最近の女性の言葉遣いに驚いている。
電車やバスに乗っている若い女子たちの仲間言葉とでもいうのであろうか、とにかくむごい
家庭でもそんな言葉を使っているのであろうか。一昔前の(今でもか)不良少年、やくざ言葉とでもいうべき言葉を若い女の子が使ってる
「てめえ」「このやろう」「○○じゃねえよ」「やばい」「ざけんなよ」など
聞くに堪えない・・と思っていたら
我が国の言語による論議の場、国会に於いての某女性議員の「やじ」の言葉の汚さに驚くと同時に美しいフレーズによって成り立っている「日本語」の乱れはこんなところにも表れているのだと情けなく思う次第であり、国民の見本となるべき指導階級の方の良識、教養をも疑ってしまう、いつから日本はこうなったのだろう。
考えてみよう、言葉を発する前の状況を。当たり前だけど言葉を発する前には必ず心の動き、思うという行為があるのである。では何を思って言葉にしているのだろうか、思う内容によってさまざまな言葉遣いがあらわれてくる。相手を見下す言葉、罵倒するする言葉 いつくしむ言葉
優しい言葉、勇気づける言葉、それぞれは日々の生活上に大きな影響を与えていくのであるが 今日の問題その言葉の知識の問題である。つまり「語彙力」不足としいうより無知勉強不足による、知識の欠如といえる。
その欠如の原因として文学文芸の世界衰退にあるのではないか、文字離れ、アニメ全盛の簡便セリフ回しによる物語の展開。母国語を満足に学習していないにも関わらずの英語教育の推奨、我が国の歴史に対する無頓着さは文化レベルの低下を招くというのは当然のことであろう。
教育界においては学歴至上主義がはびこり、高偏差値の学校に行っていながら一般社会での言葉遣いや真の「教養」を持ち合わせていない方々か゛重宝されている世界になってしまっている。
いずれにしても、言葉遣い一つで仲間の種類が決まり同一化現象で、野卑な言葉を使っている人の集まりは野卑な人々が、丁寧な謙虚な言葉を使っている人々の集まりはそれなりの人が構成していくのは「波長共鳴」の法則どうりである。
ただ、それは形のみ追い求めていても心の中からそうでないとたんなるかっことりになり続かないのである。
言葉遣いの本質は心の中の環境と深く影響しているという事を知りたいものである。
言葉遣いの乱れはそれ相応の仲間との集団ができ、その集団を利用しようとするこれまた悪い奴がいるという事を肝に銘じていこう。
心の乱れが言葉の乱れに繫がり、言葉の乱れは行動の乱れにつながるという事をしって、修正していこう。
2023年07月28日
2023年07月27日
隆庵考
阿蘇山ぐるりとコレクション
故郷である阿蘇の思い出を「根子岳」を中心にした山々を描きながらさまざまな出来事や思いを記し自らの歩みを再確認していきたいと思う。
屋号「隆庵」の意味するところ
本名 隆 の心の中にひっそりと存在している「庵」は過去・現在・未来の三世を生きるもう一人の私の居るところ。そこから覗き見る「森羅万象」「人生の機微」「心の世界」を追求することによって人とは何か、自然とは何か、宇宙とは何かといったことを形而上に求め、感覚的にとらえたものをどう形而下にて表現できるかを絵画という手段をもってわが「庵」に投げかけようとしているのである。
物質を物質ならしめている「エネルギー」という存在、目には見えないが確実にある。
その物質の仲間であるこの地上に個性をもっているかのごとく目前にそびえたちたたずんでいる山々
山は山、それはそのまま地理的で無言の物理的存在としての一面をもっているのである。
しかしながら、その単なる「山々」のもう一つの側面であるところの「エネルギー」という無形で人々の歴史的存在を見つめてきた「情実」の側面の存在を忘れてはいけないのである。
人それぞれは例外なく生まれ育った土地があり独特の風景の中で各人の人生が始まるわけであり自然に思い出として心の中に刻まれているのである。したがって隆庵は山々が情実的存在であると論ずるのである。
地上にあるすべての物質は変化しているという事
身近な存在である山や谷や石ころなどの鉱物も日々その姿を変えているというのが自然の摂理、人間でいうところの「生老病死」という循環の中にある。例外なしに
ただ、山とか岩とか鉱物全般の変化の速度と有機物質である草花しいては私たち人間の変化の速度が大きく異なっているために私たちが見る山々はあたかも変化していないように錯覚するのも仕方ないことではある。
「故郷の山かわらず我を迎えけり」と
人生の節々には悲しみ喜びなど様々な心の動きを体験させられる事態が訪れるのだが、その折々に私たちを慰め勇気づけてくれる事がこれらの自然の力であるかと思う。
実のところ我々を取り巻いているすべての環境は我々自身が創り出している想念エネルギーとその想念エネルギーに波長の合ったものを引き寄せるようになっているため、普段の想念の在り方に注意しておく必要があるのだ。山々に対して感謝の念を送る時その山々も感謝のエネルギーによって我を迎えてくれるものである。
釈尊の言葉に「山川草木ことごとく仏性あり」とあるようにすべてに神のエネルギーが満ちていると考えるべきであろう。神のエネルギーとは「愛」でありすべての生命活動の前進を助ける存在であることを知らなければならない。 2023 7/27 「隆庵」考