選択すべき事態を数々迎え、それなりに決断をしてきたという。その結果がたった今の今現実として目前に現れてきている。
現在の私の環境の一つ一つは今までの人生の中で思い行為してきた結果として存在しているという事をまず認識しなければならない
言い訳をしなくていい人生をと思いつつ、あの時こうしていればよかったのかと後悔も確かにある。
さていくつかの岐路に対して自分がどう思いどう反応しどう行為していたのかその道筋を振り返ってみることは貴重なことではないだろうかと思うのである。
ある時老婆は語った・・・少女時代に読んだ物語は私を涙させるくらい感動を覚えたころがあった。いま読み返してみてその頃の感動した自分をかわいいなあと思った。という
ある男は語った・・・あの歌を聴き歌い仲間たちとはしゃいだ。バカだったと思いながらエネルギーは有り余っていたよな。という感情と本能を優先して生きていた時代があった。そしてそうした仲間たちもそれぞれの道を歩んでいった
学業を徹底するためでなくなんとなく流れで大学進学を選んだグループ
学問に意味を持たない経済的にも家庭にもという原因から進学しなかったグループ
学問を徹底し専門的な領域にて活躍しようと思ったグループ
そののち所属した組織の慣習や性質によって新たな知識、哲学のようなものを学んでいき一つ一つが血肉になって行く。
それらの様々な理由により貴重な青春時代をみな送った
志、あるやなきやを別にしてともかくも今がその収斂された事態。知らず知らず一つ一つの価値判断の基準になっているのだ。
さて、もともとの本来の基準はどうなのだろうかと考えるとき次の一文に出会ったのである。
「 活用なき学問は無学に等し」
知ってるだけでは何の意味もなく理屈を知れば実行せよという事
陽明学では
「知行合一」実践なき知識には意味がなく、理を背景にした行動に意味があるという事
その行動指針に関してであるがどのような動機によってなされるのかを問いたいというのが未来創造のコツであると思うのである。
老いてきた今を思うとつくづく過去に反省の題材を求めるのであります
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