人間は誰もが信仰しているのです。
信仰といえば、仏教であるとかクリスチャンであるとか、イスラムだったりユダヤだったりという話をよく聞きます。
大まかに信仰というと仏教といっても日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、禅宗での臨済宗とかあってお釈迦様が説かれた教えがいくつにも分かれておりなおかつ、それぞれの教えを特化した法華経を信じる者やら念仏を唱えれば救われる阿弥陀経とか・・・
キリスト教もまたパウロが開いた教会宗教、カソリックとプロテスタント等 はたまたその教えが分解されて多くの新興宗教が起こっている
これを信仰という定義でくくっています。
僕がいっている「信仰」は確かにこれらの宗教という名の形而上の存在も含めて、もっと幅広い観点で考えてみようというのです。
僕たちが生きていくということは「信」という概念がなければとても生きていくことはできません。
何かを信じるとは、朝 昼 夜というサイクルがあるという事と時間が進むという事から始まり、腹が減ったら食事をとらなければいけないという事、生きていくにはお金が必要だという事を信じている・・・という事はこれらを信仰しているという事になり、だから目標も明確に設定でき達成のための行動指針となりうるのです。
神仏を信じる、その神仏の代弁者となってるという教祖を信じる、この世はやはり金だと思ってその金を提供してくれる人を信じる
この信心は宗教と何ら変わりない心の動き。
新宗教によって金銭的被害を受けたりして困っているひとがいるとして今世間が騒いでいるけど同じように証券会社に投資している人の話と同じ心理状況という事を知らなければならない・・・
宗教団体を信じる、会社のトップを信じる、お金の効力を信じる、両親を信じる それらの信の優先順位を付けた時に信仰の対象というものが分かるでしょうね
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