まず実在界というあの世にエーテル状態の肉体を形づくられ その中にポンと、神の意識を持った魂を配置された
その他の動物、植物も同じようにまず実在界に姿を現し、次いで地上界に物質化されていくのであり、忽然と大地に現れたのであります。
元をただせばこの大宇宙の中に存在している私たちは紛れもなく神の子であって、どうあがいてもその立場から離れることはできないのであります。しかもその生命の目的は「調和の実現」という「神の意思」から逃れることのできない「宿命」を背負っているといえます。
したがって目的である「調和」に反する思いや行為には必ず相当の「反作用」があり、本来の姿に立ち戻るようにと反省を促す出来事が起きるわけであります。
問題は真の世界であるあの世ともいうべき振動の精妙な世界から最も粗い振動数を持つ地上界に降り立った人類は、自らの持つ意識を働かせる割合が10%未満になってしまうため、盲目同然の人生を歩まなければならない事態になっていることによる「大いなる誤解」をもって日々の暮らしを余儀なくされているという実態であります。要するに「間違いを犯しやすい」状態が常に私たちの周りにまとわりついているということなのです。
過去、多くの詩人や哲学者 はたまた宗教家によって「人生は苦なり」といって人生は苦闘の連続であってこれこそが人間なのだものという事を書き残していたり、文学や戯曲などにその「苦闘」に対する人のあがきを題材にしている物語となっていることを私たちはよく知っています。
しかし、過去の偉人、所謂仏陀や、イエスはそんなことは言っていないのです、彼らは実在界あの世こそが真の世界でありこの地上物質の世界は仮の世界であり、本来人は善そのものであり神の子であるという事を教えるためにこの世に何度も生をもった「光の大指導霊」であります。
ものにおぼれ、情欲におぼれ人としての在り方を忘れがちな私たちが自ら神の子として自覚しその事実を思い出すことを手助けしてくれているのです。
曰く「苦とは私たちが神の創造した法則に外れた思念と行為の結果として訪れてくるものて゛ありそもそもが苦を作り出しているのが私たち自身であって苦の世界があらかじめ用意されているという事などないのです」
今から凡そ7000年ほど前にこの世に生を持ちエジプトの宗教的指導者であったとされる「アガシャー」という霊人は次のように述べていられる。
我々は自己も他人をも罪ありとしては認めてはならないのです。我々は我々自身から学び、又他人から学ばなければならないのです。
本来は善と悪という二元性ではなく悪というものは存在していなくて、悪と見えるものは神性的な自分の心普遍的な生命活動の表現ができていないという極めて消極的な状態のことを指すのである。
「善一元論」というのであります
苦痛は我々が法則に外れていることを示してくれ未習熟の課題があることを示してくれる合図であり正しい調和のある考え方に導いてくれる刺激であると理解し苦痛をのがれるにはどうしたらいいかを学ぶ題材を供してくれているという事に感謝しなければならないのです。
という事は我々には誤りを犯す自由もその誤りから何かを学ぶ自由もあるわけですから、その誤りを熟考し他から強制されることなく自己訓練を完成するという自由を持たなければならないのです。
自由といっても我々が属している集団の因果による苦痛の場合はその自由も制限されるのであります。
しかしながらその集団の苦痛はといってもそれすらもいずれかの過去の思念と行為の結果としてあるという事も忘れてはならないことでしょう
永遠の魂の旅を続けている私たちにとって原因と結果の輪廻が続くわけでありますから、きょう一日を正しくいきたいと思います。
そのための「徳目」についてまた次回書きます
【関連する記事】