2021年04月22日

実在界と現象界

 死んだらどうなるという話から分かることなのですが。霊界がホントの世界であってこの地上界は仮の世界であるからひと時たりとも形状を維持し固定化することはあり得ないのです。つまり「物質は変化する」という事こそがこの世の仕組みであって、これを「諸行無常」というのです。またその無常の中に変化しえない存在が同居しているのです。人間の魂そのものは増える事もなく減ることもなく生まれる事もなく死ぬこともないのであります。
 変化していくものに対して変化しないものが同時に同居しているというのが、「色即是空」「色心不二」という事であって空しいという解釈は間違いなのです。
 西洋における「聖書」という存在はイスラムでは「コーラン」東洋では「仏典」ということになるのでしょう。私たち日本人にとって神社神道及び仏教というものはとても身近なものとして意識させられるわけですが、元をただせば今から2500年ほどの過去に人間の道を説いたゴーダマシッダルタという方が説かれた話を、それぞれの弟子たちが如是我聞・・私はゴーダマ仏陀からこのように聞きましたという話を文章化したもの、もしくは歌にしたもの、寓話にしたものといった形状にて残していったものなのです。
 それが現在お経という形で残っている訳なのですが、そもそもゴーダマ仏陀はインドの方でしたから、今のような漢字で教えが残っているという事も変な話ですよね。まして2500年前のインドの言葉ですからその言葉が現代も通じるわけがないと思うのです。要するに2500年前のインドから今の日本までの時間と距離を考えたときに数知れない人々の口伝えから現代にまで物事が正確に伝わってきているかははなはだ疑問に思うところではあります。
 しかしながら人類の叡智は古代インドの文字からどのような地理的経緯を経て、言語を解読しながら突き止めていったその努力には頭が下がる思いであり貴重な人類史としても大いなる業績であったように思うのです。

 また、無理のない話ではありますが現代において仏像の前でお経をあげるという事がいかに滑稽な事であるかについては従来の陋習という事で疑問なく行われているに違いないのですが、お釈迦様の仏像の前にでてお釈迦様に対して2500年前にお釈迦様が説かれた教えを唱えるという事になるわけでして そこに矛盾を感じないのでしょうか。
 遡って考えるに、インドで説かれたお釈迦様の教えはチベットを経て中国にわたり、そして体系化されたものが伝教大師最澄によって日本へ持ち込まれたのですが、漢文でかかれたお経を当時の日本語に訳されなければならない事から一部の学術者、高僧のみにしか広まっていかなかった。
その後日蓮、法然、親鸞といった方たちによって大衆へと広まっていったのです。
 聖書と同じく時の権力者によって都合よく解釈されたものが現代まで続いています。
 それにしても現代唱えられている「お経」も難しい言い回しであり、本来お釈迦様が2500年前の大衆に対してそんな難しい言葉で道を説いたでしょうか、仏教の根本精神とは本来そんな難しい言葉で説かれたわけではないでしょう。

その鍵を解くに最適な図書として 高橋信次著 「人間釈迦」T〜W をお勧めいたします。
posted by 筆文字や隆庵 at 13:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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