蓋然性のあるもの、いわゆる誰にでも当てはまるといった類の概念では説明できないかもしれない
あくまでも「個人の価値観」に大きく影響を受けるものであって人それぞれだよね・・といった意見が大半を占めるのであろう。
普遍的ではないという事は各人の生まれてきた環境や思想や習慣によってある意味後天的な価値観の上にその幸福感の位置づけが決まるという風に考えることができよう
しかし、本来は自分の心が(まさしく善そのものの限りなく本来の資質)どうとらえているかによって心の奥底にある感じ方が変わってくるという事を意外と知る人は少ないのであります。
不幸になりたいと思っている人はいない、生きている以上は幸せでありたいと当たり前に思う
でもそういう人に聞いてみると幸せな状態とは経済的に豊かでありたいと思い金もちになることこそが幸せであるという
そうなるためにはいい学校に行き、いい会社に就職、もしくは特別な職業について金もうけできる環境を手に入れる事だという
本当にそうなのか・・・・・
またある人次のようにいう、「楽あれば苦があり、苦がありて楽あり」だから楽のために、苦を乗り越える必要があるから日々の苦しい努力をするのである。
仏教では四苦八苦といって苦行の先に浄土があるので今世で苦しむのは来世の楽園のためにの修行をするのだという。
少し話がそれましたが、今の世の中物質的に恵まれていたら幸せなのだということが定説になっているようです。国民総生産が多いとか少ないとかで国力が計られているのも、金持ちがいかにも優良な人として社会から認められているのも、逆に疎まれているのも、うらやましがられているのもその「物質至上主義」のなせる業でしょう
しかし、それが本来の幸福だと中々納得していない人が多いのも一方では事実なのである。
設けることなど眼中にない芸術家にとって金銭など二の次だという話もよく聞くし、自らの損得を除外してまでも人々のために身を粉にする人々もいるのである。
人類社会の始まりから今日までこれら「幸福」に関しての論議は様々な人々の中で進められ様々な意見があったように思うのであるが真実に近い考えとはどういったものであろうか人類の歴史上最大のベストセラーといわれている「聖書」※ 旧約・新約それぞれの内容、仏陀が説かれたという仏典の数々、はたまたイスラム教の経典「コーラン」2000年前に存在した「孔子」の論語はじめ中国古典等、ひも解けば壮大な資料が存在している。生き方についていかに多くの人々が関心を持っていたかを表しているのがこれらの書物であり預言書である。
私達人類は「幸せとは何か」という課題に関して真の解答を得るために生きているといっても過言ではないかもしれない。それくらい受け取り方が千差万別であろう。
ただ、いろんな意見があるとは言いながら各人がおかれている環境については聖人か否かに関係なく共通に発生する現象というものがある。それは、過去の人々も現在の人々も未来の人々にも生老病死は避けられないという現実があるという事。これだけは紛れもなく誰にでも訪れる現象であるという事を前提に、「幸せ」について今一度考えよう・・・
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