全ては原因があって結果が生じるのであるから、苦悩を生み出しているという事は自分がその原因を作っているという事になるのだ。苦悩が現れるという事は自らが正しい道を踏み外していますよという警告なのである。
その原因は他人ではなく自分自身にあるという事。そのことに気付かないのは原因を他に転嫁したほうが楽だと思っているからなのだ。
だが、実際に苦しんでいるのはほかならぬ自分だという事をしる必要があるのだ。
だから自己中心の心を改め、他人があって自分があり大自然の中で互いに生かされ生きているように、相互の調和が生活の基本となるようにしなければならない。
そのためには他人の言葉を正しく聞き、いやしくも自己の感情でそれを受け取り曲解してはならぬのだ。またどんなことを言われても心の中に怒り、恨み、愚痴、情欲のこころ、虚栄のこころ、増上慢のこころなどを作らないことである。
これらの心は潜在意識に植え付けられ、成長しようとばかりそだっていくものなのである。
一日の終わりにこれらのことがあったか、どうかあったならそれを認識し、そのこころがどうして起こったのかを観察し・・自分の心に問いかけその根を取り除くという反省をするのだ、そうすればまず心の動きをしることによってその原因は取り除かれるのである。
要は間違いであったと知ったならば二度とその愚を繰り返さないことである。
・・・人の心は表面意識と潜在意識に分けられていてその割合は10%の表面意識と90%の潜在意識という具合になっている。運命を司るのは90%の潜在意識の中にありそこから表面意識に影響を与えているのであるから、よい運命を手に入れたいのであればその潜在意識の活用法を学ぶことが重要なのである。
その中にある自分自身の「性格」が今日の運命を作っているといって過言ではないのである。
2023年03月20日
2023年03月17日
定年という名の引退勧告
定年制に対しての意見
いつまでも仕事をしていたいという意見は何も経済的な問題だけではないと思うのである。
仕事を始めた最初のころというのは誰もが「見習い」であるわけだから、当然少ない技量であり、所属する組織の上司や、お客様から教わりながら段々と成長していくのであります。
ということは、誰かに迷惑をかけながら一歩一歩階段を上るように、
成功と失敗を繰り返しながら進んでいくのである。
年月を経て体験を積み重ね、数々の原因と結果のありようを自らのノウハウとし、様々な人脈を築き、そうして人々のお役に立てる自分を作り上げるのである。
あわせて、自らが関わっている業界の特殊性独自性などの理解を深めながら、共通するなんらかの法則を発見するのである。その共通性を言い表している言葉「一芸に秀は万芸に・・・」といわれているように
私の体験上この心境は50代後半くらいにならないと、理解できないかとも思うのである。さて問題は、これらの成熟した考えや全体をみる能力を身に着けたころに定年という名の「引退勧告」をうけるというのである。
なんともったいないことと思うのである。
もう仕事はしない、解放される、これからはゆっくり生きようと喜びのんびりと過ごそうと思う人もいる
あるいは、仕事を生きがいとしていた人が虚脱感に陥り何らかの趣味を持とうと無理やり何かを始める人もいる
生きがいを亡くし日々を無駄に送る人もいる
しかし、本来人間というものは 誰かのお役に立っているという実感があってこそ自らの存在を肯定できるという本質をもっているものだと思う、確かに趣味もよかろう、しかしその趣味が他とのふれあいのない自分だけの世界観に浸るもの寂しさを味わっている人もいるのである。
という事は、やはり趣味とはいえど他の役に立つという事を考えてみたいと思うのである。
いつまでも仕事をしていたいという意見は何も経済的な問題だけではないと思うのである。
仕事を始めた最初のころというのは誰もが「見習い」であるわけだから、当然少ない技量であり、所属する組織の上司や、お客様から教わりながら段々と成長していくのであります。
ということは、誰かに迷惑をかけながら一歩一歩階段を上るように、
成功と失敗を繰り返しながら進んでいくのである。
年月を経て体験を積み重ね、数々の原因と結果のありようを自らのノウハウとし、様々な人脈を築き、そうして人々のお役に立てる自分を作り上げるのである。
あわせて、自らが関わっている業界の特殊性独自性などの理解を深めながら、共通するなんらかの法則を発見するのである。その共通性を言い表している言葉「一芸に秀は万芸に・・・」といわれているように
私の体験上この心境は50代後半くらいにならないと、理解できないかとも思うのである。さて問題は、これらの成熟した考えや全体をみる能力を身に着けたころに定年という名の「引退勧告」をうけるというのである。
なんともったいないことと思うのである。
もう仕事はしない、解放される、これからはゆっくり生きようと喜びのんびりと過ごそうと思う人もいる
あるいは、仕事を生きがいとしていた人が虚脱感に陥り何らかの趣味を持とうと無理やり何かを始める人もいる
生きがいを亡くし日々を無駄に送る人もいる
しかし、本来人間というものは 誰かのお役に立っているという実感があってこそ自らの存在を肯定できるという本質をもっているものだと思う、確かに趣味もよかろう、しかしその趣味が他とのふれあいのない自分だけの世界観に浸るもの寂しさを味わっている人もいるのである。
という事は、やはり趣味とはいえど他の役に立つという事を考えてみたいと思うのである。
2023年03月07日
生老病死について
凡ての生命体は循環という理屈の中に存在している。
生老病死というサイクルは何も人間だけではなくすべてのものにいえるものである。
とりわけ人は自らそのメカニズムを知っているだけに「生老病死」についての考えをつい恣意的に見てしまうのである。
エネルギーの集中固体されたものが、物質と呼ばれるものであって私たちの肉体も例外ではないのだ。という事は
私たちも物質と言う事なのであって、同時にエネルギーであるという事になる。
そもそもエネルギーというものは滅することはなく、ただ形状が変化するだけである という事は人間の命も変化するだけでエネルギーとして存在し続けるという事になるのだ・・という事を般若心経で述べられている。
色即是空、空即是色というくだり。これこそが私たちの宿命なのである。要するに今の私たちの意識、エネルギーは不変であるのだという事を2500年前のシャカは説いているのである。
つまり色不異空、
不生不滅は心、魂は永遠に意識をもって生き続けていくのだということである。
生老病死というサイクルは何も人間だけではなくすべてのものにいえるものである。
とりわけ人は自らそのメカニズムを知っているだけに「生老病死」についての考えをつい恣意的に見てしまうのである。
エネルギーの集中固体されたものが、物質と呼ばれるものであって私たちの肉体も例外ではないのだ。という事は
私たちも物質と言う事なのであって、同時にエネルギーであるという事になる。
そもそもエネルギーというものは滅することはなく、ただ形状が変化するだけである という事は人間の命も変化するだけでエネルギーとして存在し続けるという事になるのだ・・という事を般若心経で述べられている。
色即是空、空即是色というくだり。これこそが私たちの宿命なのである。要するに今の私たちの意識、エネルギーは不変であるのだという事を2500年前のシャカは説いているのである。
つまり色不異空、
不生不滅は心、魂は永遠に意識をもって生き続けていくのだということである。