他を傷つけるこころ(意識)を表現すればそのこころは全て反作用を生み出して結局自分で自分の間違いを悟るような運命を惹き起こすのであるという事を次第に認識するようになるのである。
目的が調和であるならば手段も調和でなければならない。なぜなら手段とはある段階においてそれ自体が目的になっており、もし不調和を生み出すような手段を実行したならばそれは不調和をもたらすといった矛盾したことになるからである。
先にあったお互いの主張というのは結局一人の人間に於いて学ぶべき事態をもって、本来の自分の利益は他人の利益につながっていき問題の解決はお互いが調和するという根底に立たなければならないのである。
すなわち賢明な思慮深い親切な思いやり、あるいは完全なる理解をもった無私の我の存在というぐあいに、調和へ向かう法則を理解するということが正法の神髄であるのであるとの理解と体得が悟りへの道である。
人々が他人に対して為すことは、同時に彼らの影の不完全さを知っている奥の心・・すなわち完全な「キリストの心」をあらわすために為しつつあることになるのであって、それは結局自分自身に対して為すことになるのである。
そこで所謂想念と行為が宇宙の設計(プラン)とどのくらい調和しているかによって各人の上に反作用を及ぼしてくるという法則が存在している
という事なのであって
この宇宙設計によると人間が憎しみにみちた不調和な自己表現をする時は必ず自己の上にそれと同じ反作用が還ってくるのだ。
もっと正確にいうと
ひとと不調和にしていて自分だけがとくをすることはあり得ないということであり別名を「償いの法則」というのである。