「国家の品格」を書き下ろした藤原正彦氏による「国家と教養」には次のように書かれています。
戦後の教養層、つまり1945年から1970年までに大学を卒業した人々ですが、彼らは日本経済のリーダー的存在であって80年代バブルをつくり破裂させ、その後はアメリカの「新自由主義」をがむしゃらに推し進め20年に亘る「デフレ状況不況」へと国をミスリードしてきた年代の人たちです。
戦後の教養層はGHQ史観やそれに基づく戦後体制を墨守し経済成長に狂奔し、たかが経済のためにかつての日本にあった穏やかな社会や人々の思いやりや絆をずたずたにし国柄ともいえる諸々の情緒や形を徹底的に傷めつけてしまいました。
その先鋒にあって、たかが経済が国家にとって何よりも優先されるべき事柄として吹聴鼓舞してきたのが新聞、テレビをはじめとするマスコミであったことは言うまでもありません。
一方において、人間を成長させていくべきはずの教育分野においても詰め込み型の知識教育、試験の正解率の高低によって人格そのものまでも決定しかねない環境などが整い、その多くが部分教育に終始したうえで全体の大局を観察する力を奪ってしまったのではないでしょうか。
戦前における旧制高校的な西洋生まれの哲学や文学に傾斜した教養というものの本質が明らかにしてくれています。ギリシャ哲学やシェークスピアの戯曲、ロシア文学、などへのあこがれのようなもの。それは、明治初期の「文明開化」以来の西洋への劣等感に根差した西洋文化への「憧憬」「跪拝」に過ぎなかったのではないかという事である。
すなわち、日本古来の形、古神道であり武士道精神であり、儒教精神、惻隠やもののあはれ等の情緒をわすれた教養というものは、脳の先っぽにしか存在しない実体も生活感もないものだったといわざるを得ません。
そういった国家のリーダーたちは、薄っぺらな根無し草であり国難にあたって何の力も発揮すべきでないひ弱の存在だったのです。
今や、そうしたひ弱なエリートもどきが引き起こしている現象は今や日本におけるあらゆる場面でみることが出来ます。
日本人としての形を忘れた葛藤なき教養人は戦後のGHQ史観に流され左翼思想に流され、今や新自由主義やグローバリズムに流されています
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