高額所得者の子息は高学歴を得ることができ高額所得者になるのに必要なレールが敷かれているといわれている。
このことは高学歴というレッテルを持てば人生の成功者として低額所得者の上に位置し偉そうにふるまう事ができるという事なのだそうだ
という事は、受験突破のためのテストに受かりさえすればいいという事になるわけで、そのためにはプロの受験コンサルタント、つまりは専門的な塾が必要となってきていて、塾同士の学生獲得競争というのが激化しているのが現実。
そこから生じるのが格差社会であるという論が巷間をにぎわしている。
格差は現実にあれども果たしてそれは正しい現象であるか・・・私心としては現実は現実として認めるもののそれならばそれぞれの役割、人としての使命に関してどうあるべきか考えなければならないのではないかと思っている。
高学歴ならではの役割というのがある。
そのことを自覚してほしいものである。まずは生きるという事とは一体なんであるかを考えているか、政治家、官僚、医者、弁護士
みんな生きるという事に関しての哲学があるか、人は何のために生を得ているかという根本について考えているのか、疑問に思う。
少なくとも現実に職を得、生き方について真摯に正直に向かい合っている人も多数存在していて少なくともすべてが高学歴社会とは無縁なり、ひたすら日々を送っている
翻って政治家の皆さんのレベルの低さに日々情けなく感じているのは私だけであろうか
今近隣国から「情報戦争」を仕掛けられている事に危機感を持つものである。
2023年01月14日
私は誰なのかを考える
人が生きていくという事は少なくとも何らかの立場を持っているということでありそれぞれの立場なりの役割や使命、義務や権利を持っているという事を考えなければならないのだと思うのである。
私は何者か・・第一に父母の子供であるという事、第二に日本人であるという事、次に妻の夫であるという事 子供の父である事、地域の住民である事・・・親戚の一員である事、仕事を通して納税者である事、お客様に対して物品やサービスの提供者であること、会社のリーダーであること・・誰かのお客である事・・などその立場を書き出すときりがないほど多くの側面を持っているのが私という存在なのである。
また、健康と私、経済と私、これらのことを考えている心根と私、無限に広がるのである。
社会生活を送っていくために経済との調和を図っていかなければならないのも、家庭生活が平和に送っていくために必要な要素であること、会社、家庭、上司、部下、得意先、それぞれの幸福のためにも円満な精神を持っていなければいけないのも私の使命なのである。
それを自覚したうえで様々な問題に対して取り組まなければならないのである。
目的は調和、その実現のためになさなければならない課題を釈尊講和伝・・・「八正道」にみることができるのである。
すべからく人はある時「哲学者」でなければならない、またある時は「科学者」でなければならないとしたときに学ぶべき教えは釈尊でありイエスであり、近年では高橋信次師であるわけで、根本は同様に「調和の実現」というテーマに沿った教えであるという事を知らなければならないのである。
決してそれはよにいう宗教というものではなく、宇宙の法則、人間の実態のありようなどは普遍的であり現代のような宗教団体の教えとは全く別次元の話しである。釈尊の説いた教えもイエスの説いた愛の教えもそれぞれ僧たちや牧師たちの間で間違った教えになっているのである。
仏教においては様々な宗派に分かれている。まあこのこと一つ見ても釈尊の教えが正しく伝えられていないという事である。
お経は釈尊が2500年前に語った教えをまとめて文章にしたものである。それも古代インドの言葉が主であり今のように漢文になったのは
中国のお坊さんが、インドに行って持帰ったものを翻訳したものを基準にしているため正しいものと不可解なものが混在したうえ永い年月を経ていて言葉も人心の環境も異なっているために古代の釈尊の教えと大きく逸脱したものと考えるのが妥当な考えであろう。
釈尊存命中にはお経などないわけでそのなかったものを現代読誦せよとは、不可思議である。仏像のまえでお経を読むという行為も不可思議である
釈尊像に向かってお経をあげるという行為もお釈迦様に対してお釈迦様の教えを説いているというへんてこな話になっていると思うのである。
聖書もしかり2000年間の間に真実が捻じ曲げられているし
イスラムのコーランもまた同様である
推薦したい図書として「人間釈迦」高橋信次著 を勧める次第である。
私は何者か・・第一に父母の子供であるという事、第二に日本人であるという事、次に妻の夫であるという事 子供の父である事、地域の住民である事・・・親戚の一員である事、仕事を通して納税者である事、お客様に対して物品やサービスの提供者であること、会社のリーダーであること・・誰かのお客である事・・などその立場を書き出すときりがないほど多くの側面を持っているのが私という存在なのである。
また、健康と私、経済と私、これらのことを考えている心根と私、無限に広がるのである。
社会生活を送っていくために経済との調和を図っていかなければならないのも、家庭生活が平和に送っていくために必要な要素であること、会社、家庭、上司、部下、得意先、それぞれの幸福のためにも円満な精神を持っていなければいけないのも私の使命なのである。
それを自覚したうえで様々な問題に対して取り組まなければならないのである。
目的は調和、その実現のためになさなければならない課題を釈尊講和伝・・・「八正道」にみることができるのである。
すべからく人はある時「哲学者」でなければならない、またある時は「科学者」でなければならないとしたときに学ぶべき教えは釈尊でありイエスであり、近年では高橋信次師であるわけで、根本は同様に「調和の実現」というテーマに沿った教えであるという事を知らなければならないのである。
決してそれはよにいう宗教というものではなく、宇宙の法則、人間の実態のありようなどは普遍的であり現代のような宗教団体の教えとは全く別次元の話しである。釈尊の説いた教えもイエスの説いた愛の教えもそれぞれ僧たちや牧師たちの間で間違った教えになっているのである。
仏教においては様々な宗派に分かれている。まあこのこと一つ見ても釈尊の教えが正しく伝えられていないという事である。
お経は釈尊が2500年前に語った教えをまとめて文章にしたものである。それも古代インドの言葉が主であり今のように漢文になったのは
中国のお坊さんが、インドに行って持帰ったものを翻訳したものを基準にしているため正しいものと不可解なものが混在したうえ永い年月を経ていて言葉も人心の環境も異なっているために古代の釈尊の教えと大きく逸脱したものと考えるのが妥当な考えであろう。
釈尊存命中にはお経などないわけでそのなかったものを現代読誦せよとは、不可思議である。仏像のまえでお経を読むという行為も不可思議である
釈尊像に向かってお経をあげるという行為もお釈迦様に対してお釈迦様の教えを説いているというへんてこな話になっていると思うのである。
聖書もしかり2000年間の間に真実が捻じ曲げられているし
イスラムのコーランもまた同様である
推薦したい図書として「人間釈迦」高橋信次著 を勧める次第である。