国難の時こそ公と私の関係について思慮してみたいと思います。前提として次の事が言えます
公の決断や施策に比して私たち私人はその決断の制約を受けるわけですが、その際に重要な事は公のリーダーが苦慮し発信した内容に関してまずは理解を示すことだと思うのです。何故ならそうした公の立場には私たちはなっていないという事ですからね・・・
一方において冷静な判断は私達にも委ねられており、少なくともデータとして発信されている事柄は理解しておきたいし、それらを報道しないマスコミの態度や政治家の言動といった公に近い方たちの意見の真偽を図るだけの理論武装は必要だと感じています。
物事には真実とその真実が不都合な方たちによってねじまげられた真実もどきがあるという事を今回の「コロナ」騒ぎに見ることが出来、同時にオリンピック反対運動の概要がネットによって明らかになっていったようです。
世界の中の日本という事を考えるとコロナ感染者は米国の10ぶんの1 にすぎず、その米国ではすでにマスクすらしていない環境で大谷選手の試合観戦者が27,000人という事に何らコメントも発しないマスコミって一体何なのでしょうか、よーく考えたら不思議ですよね。
オリンピック無観客だけど夏の甲子園はお客をいれるのだそうです
今でも人数制限ありとはいえプロ野球は有観客・・・
陽性者を感染者という誤解を招くような発表
世界一の病床をもちながら医療崩壊という医師会・・・この2年間一体何をしてきたんだといいたくなるような専門家助言集団等々
と、立腹しても修正はしないだろうというあきらめの心境 政府も自治体もマスコミも信頼できないのだといった雰囲気づくりこそが実は大問題なのかもしれないですね
人間のコントロール、マインドコントロールの恐ろしさは昔も今も変わらないのです。
厭世主義者を数多く生み出していこうとする動きの果てにはなにがあるのか・・独裁政治? カルト宗教?
正しく物事を考える習慣をもとう
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