さて、問題解決の方法を歴史に学ぶという事は一体どういうことであろうか考えてみたい。
そもそも「歴史」とは原因と結果という一連の流れを推測するに適宜な事柄を教えてくれるものだ。※もっとも、その歴史が虚偽だった場合は何ら意味のないことではあるが、いずれにしても原因と結果という振り子の振動の様子を記録したものととらえられる。この場合人が何らかの行為により出来事を動かしたという点が強調されているものとするのが「歴史」という名の記録帖なのである。
一方において科学的、論理的な方法によって「歴史」を解明する方法も存在している。例えばある科学的発見による場合や地質学的な変動、気候の変化、また権力者等による直情的な行為や、逆に献身的な行為によっても変化していくのも歴史の特徴なのである。
地政学的な状況もさらに宗教的な問題をも含む複雑な要素が絡み合っているのも事実であろう。
こうした結果、現代に生きる私たちにとっての歴史観も様々に複雑に絡み合っている糸を解きほぐす必要に駆られているのである。
原因は単純ではない、そのために論理的な分析力を持つ必要があるのである。
変化せざるを得ない事と人間の力ではどうしようもない事などが入り混じっているわけだからその見極めも大切であろう、すべての物は原因と結果、作用と反作用とそれに続く慣性の法則など人知の入る余地は最初の原因、作用の方向性をどうコントロールするのかにかかっているのである。
ところでごくごく最近の「コロナ禍」に関しての歴史の振り子はどのような事を私たちに教えてくれたのであろうか、果たしてそこに論理の裏付けが存在していたのかすこぶる疑問に思っているのは今や周知のこととなっている。医師会という職業集団、専門家会議、政府、自治体それぞれの因果が如実に現われたとかんがえる。いずれも責任を取りたくない日和見主義の集まり、自己保存丸出しの行動などが目につき、それをあおるマスコミ各社の根性を見るにつけ、教育の所在に根本の問題があるような気がしている。
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