2023年01月14日

私は誰なのかを考える

 人が生きていくという事は少なくとも何らかの立場を持っているということでありそれぞれの立場なりの役割や使命、義務や権利を持っているという事を考えなければならないのだと思うのである。

 私は何者か・・第一に父母の子供であるという事、第二に日本人であるという事、次に妻の夫であるという事 子供の父である事、地域の住民である事・・・親戚の一員である事、仕事を通して納税者である事、お客様に対して物品やサービスの提供者であること、会社のリーダーであること・・誰かのお客である事・・などその立場を書き出すときりがないほど多くの側面を持っているのが私という存在なのである。

 また、健康と私、経済と私、これらのことを考えている心根と私、無限に広がるのである。

社会生活を送っていくために経済との調和を図っていかなければならないのも、家庭生活が平和に送っていくために必要な要素であること、会社、家庭、上司、部下、得意先、それぞれの幸福のためにも円満な精神を持っていなければいけないのも私の使命なのである。

 それを自覚したうえで様々な問題に対して取り組まなければならないのである。

 目的は調和、その実現のためになさなければならない課題を釈尊講和伝・・・「八正道」にみることができるのである。

すべからく人はある時「哲学者」でなければならない、またある時は「科学者」でなければならないとしたときに学ぶべき教えは釈尊でありイエスであり、近年では高橋信次師であるわけで、根本は同様に「調和の実現」というテーマに沿った教えであるという事を知らなければならないのである。

 決してそれはよにいう宗教というものではなく、宇宙の法則、人間の実態のありようなどは普遍的であり現代のような宗教団体の教えとは全く別次元の話しである。釈尊の説いた教えもイエスの説いた愛の教えもそれぞれ僧たちや牧師たちの間で間違った教えになっているのである。

 仏教においては様々な宗派に分かれている。まあこのこと一つ見ても釈尊の教えが正しく伝えられていないという事である。

 お経は釈尊が2500年前に語った教えをまとめて文章にしたものである。それも古代インドの言葉が主であり今のように漢文になったのは
 中国のお坊さんが、インドに行って持帰ったものを翻訳したものを基準にしているため正しいものと不可解なものが混在したうえ永い年月を経ていて言葉も人心の環境も異なっているために古代の釈尊の教えと大きく逸脱したものと考えるのが妥当な考えであろう。
 釈尊存命中にはお経などないわけでそのなかったものを現代読誦せよとは、不可思議である。仏像のまえでお経を読むという行為も不可思議である
 釈尊像に向かってお経をあげるという行為もお釈迦様に対してお釈迦様の教えを説いているというへんてこな話になっていると思うのである。

 聖書もしかり2000年間の間に真実が捻じ曲げられているし

 イスラムのコーランもまた同様である

  推薦したい図書として「人間釈迦」高橋信次著 を勧める次第である。




posted by 筆文字や隆庵 at 00:27| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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