この目的があるからこそ日々様々な分野で頑張っているのであろう。具体的にはどんな目標・目的をもってるのかはそれぞれの生き方によって異なっているというのは周知している。
幸福の定義を探っていくと、それは経済的に恵まれていることであると考えられているのが現代である、
また、自らの家庭が笑顔にあふれた状況であるというのも幸福の定義上正解であろう、健康的で生き生きしているというのも
幸福の定義上正解であろう
さて、このようになるにはどうすればよいのだろうかと考える前に人間そのものの本質の所在、あらゆる側面から研究してみるとき
一体、宗教というものが何のために存在しているのかを考えざるを得ない。ここでいう宗教とは団体や組織的な集まりをもっていて国家から法人格を得、税金の優遇を受けているものをいうのである。その宗教組織そのものの存在によって人々は幸福を獲得したのだろうか、はなはだ疑問に思うのである。
法華経はお釈迦様の教えより日蓮を尊び、曼荼羅を拝み題目を上げることが信仰と思い込みそうすることによって幸福になれるものと信じているのであろうか、日蓮さんの背景 生存していた時代のことを鑑みたうえでのことかよくよく考えてみたい。鎌倉時代の僧侶であった日蓮の教え、幸福を得る為のノウハウとは題目を上げることだったのか、さうすれば経済的に恵まれることになるのだろうか。家族が円満で仲良く暮らしていけるのだろうか、組織の中での葛藤とかよく聞く話で内輪もめが多いときいている。
統一教会に関しての話しは霊感商法とかで法律の縛りをかけるそうだが、ならばその他の宗教団体も同様にしなければ矛盾となるし話題の二世信者の問題も統一教会だけではないだろう。
創価学会、エホバの証人、比叡山、高野山、キリスト教会・・・きりがないぐらい宗教団体の数あり、であれば皆幸福になっていなければならないはずなのに、ちなみに各団体の信者合計は日本の人口を超えるらしい・・・そこに疑問を持たないのが不思議な話と思いませんか
今の今、この瞬間が幸福であるかに関しては宗教団体の教えは全くの無力である。そもそも今回の統一教会の二世信者のことにしても
この団体が間違っていることにきずかなければならないのに、
もっと現実的な努力をすることが大切な信仰であると思う次第である。
各宗教団体の教えの矛盾を色々研究中
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