しかしその極小な存在である私たちがなぜ大宇宙の広さを実感できるのでしょうか、どんなに精巧なレンズを通しても肉眼で見る宇宙の広大さは認識できないのです。
なぜか、それは私たちの心そのものが宇宙大の大きさを持っているからなのです。その神の子としての私たちが、それでは何を物差しに生きていく規範を定めるのでしょうか
ここでは、その徳目に関して考えてみたいと思います。
第一の徳目・・・友愛(愛と慈悲)、救助、協調、今日胴、忍耐、正直 などなどどれがかけてもダメなんですが、これらの心を持ちそれを実践すること。つまり、神性といわれるあらゆる善徳を実践するという事になるのです。
第二は・・・・・我々の生活をできるだけ優雅に親切に、調和を保って日々が明るく朗らかになれるよう努力をし完全に生き抜くことによって成就するものであります
第三には・・・あらゆる立場をこころよく迎えて謀反心を起こさず、我慢強く就中理解ある心を持つことによるものであること
こうした理解ある心は 凡その環境とあらゆる試みとして異義を認め、そこに魂の向上の機会を発見しようとする心構えでいることなどです
目の前に現れている環境、現象や事件は私にとってまた、私の周囲の人々にとってどういう意味があるのか、これは私が何かを学び取り それによってさらに一層自分を「神理」に近づけるための出来事であるか、そうしたときに私は心的に何を思った誠意か、また肉体的に何をしたらよいのかについて考慮しなければならないのであって
これらの事件を「宇宙的原理の秤」で測っているか、それとも「我欲」という有限の秤、すなわち単なる幻想で結局は心の損害になるような一時的便法の秤で測っているかどうか、その動機の在り方に心を寄せるべきことであります。
こうした事態を体験しいかに解決していくかということで、自ら進んで錯誤と幻覚の世界に三輪いれ体験を通してその結果
比較対照によって、ついに私たちは完全なる「神理」をはっきりと自覚するようになるのであります。
(注) これらの文章は「天と地を結ぶ電話」より抜粋したものであります
我々は誤りを犯す自由とその誤りから何かを学ぶ自由があるという事を何度も何度も認識しなくてはなりません
日々、私たちはこうすればよかったとかこうしたから解決したとかの事例はたくさん持っているものです
小さな悟りはいずれ大きな生命の悟りにつながるのです。
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