私たちは有限である肉体とともに未来永劫・・・というより過去現在未来に永遠に存在している・・・心と同居しているのであって現在地球上にある物質とともに今ここにいるのです。
霊視できるのであれば今の現実にある肉体とその肉体にピタッと重なっている次元の異なったもう一つの肉体が見えるはずであり、「死」とはそのもう一人の自分が離れるという事なのです。
もう一人の自分は実態があって、重たく鈍感な物質から解放された軽やかな、すがすがしい存在であることを理解するでしょう。執着を捨ててしまっていたらその心は天に上り明るい世界に住することになるのですが、執着を捨てきらないと、どんよりとした雰囲気の中に自分を押し込めてしまい本来明るいはずの世界を自らして暗く考え、そしてつらい思いでしばらくは生きていくのです。
この世でしか役に立たないものやことにしがみつき手放せなくなってしまってる状態を心の中のお荷物、執着というのです。
生きているときに持っていた地位や名誉や財産、学歴、美貌とそのことによる優越感、又これらの反対の世界観で地位に対しての反発感や恨みねたみ、そねみ、美醜に対しての劣等感などの心は捨ててしまわなければならないものなのです
では、なぜ執着心があるのでしょうか。その執着心とはどこから生じていったのでしょうか・・・その事をじっくりと考えなければならないと思います。
考えられるきっかけは私たちが生まれ現在に至るまでの思ったことと行ったこと、それに関連して発生した現象の数々にヒントがあるわけです。以前のブログで何度も述べている「原因と結果の法則」の中にそのカギがあるのです。
いずれは消えていくこの世的な物質が大切であるという考えが世界的に蔓延していて、財産をたくさん所有しているのが偉いのだといった風潮が世界を支配しているためで、そのためには金儲けしなければいけないとばかり経済活動にまい進する。それにはいい組織、会社にはいって出世するか(財界人)、自分で会社を興して儲けるか・・・または官庁にはいって、政治家、大臣を目指すかはたまた専門家として著名になるかなどと考える。この考え自体は別に問題ないが要はそのことによって優越感や劣等感をもつことなのであって、得た利益を自己中心の欲望のためにのみ考えるという事が問題なのであって、執着の元なのです。
世の中はそれぞれの個性が絡み合ってそれぞれの人が社会の中で貴重な役割を演じて人生を豊かなものにしていくというのが真理なのだから
各人がそれを理解し実践していき、この世から去る時になんの執着を持たずに、滅びゆく肉体にこう呼びかけるのです「私の肉体よ、よくここまで頑張ってくれたものだ、今から君は灰になって地球に帰っていくが、私はこれからあの世という世界に移住するのだ、再びこの世に生まれるときはまた君たちの元素にお願いすることになるだろう、その時はまたお世話になります」と・・・
さらに見送ってくれている親族や仲間のみんなにはこういいます「みなさん、私は先に天上の世界に一足先に還ります、いろいろとお世話になりました、またあの世に皆さんが還られた時にはお会いして地上で生活していたころの思い出話に花を咲かせようではありませんか、ではひとまずのお別れです。さようなら・・・」と
こう言える自分でありたいと本日もまたがんばります。
2022年07月02日
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