なぜ生きているのであろう、この問いに対して確実な答えを持っているのだろうか
人として生れてきたという意味はあるのだろうか・・・
図らずか図ってかは知らずとも
今の今現実に生きているのである
ならば何らかの意味があるはずであろう
いえることは、日々の暮らしの中で心の安らぎを求めているといえるのではないか
そして、人格の向上をし助け合いの社会を作ろうとしている
これが人生の目的であろう。心の中から人に何かをしてあげたときには喜びが
人に迷惑をかけただろうな というときなどに訪れる心のざわめき・・・・
この違いを実感できるひとは向上の道に乗ることができる
これを感じるとき、「そう、生きててよかった」と思わないであろうか
70歳を迎えた私は物心がついた10歳ぐらいから様々な現象を経験してきた
日々の生活環境は人格を向上をする場なのであろう、子供のころの環境に対して子供とはいえ様々な考えを持っている
当時「人格の向上」などとは考えもしなかっただろうが、小さな社会での苦労は子供ながらあったものである。ともかくも
人生という土俵の中で数々の出来事を経て、その都度数々の体験、観察と判断そして実行などを通して人格を形成していったのが
本日の私たちであろう。
今日がどんな環境であるかを決定していったのがその収斂されたものと考えられるのである。
多くの体験から、それぞれの運命を司っているのは各人の性格によるものだという事が理解できるようになった。人格の向上とは長所を伸ばし短所を修正することが大切である。という事はみんな知っている
では、長所とは何か
明るく楽しく素直に生きる、そして多くの方々にお役に立つこと
短所とは何か
怒り、気取り、愚痴、強欲、自閉、粗野、増上慢、ねたみ、嫉み、でしゃばり、怠惰、多弁、独善、くよくよ、後悔、疑い、優柔不断など
人と比べて優越感や劣等感などの心の動き、
だから長所を伸ばし短所を修正する事、そのように思い行動していったさきに心の安らぎを得ることができるのである。
人生の勝者とはそういうものである。
2023年06月18日
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