2021年07月11日

マスコミの悪意と言葉の限界

昨今のマスコミの「報道しない自由」に関しては多くの人達によって情報発信されているネット社会の中では通例になっています。
ネット社会とは言ってもその情報は玉石混合であり、ちゃんとした証拠などはっきりしないままに流されているきらいも確かにあります。しかしながら、地上波における情報操作には目に余るものがあると感じているのは小生だけではないだろう。
本日もまた東京ではコロナ感染者が600人越えとか単純に報道しているがざっとした内容のみで詳しくは報道しないようになっている模様なのですか具体的な言葉の定義もなしに発表するのはおかしいと思うのであります。
感染者の定義は陽性者とごっちゃとなり本来は発症者といわなければ区別がつかないではないか、また重症者とはどんな状況なのか、完治者の数も発表しないと片手落ちですよね、また諸外国との比較もなければいたずらに「恐怖」をあおるやり方には怒りを通り越してあきれてしまうのです、どなたかが提唱している「ゼロコロナ」論議のばかばかしさや、酒類提供の禁止といったまるで関係ない愚策ぶり、エビデンスのない各施策はもうすでに多くの国民が気づいている事なのです。
とはいうものの連日の「テレビ放送」という状況は尋常を通り越して「狂気の沙汰」であります。何気に視聴しているご老人にとって唯一無二の情報源がテレビであり、ひびこれだけ「コロナ」を言い続ければ当然恐怖にかられるのは当たり前ですし、その影響は多大であるわけです。
一方においては熱海の土石流の原因追及の緩さはなにか政治的な裏でもあるかの如く沈黙状態、許認可事業の実態や県、国交省の関与などうたがわしいことばかり
また中国に対する政策や、尖閣列島の情報など「国民」の知る権利は一体どうなっているのであろうか、ユーチューブで流れている情報を見るたびにマスコミ諸氏の存在価値をうたがうものである。

ということで、情報発信の言語に関して考えてみたいと思います。この世の多くの出来事は言葉と映像によってある程度は認識できるものと思っていますが実際に誤解が多く含まれていることを知らなければなりません。言葉はその言葉を発する人によって嘘か誠かという事を、判断しがちです。先ほどから述べている[コロナ」関連の情報のように適宜なエビデンスを発表しない言語空間や国民が知る由もない場所にて繰り広げられている国家の方針策定の様子を創造するにまず「信ぴょう性」を疑うところから出発するため本来とはかけ離れた現実が世を覆いがちです。そこに真実らしきものを語る人が現れると、それを一斉に否定する動きが活発になる。とすると否定の肯定という論で今まで流してきた情報が嘘であったという事なのではないかとまたまた疑ってしまうのであります。

 世の中は実は何となく○○に違いないといったあやふやな感覚で進んでいくのです。
物事をじっくり考え抜く習慣を持たなければ正しい生き方が出来ませんし、知っていなければならない事を知らなければならないのです。
知るべきを知らないことをお釈迦様は「無明」といわれ戒められたと聞いています。


 
posted by 筆文字や隆庵 at 12:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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