生きていくという事は問題解決の連続だという事を認識しなくてはならない
様々な出来事を迎えたときにどういう風に自らの智慧と力でその問題を解決していく、その中に自分の成長の糧が存在しているのである。
問題のない人はいない
どんなに行き詰ったと見える問題でも、心を調和させ祈り問題解決の行動を起こそうと決意したとき必ず その問題を解決する道は心の中から湧き上がってくるものであり解決できない問題はないのである。
ただ、その問題の解決がいつできるかはその人の過去の在り方などによって早い遅いがあるのは天地自然の理である。
その人にとってもまた周りの人にとっても最も魂の向上、心の向上に適当な時になされるのである。
調和に向かっての祈りと我利我欲の祈りの違いがそこにあり、魂の向上というのがポイントである。
さて、現代において「祈りの効用」「願望実現の祈り」などといった思想を流布している宗教団体が数多く存在しているところを見ると人というものはどうも他力を求め、自助努力なしにタナボタ式に願望が叶うと思っているのではないかと考える次第だ。というより深く考えない、手っ取り早く信仰して「願望実現」できればいいとしていないか、信仰宗教というのは大半がそれを売り物にしている。
昨今世間をにぎわしている「統一教会」なるものを見てみよう。この宗教の名前が一躍有名になったのは昭和45年韓国のソウルで開かれた
700組にわたる「集団結婚式」である。
基本的には仏教・キリスト教の真理は一つだといっているのはよいとしても、アダムとイブの原罪を人類は背負っている、その原罪をなくさないと救われないが、そのためには教祖 文鮮明 の血分の儀式に参加することであるという。その血分の儀式こそが文鮮明の命ずる人間と結婚することだというのである。
もう一つの顔として勝共連合という政治活動を行う組織でもあるがいまこのことが問題になっているのであるが信者数からみて政治を動かせるほどの力など創価学会の足元にも及ばないのであるが、何故そのことを報道しないのが不思議である。
いずれにしても人類を幸福にするはずの宗教団体としての「統一教会」は真理から離れている。まあどの宗教団体もにたようなもんだけど・・・
2022年10月26日
2022年10月12日
宗教の話をしよう
前提として次のことを考えよう。まず第一に宗教と宗教団体は違うという事を知っておかなければならない。似て非なるものと私の解釈
次に信仰とは何かという定義づけを一定にする必要があるという事 さらに「神」と称されているものの各人の考え方についての理解
これらを認識したうえでで話を進めていかなければならないのである。
永い人類の歴史を経て現在世界に認識されている宗教は大きく分けてモーゼの説いた「ユダヤ教」ゴーダマの教えである「仏教」イエスによる「キリスト教」さらにアラーの代弁者 マホメットの「イスラム教」などが有名であって、その流れを汲んだ数知れない宗派なるものに分類されていき、今や本来のモーゼ、仏陀、イエスの教えがまともに伝わっているとは思えないのである。それぞれは、ユダヤの経典としての旧約聖書イエスの生涯に関しての弟子たちの記述による新約聖書、ゴーダマ仏陀の教えを弟子たちが記した仏典、イスラム教ではモハメットの弟子たちによる記録コーランなどなど
いずれもそれぞれの国の言葉であり過去3000年2000年の時を経て、今私たちが見ているものは幾千幾万の手を通して得ている知識や情報であるという事を前提に考えなければならないという事。
今宗教という団体も何らかの情報、言い伝え、古文書などをもとに教義を組み立てているものでありそこには、当然のことながら団体の創始者の恣意によって解釈されていることがあるのだ。
文化大革命という名のもとにもはや現実では存在しないような孔子の教えもまた、同様に解釈した人の手によるものであるという事を知ろう。
このように多くの教えは人によって時代によって書き換えてあるのだという事である。
だからといって、嘘ばかりではなく真実もたくさん残されているのも事実である。私は聖書や仏典(日本語に訳されているもの)中国古典より抜粋したもののなかでほぼ同じことを述べている個所に関しては真理であると思うのである。例えば聖書にあるイエスの言葉「蒔いた種が生える、瓜の種を蒔けば瓜の実がなり、麦の種を蒔けば麦が生える」という事をゴーダマ仏陀は「因縁・つまり原因があって結果がある。良いことを思い良いことをなしたら良い結果が生じ、反対に悪い事を思い行ってると悪い結果が生じる。」ということを説かれている。
モハメットは「目には目を」といっている。 いずれも同じことである。
さて、問題は現代社会に於いての宗教団体乱立の現状をどう見るかである。普遍的で真実のおしえであり宗教が本当に人々の救いになっているのならこんなにたくさんの宗派が存在しているという事に疑問を持たないのか不思議である。
古典的な寺や神社で形式的な教えではなくもっと実践的で日常的なご利益にあやかろうとした人々の心の動きが新興宗教というものにひかれていったのかと思うし、見えない世界という神の世界にあこがれる人が出てくるのも無理もないことだろう。そこに詐欺まがいの事件が多々起きているのも宗教の何たるかを知らないのみならず、深く物事を考える人の少なさが生んだ現象なのだろうと思う。
人生は一寸先が闇とばかりの様相を呈しており誰しもが望む安定した未来、その未来への橋渡しをしてくれるであろうと信じるのが宗教であり 教えなのである。
私が学んだ新興宗教各団体の成り立ち、創始者、歴史、教えの内容とうに関して簡単に説明されている書物より抜海して紹介していきたい。
次回・・・統一教会を考える編
次に信仰とは何かという定義づけを一定にする必要があるという事 さらに「神」と称されているものの各人の考え方についての理解
これらを認識したうえでで話を進めていかなければならないのである。
永い人類の歴史を経て現在世界に認識されている宗教は大きく分けてモーゼの説いた「ユダヤ教」ゴーダマの教えである「仏教」イエスによる「キリスト教」さらにアラーの代弁者 マホメットの「イスラム教」などが有名であって、その流れを汲んだ数知れない宗派なるものに分類されていき、今や本来のモーゼ、仏陀、イエスの教えがまともに伝わっているとは思えないのである。それぞれは、ユダヤの経典としての旧約聖書イエスの生涯に関しての弟子たちの記述による新約聖書、ゴーダマ仏陀の教えを弟子たちが記した仏典、イスラム教ではモハメットの弟子たちによる記録コーランなどなど
いずれもそれぞれの国の言葉であり過去3000年2000年の時を経て、今私たちが見ているものは幾千幾万の手を通して得ている知識や情報であるという事を前提に考えなければならないという事。
今宗教という団体も何らかの情報、言い伝え、古文書などをもとに教義を組み立てているものでありそこには、当然のことながら団体の創始者の恣意によって解釈されていることがあるのだ。
文化大革命という名のもとにもはや現実では存在しないような孔子の教えもまた、同様に解釈した人の手によるものであるという事を知ろう。
このように多くの教えは人によって時代によって書き換えてあるのだという事である。
だからといって、嘘ばかりではなく真実もたくさん残されているのも事実である。私は聖書や仏典(日本語に訳されているもの)中国古典より抜粋したもののなかでほぼ同じことを述べている個所に関しては真理であると思うのである。例えば聖書にあるイエスの言葉「蒔いた種が生える、瓜の種を蒔けば瓜の実がなり、麦の種を蒔けば麦が生える」という事をゴーダマ仏陀は「因縁・つまり原因があって結果がある。良いことを思い良いことをなしたら良い結果が生じ、反対に悪い事を思い行ってると悪い結果が生じる。」ということを説かれている。
モハメットは「目には目を」といっている。 いずれも同じことである。
さて、問題は現代社会に於いての宗教団体乱立の現状をどう見るかである。普遍的で真実のおしえであり宗教が本当に人々の救いになっているのならこんなにたくさんの宗派が存在しているという事に疑問を持たないのか不思議である。
古典的な寺や神社で形式的な教えではなくもっと実践的で日常的なご利益にあやかろうとした人々の心の動きが新興宗教というものにひかれていったのかと思うし、見えない世界という神の世界にあこがれる人が出てくるのも無理もないことだろう。そこに詐欺まがいの事件が多々起きているのも宗教の何たるかを知らないのみならず、深く物事を考える人の少なさが生んだ現象なのだろうと思う。
人生は一寸先が闇とばかりの様相を呈しており誰しもが望む安定した未来、その未来への橋渡しをしてくれるであろうと信じるのが宗教であり 教えなのである。
私が学んだ新興宗教各団体の成り立ち、創始者、歴史、教えの内容とうに関して簡単に説明されている書物より抜海して紹介していきたい。
次回・・・統一教会を考える編