2023年01月16日

学歴という薄っぺらな概念

 低予算で作られているだろうと思われるテレビ番組が多い。その中で高学歴の芸人や一般人などが登場し物知りぶりを競っているという設定なのだが実に空虚であり、単なる知識いがいのなにものでもなくそれぞれの登場者の勉強家ぶりには感心するも、関心はない。

 学歴偏重社会が生み出したといっても過言ではない現代の社会環境は所謂この高学歴の面々によって創り出されてきたものだといえよう。
何ら変革意識のない面々を育ててきたのがペーパー試験によってつけられた点数の優劣がそのまま社会の中での主流、非主流という色分けに繫がっていったため、人品の低い己の使命感の薄い、我だけ我らだけが満足できればいいとばかりの自己主義が社会を覆っているのが現実であろう。

 学歴主義というのは試験に受かるために必要な問題解決力さえ身に着けていれば試験に受かるわけだがその際には人間が最も大切にしなければならない思いやりの心とか、助け合いの精神とか、他者との調和などの徳性などは二の次になりがちで、この領域の教育はおざなりである。
 試験問題というのは必ず答えが存在するのであるから、その答えを暗記する記憶力をいかに鍛えるかが学習のポイントである。試験に追われている若き受験生はともかくもその記憶力とか入試問題の傾向とかを暗記することが第一の課題なのである。

 それは学歴のためではなくではなく学力向上のための訓練というべきであり、体力のある若い時期に鍛えておきそののちに起きる様々な問題解決に際しての心構えや応用へと役に立つであろう。
 問題と小生思うのは学歴がすべてといった風潮のなかで、優劣が認識され勝ち組負け組という言葉がはやり、○○大卒などといってもてはやされ
あたかも一流な人間と錯覚を起こさせる、これが世界に蔓延した結果が今である。

 人間が創り出してきたとも言える各問題はその過去同じような問題に遭遇した時にどう当時の人々が対処したのか、その結果どうなったかという歴史的現実もしくは発見された物理学の法則からどのように学ぶべきかはあまり重要視されず結果だけを淡々と覚える、そんな学習にならざるを得ないとは思うが、そこが重要なのである。
 薄っぺらい学習に終始してきた戦後のエリートもどきがどう考えどう生きたかを一度検証してみることこそが現代の各界の学者、重鎮たちの仕事ではないだろうか。

 ものしりだけではせかいにとってやくにたたず
 
 しんのものしりはおうようりょくをもっている

 かせつがたてられけんしょうしていきながら もんだいてんをあきらかにするちからこそが

 もとめられているのだ もんだいがあきらかになったら そのもんだいをかいけつするための

 しゅだん ほうほうを じけいれつにあてはめていくことが たいせつ

 これらのじぎょうをすいしんしていくためにはひとのきょうりょくがふかけつ

 そのときににんげんせいがとわれるのだ
posted by 筆文字や隆庵 at 10:42| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする