現在自らが置かれている環境は偶然にそうなっているわけではなく、過去自らが思い行ってきたことの決算として存在しているのだという事を知らなければならない。
これは、心の世界でも同様に働くのです。心の世界というのは好きとか嫌いとかいった感情や、気に入っている友人などとの交流もしかりまた自らに降りかかっている非難中傷に至るまですべてであり、そのことを高橋信次著「人間釈迦⓵」より見出すことができる。
85頁に
普通、他人から誹謗されると、つい自分をかばう心がでて、怒りの感情が燃えだすものである。他人から誹謗されるという事は誹謗される何かが自分にあるか、天の試練か、そのどちらかである。しかし天の試練とは言っても試練にあるカルマが自分になければ試練は受けずに済むことである。とするとこれも自分に帰着する。
原因が自分にあるとするならばその原因を静かに見渡すだけの心の余裕、寛容さがなければ少なくとも道を求める者の態度とはいいがたい。そうしたもう一人の自分を忘れて、相手の中傷に反発していく態度は、もはや修行者とは言えないのである。
また怒りの感情は、心の平安をもっとも毒す。なんとなれば心の安らぎは人間感情のもっとも奥深いところにあるからである。
もしも人間が感情という情操というものをなくしたらどうなるだろう。人間はロボットと変わらないし生きた人形になってしまうであろう。
人のものを横取りしようと、殺めようと、感ずるところがない。ものの哀れ、救いという愛の心も芽生えてはこないだろう。
人間には感情という情緒があり情操があるゆえに、大自然の慈悲に感謝し、愛の行為に、人は勇躍するのである。人間の感情はそれゆえに、にんげんであるがゆえのもっとも重要な精神作用であり、これを無視して人間を語ることはできない。感情とは其れほど大事なものだが、その同じ感情でも怒り、中傷、ねたみの想念は慈悲、愛の心を受け止める、ないしは発動させる広いおおきな情動を表面的な感情想念で閉ざされてしまうため、これほど悟りから遠ざけるものはないのである。
・・・・いうまでもなく私たちは永遠の生命をいただいてる神の子であるからしてもうすでに何千回何万回とこの地上界に生をもって様々な事をなしてきています。それはそれぞれの環境の中で己の魂を磨くための道程としてあったにも関わらず、自己中心的な生き方によって多くの過ちを犯してきているもです。それぞれの生き方はいったん天上の世界(心のふるさと)にかえって地獄の世界を経由し反省しているのですが、再びこの世に肉体をもって生活するようになってもまた同じ失敗をしていたり、カルマの解消ができてうまくいったりと人生の学習を積み重ねていくのでありますから、今度の人生によって反省したことの確認をしながら各人の課題をクリアーしていかなければならないのであります。
修正しなければならない項目に関してはそのご幾たびか自分に降りかかっていくように計画しているのも実は自分自身なのです。
そこで冒頭の文章・・・という事になるわけです・・・これを天の試練と表現されているのです。