100人が100人、すべての人は選ばれし者であることを認識せよ
数億分の一の精子と一個の卵子、この出会いの瞬間から始まる肉体的命の誕生という奇跡
この瞬間を経て神と悪魔の合宿所が建設されていく
100人が100人、大きな使命を持ちこの合宿所(肉体)をもって修行への旅立ちとなる。
生老病死という避けられない宿命を背負いながら時として喜び、怒り、哀しみ、楽しみといった心の動きに
翻弄されながら日々をおくる
途中ふと考える、この旅はいつまで続くかと・・・
それぞれの人が逃避できない修行の旅は果てしなく続き終わりのない旅となる
旅の途中よき友を得て楽しい旅となり行き先でよき環境に出会い 旅の意義を知る
何度となく繰り返す旅 その都度初めての旅のように思う
それぞれの旅人は循環の法則の中に生きる。
100人が100人逃れられない宿命の中で自らの運命を切り開くのだ
2023年10月17日
2023年10月16日
真実とは
僕たちが真実と思っている事が果たして真実なのであろうか? と考えたことはありますか
真実の定義とは、それがめに見えるものそのものであるとしたとき、僕たちの直径20センチ程度の頭脳に付属している眼から入手する画像情報と耳から入手する言葉情報、音の情報といってもいいかもしれません。さらに触覚 触ることによって入手する情報、
所謂五感でとらえることによって得られる情報しか与えられていないのです。
身近なことにしてもなかなか正確な情報を得るという事に苦慮している僕たちが、ましてや遠く離れている場所の情報たるや多くの媒体を通してのみ得ることができる情報はいかにしてその正邪を見極めればいいんでしょうか。
テレビという四角いモニターに映し出されている情報か、はたまたSNSによる不特定発信者による情報かいずれかであります。
という事は何者かによって虚偽の情報をながされてそれを無条件に信ずるという姿勢であったらどうなるのだろうか・・
現代の世界の混乱はこういった正邪混合の情報氾濫によってもたらされているという意見もおおく聞く
そこで僕たちは正しく物事を見るという事をしなければならないのです
現実に対処している自分の心と行動は真実であると思いたいが、ここに自我という名の思い込み、固定観念や生活の習慣、考え方の癖などがあり自分にとって都合の良いもののみを真実と捉えてしまっては必ずと言っていいほど取り巻く環境との軋轢、特に他人との関係におおきな問題を生じさせるのである。
だから自分に関係する出来事に関しては深く因果律や感性の法則、波長共鳴の法則などと照らし合わせてみることが必要であるのです。
僕たちのみの周りに起きる出来事は過去自分が作った原因の結果を受けているし日々の生活の波長によって引き寄せているともいえるのです。
考え方の癖や、思想習慣などが影響していると考えられます。つまり自分の心にないものは目の前には現れないという事なのです。
真実は一つ受け取り方は無数にあるといえる。
真実の定義とは、それがめに見えるものそのものであるとしたとき、僕たちの直径20センチ程度の頭脳に付属している眼から入手する画像情報と耳から入手する言葉情報、音の情報といってもいいかもしれません。さらに触覚 触ることによって入手する情報、
所謂五感でとらえることによって得られる情報しか与えられていないのです。
身近なことにしてもなかなか正確な情報を得るという事に苦慮している僕たちが、ましてや遠く離れている場所の情報たるや多くの媒体を通してのみ得ることができる情報はいかにしてその正邪を見極めればいいんでしょうか。
テレビという四角いモニターに映し出されている情報か、はたまたSNSによる不特定発信者による情報かいずれかであります。
という事は何者かによって虚偽の情報をながされてそれを無条件に信ずるという姿勢であったらどうなるのだろうか・・
現代の世界の混乱はこういった正邪混合の情報氾濫によってもたらされているという意見もおおく聞く
そこで僕たちは正しく物事を見るという事をしなければならないのです
現実に対処している自分の心と行動は真実であると思いたいが、ここに自我という名の思い込み、固定観念や生活の習慣、考え方の癖などがあり自分にとって都合の良いもののみを真実と捉えてしまっては必ずと言っていいほど取り巻く環境との軋轢、特に他人との関係におおきな問題を生じさせるのである。
だから自分に関係する出来事に関しては深く因果律や感性の法則、波長共鳴の法則などと照らし合わせてみることが必要であるのです。
僕たちのみの周りに起きる出来事は過去自分が作った原因の結果を受けているし日々の生活の波長によって引き寄せているともいえるのです。
考え方の癖や、思想習慣などが影響していると考えられます。つまり自分の心にないものは目の前には現れないという事なのです。
真実は一つ受け取り方は無数にあるといえる。
2023年10月15日
宗教の誤解
宗教と宗教団体は違うのである。
世界宗教といわれているキリスト教は「神の子」イエスが始祖、教祖といわれているが彼は大工のせがれであって宗教家ではない。
教祖としたのはのちの弟子たちによって作り上げられた虚の振舞いにすぎない。特に「パウロ」によって始まったといわれている。がその通りであろう。
イエスが偉大な奇跡を起こしたのは事実であろうがその事をクローズアップして、このような偉大な御業を行うイエスは神の一人子であって我々凡人の到底手の届くものではなく、ただ崇める存在であるとの思いを強くもち、その事を多くの人々に伝えていったということだという事が時を経て、のちの教会宗教になっていったものと思うのである。イエスの教えは「愛ある世界の完成のために為すべきことを記してい、その方便のために数々の奇跡を起こしたのである。
凡そ2000年前の出来事を口伝えで、又文章で、正確に現代まで伝わるものであろうか、ましてや言語は様々なのだからあやふやであろうことは想像できる。
だから、イエスという方が語ったといわれている「聖書」の存在も以上の理由により、論理的に判断しなければならないだろう。
同じことがシャカにも言える、特にお経といわれているものに関して今漢字で表現されているがもともとお釈迦様はインドの武士クシャトリヤだったというインド人である。ならば漢字で表現できるはずはない、少なくともサンスクリット語であったろう所謂古代インド語だったはずである
それが何故漢語になっているのだろうか、
そんな疑問を思いもせずただ信じるという集団がおかしいと思わないのだろうか。そのことを明確にしている団体はない
キリスト教団体、仏教団体、多くの新興宗教団体など思考停止しているとしか思えないのが現状である。
宗教上による相異によって戦争まで起きているのが現実。それは宗教上の問題ではなく宗教団体・組織の対立であって真の「宗教」とは別の話しである。
全ては物質欲と自己満足という空虚な考えによる宗教もどきの信仰が対立を作っているのである。
本来の宗教とは哲学がないといけない、論理が明確でないといけない、科学的な説明ができないといけない、常識的でないといけない
個人の考えでは到底及ばないのが自然現象でありそれこそが宇宙を示す教えである。
凡ての宗教団体はその自然の事を学習しなければならないのである。
世界宗教といわれているキリスト教は「神の子」イエスが始祖、教祖といわれているが彼は大工のせがれであって宗教家ではない。
教祖としたのはのちの弟子たちによって作り上げられた虚の振舞いにすぎない。特に「パウロ」によって始まったといわれている。がその通りであろう。
イエスが偉大な奇跡を起こしたのは事実であろうがその事をクローズアップして、このような偉大な御業を行うイエスは神の一人子であって我々凡人の到底手の届くものではなく、ただ崇める存在であるとの思いを強くもち、その事を多くの人々に伝えていったということだという事が時を経て、のちの教会宗教になっていったものと思うのである。イエスの教えは「愛ある世界の完成のために為すべきことを記してい、その方便のために数々の奇跡を起こしたのである。
凡そ2000年前の出来事を口伝えで、又文章で、正確に現代まで伝わるものであろうか、ましてや言語は様々なのだからあやふやであろうことは想像できる。
だから、イエスという方が語ったといわれている「聖書」の存在も以上の理由により、論理的に判断しなければならないだろう。
同じことがシャカにも言える、特にお経といわれているものに関して今漢字で表現されているがもともとお釈迦様はインドの武士クシャトリヤだったというインド人である。ならば漢字で表現できるはずはない、少なくともサンスクリット語であったろう所謂古代インド語だったはずである
それが何故漢語になっているのだろうか、
そんな疑問を思いもせずただ信じるという集団がおかしいと思わないのだろうか。そのことを明確にしている団体はない
キリスト教団体、仏教団体、多くの新興宗教団体など思考停止しているとしか思えないのが現状である。
宗教上による相異によって戦争まで起きているのが現実。それは宗教上の問題ではなく宗教団体・組織の対立であって真の「宗教」とは別の話しである。
全ては物質欲と自己満足という空虚な考えによる宗教もどきの信仰が対立を作っているのである。
本来の宗教とは哲学がないといけない、論理が明確でないといけない、科学的な説明ができないといけない、常識的でないといけない
個人の考えでは到底及ばないのが自然現象でありそれこそが宇宙を示す教えである。
凡ての宗教団体はその自然の事を学習しなければならないのである。
2023年10月14日
無能の知について
実行することがなくただ知っているだけならそれは「空想」である。
知恵なくして行うのは妄動である。
学問をする者は心眼をひらき、偽物の姿を見てこれを本当のものと思ってはいけない
「中江藤樹のことば」より
真の学問は、人の心の汚れを清めて行い良くすること
悪い学問は博学の名誉を欲するためにただ知識を詰め込む といっている
学問は立派な人になろうとする学問は自分の徳を磨くためにするのであるから道を体得することを尊ぶべきである。
雑多な学問をして外面を飾り立てるようなことはしてはいけない
ところが最初の学問をする者はその精神を忘れ、他人に自慢するための、まるで嫁入り衣装を作るようなことをしている
隆庵所感
三流の政治家の国それが今の日本国。欲におぼれた人々
あわれなり
知恵なくして行うのは妄動である。
学問をする者は心眼をひらき、偽物の姿を見てこれを本当のものと思ってはいけない
「中江藤樹のことば」より
真の学問は、人の心の汚れを清めて行い良くすること
悪い学問は博学の名誉を欲するためにただ知識を詰め込む といっている
学問は立派な人になろうとする学問は自分の徳を磨くためにするのであるから道を体得することを尊ぶべきである。
雑多な学問をして外面を飾り立てるようなことはしてはいけない
ところが最初の学問をする者はその精神を忘れ、他人に自慢するための、まるで嫁入り衣装を作るようなことをしている
隆庵所感
三流の政治家の国それが今の日本国。欲におぼれた人々
あわれなり
僕は何者?
君の仕事は何か と問われたら僕は詩人と答えよう
そのうえでこう伝えるのだ「言葉や文字、絵を活用して 僕が費やした人々と
共に生きた この世での生活時間で何に驚き感動し 生きる目的をどのように捉え
人生の目的とは ああ゛こうだったんだと悟って感じたことを伝えるのだ」
その仕事に完成はない
伝えきれていないことはあの世で、また来世でという風に
永遠の魂がそのことをのぞんでいる以上 終わりなき旅は続くのだ
そのうえでこう伝えるのだ「言葉や文字、絵を活用して 僕が費やした人々と
共に生きた この世での生活時間で何に驚き感動し 生きる目的をどのように捉え
人生の目的とは ああ゛こうだったんだと悟って感じたことを伝えるのだ」
その仕事に完成はない
伝えきれていないことはあの世で、また来世でという風に
永遠の魂がそのことをのぞんでいる以上 終わりなき旅は続くのだ

2023年10月01日
英語教育がおかしい
英語が喋れて学歴が高かったら出世すると様々な場面で聞く。
おかしくないですか、
英語が語れるからといって、グローバルな社会で活躍できるとでも思っているのだろうか、言葉は自分の存在や意見を主張することと日常的なコミュニケーションのために存在しているという事がまず前提であろう。
国際社会において国同士が仲良くするために言葉は当然必要であるが、真に大事なことは自らの理念や、所属しているコミュニティの事やそのあり方、大切にしている事とか守らなければならないことを理解したうえでの言葉でないと、単なる交流にしか過ぎない。
日本語での会話、対話でも同じような理屈がある。わかっているはずの日本語同志の対話でも齟齬があるわけだから、外国語に至ってはその齟齬が増加するという事は当たり前であろう。
要するに言葉は意思疎通の手段であり、目的にしてはおかしいと僕は思うのです。
相手の立場を理解しようと思ったら、背景にある文化や相手が育ってきた経緯、歴史、地理的環境に大いに影響されているのだという頗る簡単な理屈であります。
したがって真の国際人たらんとするならば、まず自らを取り巻く環境、過去の歴史、所属する組織の成り立ち、その組織が何を大切に思いどうあろうとしているかを明確にしておくことが優先されるのではないか
これは、国家間のやりとりも社会の中でのやりとり、個人対個人の関係も何ら変わることはないでしょう。
柄という言葉を考えてみよう。お国柄、地域柄、家柄、人柄、などとよく言われます。そうした現状が今の世界・社会を構築している元になっているような気がします。
それはそのまま 平天下の達成に必要な事柄として存在しているのです。
お国柄を治める治国、国家の経営を安定させる事、その下の区分で地方がありその地方を構成しているのが各家庭でありこれをととのえる斉家、家柄は人柄によって構成されているとしたときやはり修身という課目が必要という事になるのだと僕は思っています。
全てはこの修身という課目から始まるのであって今の我が国にとって最も欠けている課目であると僕は思うのであります。その人間として生きていく徳目がないがしろにされ、物質の充足こそが人の目的となっていて、足ることを忘れた「欲望の塊」となっているのが現在の世相であるから、各地で戦争は怒り飢餓に苦しみ、いつまでたっても心が休まらないのであります。
物質獲得が第一目標となっている以上学歴も受験戦争というものも、学問の本質を忘れた記憶力さえあればその戦争に勝ち抜くという、人間性、所謂人柄など関係なき世界観で構成されているのではないか、というのは政界、財界、学界、文化の分野、はたまた宗教界、教育界の人々を鑑みればいかに人間としての品がないかを知らされているではないでしょうか。
いつの間にか学問は出世のための芸になってしまい、学者は自分で権威を作り上げることに血道をあげ 政治家は自分の生活費を得る為の手段に成り下がり・・選挙はあたかも就職活動のごとく有様、創業社長のような使命感や世のため人のためにという高邁な精神を有していたかつての経営者は、任期のあるサラリーマン社長によって自分の任期だけはうまくやって退職金で余生を贅沢にく暮らそうといった利己主義者の塊になってしまっているから、平気で消費増税などを容認する「財界人」の存在、コロナ禍で増収増益を確保した「医師会」の存在やこれらを操っている「官僚の諸君」国家観なき集団 愛国心が悪であるとまでいう「左翼市民」
それでも僕は「日本」は世界の中でも大切な国であることを信じています。
何故なら「国民」のレベルはどん底に落ちているとは思わないからであって、底力を信じているからです。
歴史と文化を学ぶ姿勢を失わないようにしたいものです。
おかしくないですか、
英語が語れるからといって、グローバルな社会で活躍できるとでも思っているのだろうか、言葉は自分の存在や意見を主張することと日常的なコミュニケーションのために存在しているという事がまず前提であろう。
国際社会において国同士が仲良くするために言葉は当然必要であるが、真に大事なことは自らの理念や、所属しているコミュニティの事やそのあり方、大切にしている事とか守らなければならないことを理解したうえでの言葉でないと、単なる交流にしか過ぎない。
日本語での会話、対話でも同じような理屈がある。わかっているはずの日本語同志の対話でも齟齬があるわけだから、外国語に至ってはその齟齬が増加するという事は当たり前であろう。
要するに言葉は意思疎通の手段であり、目的にしてはおかしいと僕は思うのです。
相手の立場を理解しようと思ったら、背景にある文化や相手が育ってきた経緯、歴史、地理的環境に大いに影響されているのだという頗る簡単な理屈であります。
したがって真の国際人たらんとするならば、まず自らを取り巻く環境、過去の歴史、所属する組織の成り立ち、その組織が何を大切に思いどうあろうとしているかを明確にしておくことが優先されるのではないか
これは、国家間のやりとりも社会の中でのやりとり、個人対個人の関係も何ら変わることはないでしょう。
柄という言葉を考えてみよう。お国柄、地域柄、家柄、人柄、などとよく言われます。そうした現状が今の世界・社会を構築している元になっているような気がします。
それはそのまま 平天下の達成に必要な事柄として存在しているのです。
お国柄を治める治国、国家の経営を安定させる事、その下の区分で地方がありその地方を構成しているのが各家庭でありこれをととのえる斉家、家柄は人柄によって構成されているとしたときやはり修身という課目が必要という事になるのだと僕は思っています。
全てはこの修身という課目から始まるのであって今の我が国にとって最も欠けている課目であると僕は思うのであります。その人間として生きていく徳目がないがしろにされ、物質の充足こそが人の目的となっていて、足ることを忘れた「欲望の塊」となっているのが現在の世相であるから、各地で戦争は怒り飢餓に苦しみ、いつまでたっても心が休まらないのであります。
物質獲得が第一目標となっている以上学歴も受験戦争というものも、学問の本質を忘れた記憶力さえあればその戦争に勝ち抜くという、人間性、所謂人柄など関係なき世界観で構成されているのではないか、というのは政界、財界、学界、文化の分野、はたまた宗教界、教育界の人々を鑑みればいかに人間としての品がないかを知らされているではないでしょうか。
いつの間にか学問は出世のための芸になってしまい、学者は自分で権威を作り上げることに血道をあげ 政治家は自分の生活費を得る為の手段に成り下がり・・選挙はあたかも就職活動のごとく有様、創業社長のような使命感や世のため人のためにという高邁な精神を有していたかつての経営者は、任期のあるサラリーマン社長によって自分の任期だけはうまくやって退職金で余生を贅沢にく暮らそうといった利己主義者の塊になってしまっているから、平気で消費増税などを容認する「財界人」の存在、コロナ禍で増収増益を確保した「医師会」の存在やこれらを操っている「官僚の諸君」国家観なき集団 愛国心が悪であるとまでいう「左翼市民」
それでも僕は「日本」は世界の中でも大切な国であることを信じています。
何故なら「国民」のレベルはどん底に落ちているとは思わないからであって、底力を信じているからです。
歴史と文化を学ぶ姿勢を失わないようにしたいものです。