世界に類を見ない国であることの自覚、過去現在未来にわたって有するイデアなどを含めたもの。これを教養の礎にしたいものだと
思う次第です。
これらは、ポジショントークしかしない政財界の大物といわれている似非エリートたちやテレビ・マスコミでもっともらしいことを自信満々に語る人々でなく幾年月にわたった歴史の中に存在した聖人や愚人や庶民の中での様々な物語を書物によって知ることで身につくものだといえましょう。
それこそが人としての生き方であるし嘘のない誠実な人生を歩むことのできる秘訣だと思うのであります。
偉大なる指導者から原理原則を学び、庶民の文学や芸能からもののあはれを知った豊かな人間性を発揮し
ある時は笑い、涙し、共感しながら日々の生活から学んだことを自らの歴史として今生を有意義なものにしていきたいと
思う次第であります。