善は先天的で悪は後天的であるのであって、その本質は善そのものである。
生まれたばかりの乳児には善悪の区別そのものがないように、悪という概念はその児の成長に伴う様々な体験が後天的人格を育てていくのである。周りの環境、教育、思想、習慣。そして五感という肉体的な感覚に支配されながら日々を送っていくためにだんだんと天理から離れていってしまい本質を忘れ、自己中心的な自我我欲に翻弄されていくのである。(昨今の物質至上主義をみよ)
物そのものはその存在の性格上、入手することによりある手段を得るものであってその種類はそれこそ千差万別の代物であり、ある人にとっては、有用な手段として存在するがある人にとっては何の意味もない物として扱われるという事は枚挙にいとまがない。
陽明学では天理に近づかんとするものはまず私欲なるものを捨てよというのである。
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聖人が聖である理由は、人格(心)が天理そのもので人欲のまじることがないこと。この一言です。ちょうど純金が純粋である理由は、その金の純度が100%で銅や鉛が混じっていないのと同じです。
ですから人間は天理そのものになってこそはじめて聖なのです。
モノの多寡に聖人か否か それを求めることではなくその純度こそが大事だということなのでしょう。
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