2023年06月29日

生命活動の本質

 この世に生を受けたものは必ず滅す、人はおぎゃーと生まれたその瞬間から老いてゆくし死にゆくための時間を消費す。これが生命の本質
肉体の宿命、世界のどこを探しても不死のものはない・・・物質的にはである。

 滅びる肉体は物質的に消去し窒素リン酸 カリなどといった元素に変わり再び集中して誰かの肉体となって甦る。木々や花草も同様枯れゆき散っていったとしてもその原子元素は姿かたちを変え新たなる物質の構成物として存在するのである。

 それらの一連の変化は偶然にそうなっているのであろうか、つまり物質の最小極微の存在は形を変化させたとしても、凡て物質の世界で生きているのだといえる。

 されば、人間はどうか。
現代の医学では、凡ての生体状況が数値にてあらわされている。

 つまり人は数値にて構成されているという事になるのである。
それぞれの数値の時系列的推移によって肉体が段々変化していくのがわかり、その際にそれぞれが衰退していったりするのをとどめるために医学が存在しているといえる。

 とはいうものの全員が滅びの道筋に存在しているという事は避けられない事実でありどうあらがっても無駄なこと

 しかしながらこの肉体を支配しているところの「精神」「こころ」はそれぞれの個性をもちながら永遠に存在し続けていくのだ。
 このことを間違えてはいけない。

 肉体は滅んでも「こころ」が永遠に存在するという事なのだから、死んで凡てのこころの束縛から離れることはできないし、自らが作った原因は必ず相応の結果を迎えるのであるから、反省できる心の状態を維持していない人は、まさしく「地獄」であろう

 死刑になって死にたいからといった動機殺人は、たとえその犯人が死んだとてずっとその思いはついて回るのである。
 次元の違うあの世のボディは原子肉体と異なり滅することはないから、生きてるときに首をはねられた人でも、あの世の肉体組織は何の傷もないのである。

 心の状態、心がどんなバイブレーションを発しているかによってあの世で住する世界が決まっていくのだ。

 所謂波動の世界が無数に存在していて、位置的に言えばこの地球上の地表に存在してる波長からはるか上空に存在している波長まであり、例えば釈尊や、イエスの住している世界ははるか上空であるだろうことが想像できるのだ。

 このことは地上界においても高いところは全体を見渡すことができるため多くの状況を観察できるが低いところは狭く小さな範囲でのみ判断することになるという事は自明であろう。

posted by 筆文字や隆庵 at 09:26| Comment(0) | 人生プロデュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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