2023年05月31日

自助努力と天の助力

 この世にある多くの宗教、また様々な社会人教育のカリスマ的リーダーの存在そのものが私たちに経済的利益を与えてくれるのであり、努力することなしに栄華を極めることができるのだなどと、思ってはいけないのである。
 「天と地を結ぶ電話」の中でアガシャーはこう述べている。

「あなたの指導者はあなたがあなた自身何ら努力しないときには、あなたのために何一つすることはできないのである」と・・・

 あなたの魂は、あなたの最も偉大なる指導者である。そしていかなる外界の指導者のいかなる努力もそれは、魂の智慧を開発する方向に向けられ、その智慧をあなたの客観的意識にまで持ちきたろうとするだけなのである。
実相に於いてあなたの魂は凡てを知っているのである。なぜならあなたの魂は偉大なる普遍的神の意識の一部であるからである。

 これらの一連の文章から次のことが導かれる。

「あなたの指導者はあなたがあなた自身何ら努力しないときには、あなたのために何一つすることはできないのである」



 という事はあなた自身が努力することをいとはず前進を試みる時にはしてあげることができるということでもあるのである。

 高橋信次師は「心の発見 神理編 155頁」にて次のように述べていられる

 ※最善の努力をしている人に対しては必ず私たちに関連の深い実在界(あの世)の人々によって常に協力がなされていることを忘れてはいけない。
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2023年05月30日

承前 言い争い補足

 他を傷つけるこころ(意識)を表現すればそのこころは全て反作用を生み出して結局自分で自分の間違いを悟るような運命を惹き起こすのであるという事を次第に認識するようになるのである。

 目的が調和であるならば手段も調和でなければならない。なぜなら手段とはある段階においてそれ自体が目的になっており、もし不調和を生み出すような手段を実行したならばそれは不調和をもたらすといった矛盾したことになるからである。

 先にあったお互いの主張というのは結局一人の人間に於いて学ぶべき事態をもって、本来の自分の利益は他人の利益につながっていき問題の解決はお互いが調和するという根底に立たなければならないのである。

 すなわち賢明な思慮深い親切な思いやり、あるいは完全なる理解をもった無私の我の存在というぐあいに、調和へ向かう法則を理解するということが正法の神髄であるのであるとの理解と体得が悟りへの道である。

人々が他人に対して為すことは、同時に彼らの影の不完全さを知っている奥の心・・すなわち完全な「キリストの心」をあらわすために為しつつあることになるのであって、それは結局自分自身に対して為すことになるのである。

 そこで所謂想念と行為が宇宙の設計(プラン)とどのくらい調和しているかによって各人の上に反作用を及ぼしてくるという法則が存在している
という事なのであって

 この宇宙設計によると人間が憎しみにみちた不調和な自己表現をする時は必ず自己の上にそれと同じ反作用が還ってくるのだ。 
もっと正確にいうと

 ひとと不調和にしていて自分だけがとくをすることはあり得ないということであり別名を「償いの法則」というのである。





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2023年05月29日

原理原則としての正法

 「あの世」は、ある。実在世界と現象世界を行ったり来たりしているのが私たちの実態。
 転生輪廻、循環の法に沿っている。・・・という事

 私たちの意識は表面意識と潜在意識があり、通常の生活に使用している意識は全体の意識の10%という事であり、残りの90%の意識は
 普段は使われていないのだという事・・・阿頼耶識と呼ぶこともある。我々は日々の生活の中で活用している五感というものによってか様々な情報を

この世界が一瞬先は闇だという所以がそこにある。

私たちが今ここに存在しているというその意味は、
日々の暮らしの中でおきる多くの失敗事例、所謂影の部分を体験することによって、自らの本性。神の子であるという事を自覚しなければならないというために地上界という環境が神によって創造されているのである。

 と「天と地を結ぶ電話」の中で指導霊「アガシャー」が述べていられるのである。

例えば皆がいい争い、お互いの主張をぶつけ合い、譲り合うという事をしなかったら結局のところおのずから間違いの道を進むという事は目に見えているのである。

 集団がお互いに関係しあっている事から、形の相関性というものが明らかになりあらゆる物質的表現の間に完全なる調和がもたらせることが終局の理想となるわけではあるが、そのことが解るまでには人々は多くの遅々たる進歩発展の周期を経験をする必要があるからこそ、実在界と現象界を何度も行ったり来たりしながら本生を修正しなくてはならなくなっているのである。

 



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2023年05月12日

諦める事

 釈尊が説いた四諦、四つの諦めること・諦めることとは自らの力ではどうとも止められない現象の事。

 生老病死という現象についてはどれだけ各人が努力しようと止められないのであるという事。悩みの始まりは生まれてきたという事。生まれてきた瞬間から

 人は老いていく、老いていきたくないと思っても・・年は取りたくないといっても年は取るし、病気はしたくないといっても病気はするし死にたくないといっても万物全て死の運命は避けられないのです。

 ですから、これらの状態一つ一つを止めようと思って止められた人は一人もいません・・・だからそんな現象に執着を持つものではないと釈尊は伝えています。執着を持ってもとどめられない現象だから、「仕方がない」のです

 死にたくないといっていられる多くの老人を知っています。でも結果として死ぬのです、意志に関係ありません

 所感にて伝えたい事柄はずばりこの生老病死が避けられないけれども、そもそも人の魂というか心というか目に見えないけれど異なった次元の住人になって永遠に個性を持った人間として存在するのだという事をまず記していきます。

 我々の生命活動の根源は実は死後の世界にあって、その世界での存在の中では生老病死という凝り固まった前提条件をひっくり返すことでしょう。その世界に「生老病死」などという物質的なプロセスはないのです。

あるのは、波長の世界。自らが発するオーラの波長に合っている世界に我々はそれぞれが意識をもって、個性をもって存在している。というよりその波長の世界にて生活をしているといえます。

 我々が今生きている環境にしても実はその波長の世界に生きているという事を実感しているひとは数多いでしょう。波長の合う人々やその出来事にストレスを感じることは少なく、波長の合わない人々との交流はストレスを感じるでしょう。

 これが波長共鳴の法則の存在の証明となりうる現象ですよね

 「生老病死」の苦しみから解脱するには、という話ですがそもそもそこには苦しみはないのだという立場にいかに立てるかが最大のポイント
そして、思考を止めてしまうという習慣を見直す必要があるのです。

 本来「死」というものはありません、我々は肉体を持った生とあの世の生と二元性を持っているのであると釈尊は言っておられるのであります。今肉体をもって生活をしていてその肉体の眼で見ているものがすべてであると思うのでなく、目に見えている現象は目に見えない世界で形づくられているという事を、まず仮説として考えてみて思考を深めていく、そんな事を思った一日でした。
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2023年05月08日

偉大なる指導者

 歴史上多くの聖者といわれる方が現れ、人の正しい生き方について述べられている。

にもかかわらず現状の体たらく。それはなぜか・・・

 人が本来求めていないものを求めなければならないような仕組みがいつのころか出来上がっているわけであり
その根本は肉体そのものが人だ・・という考え方に支配されているから

 どうあがいても死というものを免れないのだといった現実・・・それは否定しようが必然として死は存在するのであるから
正直に受け入れればいいのに

 ずっと生きていたいと思うのである

大きな誤りである。人は絶対死ぬのであるから。・・・私たちの生き方は・・・などという

実は私たちではなく、「私」という「個」の話しなのである。

 生まれてくるのも死んでいくのも「個」の究極の姿であるのです。悲しみ、哀しみ、恐怖、孤独観、寂しさ、楽しみと楽しみを永続的に受け  
取りたいという心、

 そんなこんなを胸にとどめながら多くの人は「死」という現実を迎える・・・新たな問題はそこから始まるのである。

 あの世という世界があるのだな・・という認識を持っている人が増えてきているとは思うのであるがどうも根本的な過ちを犯しているようだ

 確かに人は全てその魂を失う事はない、信じる宗教や、あの世を信じない現実、死んだら無になるのだと信じている人、にかかわらず誰もが

 死なないのである。物質を持っているか、つまり肉体を持っているか、持っていないかにその違いがあるわけであって100%人は有する形は違えど
 死んではいないのである。

 そのようになってるのである。

 私とはいったいどうなっているのであろうか、確かに五体はある。五官もある、考える力もある。現実の問題点を図る思考もある、明日への希望も持つことができる。と同時に絶望も持つことができる 

 ある時不思議な講演をきいた

もう数十年になるか、40代後半の男性がある人の頭の周りを掌で円を描きながらいう「シャカが2000年前臨終の場て゜なんといったか、あなたは知っていますね。そうです心の窓を開いて当時のことを語ってください・・・」男性は声を振り絞るように語る「その時仏陀は、今私は今世に於いてそなたたちに言っておく、今仏陀は涅槃に入るが魂は永遠であるゆえに常に法とともにそなたたちとともにあるという事を思え、肉体は滅びるのはつねであるが、この世から去ったととしても永遠に生き続けているのだよ・・」さらに「アナンよ何故そなたは泣くのだ、泣くという事はそなたが持っている肉体に対する執着なのだよ・・・」

 と仏陀ゴーダマはそのように述べられました

高橋信次講演テープより抜粋

指導された男性は2000年前の過去生釈迦の十大弟子のひとり「アナン」といわれた方で、この時は京都在住の方でした。

 ということから。肉体の死はあっても心、魂はその個性を持ったまま永遠に生き続けているのだと、高橋信次師より指導されたものと考えるのである。

 






posted by 筆文字や隆庵 at 22:45| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする