2022年10月12日

宗教の話をしよう

 前提として次のことを考えよう。まず第一に宗教と宗教団体は違うという事を知っておかなければならない。似て非なるものと私の解釈
次に信仰とは何かという定義づけを一定にする必要があるという事 さらに「神」と称されているものの各人の考え方についての理解

 これらを認識したうえでで話を進めていかなければならないのである。

 永い人類の歴史を経て現在世界に認識されている宗教は大きく分けてモーゼの説いた「ユダヤ教」ゴーダマの教えである「仏教」イエスによる「キリスト教」さらにアラーの代弁者 マホメットの「イスラム教」などが有名であって、その流れを汲んだ数知れない宗派なるものに分類されていき、今や本来のモーゼ、仏陀、イエスの教えがまともに伝わっているとは思えないのである。それぞれは、ユダヤの経典としての旧約聖書イエスの生涯に関しての弟子たちの記述による新約聖書、ゴーダマ仏陀の教えを弟子たちが記した仏典、イスラム教ではモハメットの弟子たちによる記録コーランなどなど

 いずれもそれぞれの国の言葉であり過去3000年2000年の時を経て、今私たちが見ているものは幾千幾万の手を通して得ている知識や情報であるという事を前提に考えなければならないという事。

 今宗教という団体も何らかの情報、言い伝え、古文書などをもとに教義を組み立てているものでありそこには、当然のことながら団体の創始者の恣意によって解釈されていることがあるのだ。
 文化大革命という名のもとにもはや現実では存在しないような孔子の教えもまた、同様に解釈した人の手によるものであるという事を知ろう。

 このように多くの教えは人によって時代によって書き換えてあるのだという事である。
だからといって、嘘ばかりではなく真実もたくさん残されているのも事実である。私は聖書や仏典(日本語に訳されているもの)中国古典より抜粋したもののなかでほぼ同じことを述べている個所に関しては真理であると思うのである。例えば聖書にあるイエスの言葉「蒔いた種が生える、瓜の種を蒔けば瓜の実がなり、麦の種を蒔けば麦が生える」という事をゴーダマ仏陀は「因縁・つまり原因があって結果がある。良いことを思い良いことをなしたら良い結果が生じ、反対に悪い事を思い行ってると悪い結果が生じる。」ということを説かれている。
モハメットは「目には目を」といっている。 いずれも同じことである。

 さて、問題は現代社会に於いての宗教団体乱立の現状をどう見るかである。普遍的で真実のおしえであり宗教が本当に人々の救いになっているのならこんなにたくさんの宗派が存在しているという事に疑問を持たないのか不思議である。
古典的な寺や神社で形式的な教えではなくもっと実践的で日常的なご利益にあやかろうとした人々の心の動きが新興宗教というものにひかれていったのかと思うし、見えない世界という神の世界にあこがれる人が出てくるのも無理もないことだろう。そこに詐欺まがいの事件が多々起きているのも宗教の何たるかを知らないのみならず、深く物事を考える人の少なさが生んだ現象なのだろうと思う。

 人生は一寸先が闇とばかりの様相を呈しており誰しもが望む安定した未来、その未来への橋渡しをしてくれるであろうと信じるのが宗教であり 教えなのである。

 私が学んだ新興宗教各団体の成り立ち、創始者、歴史、教えの内容とうに関して簡単に説明されている書物より抜海して紹介していきたい。

次回・・・統一教会を考える編

 






posted by 筆文字や隆庵 at 18:01| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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