2022年05月30日

誤解だらけの人生

 つくづく思うこと、私たちの周囲に蔓延している数々の出来事とそれによって影響を受ける人、受けない人。
事故にあう人あわない人、どこがどう違うのであろうか。

 単なる運・不運で割り切れるものだろうか、神の創られた法則に忠実に生きていればその災いなるものから免れるのである。という人達がいる

とはいうものの、現実に苦慮しているわけだからそう簡単に納得できるものではないのである。
 そもそも人生というのは自分自身とそれ以外の事象、物や人や組織との関わり合いの中でいかに幸福感をもって生きていこうか、と考えることから始まるのであろう。
 そして、人生とは一体どういうものであるかという事をある時は試行錯誤をして、またある時は先人たちの教えを学びながら、その解答を求めてきた。そのことの連続が人類の歴史を作ってきた大きな要因であっただろうと考えるのである。

私たちは仕事をとおして、又家庭生活を通して様々な問題解決に挑んできたものであるが、さて数々の書物や体験を通して知らず知らずのうちにそれらの問題を解決すべき手順を大まかに次のように考えてきた。

 1. 現状認識と解決後の形・・・現実はいったいどのようになっているのか、どうなっていればいいのかを図る
 2. 原因追跡、類推・・その現実をあらわしてきたのはどういう原因があったのだろうか
 3. 原因究明と課題抽出・・原因が解れば対策の方針策定ができるのである。
 4. 課題解決に必要なこと・・技術や協力者や時間や予算の獲得などのリストアップ
 5. 優先順位の設定・・緊急短期、中長期の区分
 6. そして行動基準徹底後の行動そのもの
 7. 達成・・・達成の道筋の記録
  ここまでが解決のための手順なのである。

 ところが、現状認識といった最初の段階で間違った情報・・その情報が意図されているかいないかにかかわらず、そのことを問題解決の基本としている場合はその後のすべての施策は全く無意味になってしまうのである。
 マスコミ情報を信じ鵜吞みにして間違いを犯してしまう人たちが増えてきていないか、要注意なのである。

 独りよがりで、思い込み、固定観念などが私たちを苦しめているという事を知らなければならないと思う次第である
物事の本質を理解するためには、まず物事を見る目を養わなければならない。
 法則の第一は正しく見るという事なのである。心の目で見るということをしなければならない。釈尊が説かれた「八正道」は正しく見るという「正見」からはじまり次に正しく思う「正思」と続き、次いで正しく語る「正語」という風に連続していくのである。

 多くの人たちの思惑が絡み合って現実を作り上げているという事はそこに誤解と思い込みが集約されているといって過言ではない、ついでに自己中心的な欲望も渦巻いていることも加味していかなければならないだろう。

 そうした世界の動き、日本社会の動き、日常生活の中での動きなどは法則に照らし合わせて考えよう・・・と日々自らに問いかけている
posted by 筆文字や隆庵 at 17:20| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする