2021年01月23日

事象に対する判断とは

昨今のコロナウィルスに関しての人々の判断は、まるで感染したら死ぬぞーと思わんばかりの報道によって必要以上に恐怖を思い行動自粛に走り、結果として著しい経済疲弊を起こしているような気がしてならないのです。
 本来人が事に直面した時にどのような基準にて判断するのかを考えると、まず事実に関しての確認をしそれが論理的科学的に見た場合にどう変化するのかを予想したうえで行動するもしくは行動しないとかいった判断を下すのが普通であるのですが、現在事の事実を知るべき環境はテレビをはじめとするマスコミ各社からの伝達しか私たちは情報を受ける手立てはありません。
 わずか数十センチ四方の画像や言葉伝達ですべてを理解することは無理なのではないか、そう思ったのはネットからの情報が一切テレビやそのテレビに出演している専門家から聞くことがないからです。
 例えば、主な報道は本日の感染者数、重症者数、死者数という具合ですが先ず疑問に思うことは、調査数と陽性者数の割合は過去と比べてどうなっているのか、そもそも感染者と陽性者の分類はどうなのか、検査のスペックはどのようなウィルスに反応するのかそのウィルスの量はどんな基準なのか、重症者の定義は何なのか、死者のプロフィル概要はどうなのか、実行再生産数の発表は一律になされているのか、又その意味に関して説明しているのか、ただやみくもに畏れさせるばかりでいいのか、緊急事態宣言のエビデンスは何なのか説明しているのか、PCR検査が必要とは言ってもあれは、陽性か陰性かを知るだけで治療法ではないということをなぜ言わないのか、政府の体たらくはもちろんですがマスコミの体質どうかならないものか・・・何か見えない圧力でもあるんだろうかと疑ってしまいます。
 正しい情報がないところに勝手に緊急事態宣言って変ですね


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2021年01月19日

男女の役割(夫婦の役割)

家庭の柱となるべき「夫婦」の不調和が世界の平和を乱しているなんて言えば、多くの「反発」をかい罵声を浴びせられることだろうが敢えて書く。
理想の国、理想の世界を築いていくことがどれほど重要であるかを考える時、現状の形を見るにつけ家庭環境の見直しを学び修正することが人間の正しい生き方になると確信している。「家庭教育」大切さはだれでも知っているが夫婦の在り方によることは、それほど重要視されていない。そこに、不登校、ニート、うつ病、仕事中毒、児童虐待や人格障害、崩壊する家庭の急増、これらの原因があるといっても過言ではない。
 そこで、夫婦の在り方について考えてみると、まず男女は結婚して夫婦となる。夫と妻は何をどのようにすることがそれぞれの役割なのかを自覚する。
 夫は家族の生活や幸せのために外に出て働く、妻は内にあって、家族に心のこもった栄養のバランスのとれた食事と安らぎの環境を与え家庭の幸せをつくる。この生活の様式が自然の法則に適っている。家庭の中心は親であり親が何をどのように考えるかによって家庭の在り方は変わる。
 子供が出来ると妻の役割から母親の役割へと変化していく、父親は子供のためにと益々外に出ての働きが活発になり家に帰るのも遅くなりがちな事態になる。
 意見のすれ違いや、お互いの社会に於けるストレスなどで夫婦の間で不満の葛藤が起きる頃ではあるがこの時こそ重要なのが結婚当初の夫婦愛を貫くことである、心は常に愛する夫であり妻であることを認識していれば平和な家庭となるのだが、夫の帰りが遅くなり、家で食事をとらない日々が増えてくると妻は文句を言い始める。子供を押し付けておいて自分だけ好きなことをしているとばかり、すっかり夫婦愛を忘れ子供を味方に父親をないがしろにする。「子は親の背中をみて育つ」といわれているように、夫婦の仲が悪くなると親のいう事を聞かなくなる。だから「子は親の教師」といわれるのである。子供が親に反抗したり、親のいうことを聞かなくなったら親は自分を省みて間違いに早く気づくことである。特に母親である女性は、子供に愚痴をこぼし父親の悪口を話すことがあったりと、いう事で子供に父親をないがしろにする意思を持たせてしまう。何気ない一言は将来に禍根を残すものである。
 妻は夫を立てる事であり父親の権威を守っていくことである、夫は妻に対して優しく接し家庭の共同経営者として尊重することである。
父親は子供に人生の目標意識、道徳、判断力、社交性等を教え母親は言葉、立ち居振る舞い、食事のしつけなどを教えることである。
焦らずに繰り返し繰り返ししつけすることが大事である。
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2021年01月16日

家庭が国家をつくる

 今の日本を考えると、「これはダメ」という出来事がもう何十年も続いているような気がします。
それでも、日本は必ず良くなります。一人一人がダメな今に気付き、こうすればよいと気づき、「このようにするとよい」と考え動き始めた時から、良い方向に進むのです。
 その源は「家庭」にある。孟子は「国の本は、家に在り、家の本は身にあり・・・」と、
現代社会の情勢を考えると様々な現象が私たちにたいして「それは間違っているよ」言っているように見えます。
 自然現象で言えば地震、竜巻にはじまり政界財界においては指導力不足、一般社会人においては足ることを忘れ去った欲望、自己さえ良ければといった自己中心主義、交通事故に疫病、自殺、殺人、うつ病など・・・これらの結果には必ず原因がある。
 社会のせいだとか、政治のせいだとか誰彼のせいだとかいって目を閉じるのではなく、この現実に、まず気づきましょう。

 現状を把握するといくつかの問題点は凡そ次のようなものであろうと推測できます
1. ものを深く考えなくなった。ことにより「判断力の欠如」がみられる、薄っぺらで表層的な意見に左右され物事の真実を追求する粘り強さがうしなわれていると思われる。
2. モノを大切に扱わなくなった。感謝の心が忘れられている
3. 自己中心の人が増えた。相関関係の欠如。

 これらの現象は一体どこから生じたのであろうか原因を探ってみると、私たちの暮らしの中に入りこんでいる「マスコミ」の存在が大きいのではないかという考えに行きつきます。
 マスコミという視聴覚拡大傾向は、特にテレビ、パソコン、スマホなど次から次へと情報を提供し考える余裕を与えないほどコマーシャルや番組、特にワイドショー等の影響は大である。
 情報はその真偽に疑わしいものも含めて無防備な人々の意識に入り込んできます。何気に見聞きしている無意識の領域に入りこんでしまうものであり、知らず知らずに「洗脳」されているわけです。
 学校教育においては、暗記主体、前例踏襲という意味も含めたテストが出来れば高学歴を手に入れることができ出世できるとばかりに「テクニック主体」の学習が主流となってきており、それらの結果として判断能力の欠如した「社会のリーダー」たちをたくさん生み出してきたのも事実であります。
 情操の何たるかを知らぬままに知識だけは一応身に着けていて、子供のころから試験勉強だけは出来るといったいびつな環境下にて育ったエリートもどきの排出そのものが現代の日本の体たらくなのではないかと思う次第であります。
 家庭に於いては反抗的な人を急増させるような教育をしているといっても過言ではない。たとえば親が子供を育てる過程で、親の意志を押し付け子供の才能を引き出そうとしない。子供は自分を理解してもらえない寂しい心を反抗することで訴えているが、親は気づかない。もしくは生来の素直さのあまりいつまでたっても親のいう事に従うような主体性を失っていく場合もあります。いずれも親が子供に与える影響によって生じるものです。
 ある政党の代表が「母が言っているから・・・」などとテレビで発言して失笑をかっていたことを思い出します。

子供は親のいうとおりにはしない、親のするとおりにする。

国の教育の在り方はこの70有余年の間に大きく変わってきてしまいました。何度読んでも納得する「教育勅語」「愛国心」「情操」などといったよきものを捨て去り、いわゆる「物質至上主義」を中心にした味もそっけもない「教育」が主となっていきました。
これを是正するのには100年近くかかるでしょう・・・是正しようと思っている人が増えることを期待します

国家100年の計は「教育」であることを肝に銘じたいものです。

 それには「家庭教育」が大切であり、その中心的な役割は「親」つまり「夫婦」の在り方が大きいと思う次第です。ジェンダーのひずみが家庭そのものの問題を生み出してきたと思う次第です。これは私の「思想」ではなく「普遍的な自然法則」なのです。








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2021年01月14日

家族・家庭生活における目標設定

 中国古典に「治国平天下」という言葉があります。天下の平和はまずは国の平和、国を治めることが大事であり国を治めるためには家庭・家を修める事「斉家」が必要であり、そのためには家という組織を成り立たせている個人が身を修めるという「修身」が必要なのでありますが、昨今の様々な風潮は個人の自由とばかりに家庭をないがしろにしているような考えが「マスコミ」によって、又間違った「教育」よってゆがめられているような気がしています。
 顕著な例は「男女差別撤退」といったジェンダー思想によって引き起こされている諸々の問題は、差別と役割の違いというものを混同している間違った情報を垂れ流すマスコミをはじめリベラル政治家たちの発言。結果的に家庭の破壊につながっていくことを傍観している識者たちの姿。
 男らしい、女らしいという言葉ですら「差別だ」というヒステリックな声に辟易しているのは私だけではあるまい。
いずれにしても、こういった一連の動きが不幸な未来を創っていくのである。と私は思うのです。
 家内安全、安心の環境を構成している原点は父母の調和、つまり夫婦の調和がその根源であることを認識しなければならないのです。

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2021年01月09日

目標設定分類・仕事編

 目標はただ漠然としたものではなく、具体的でなければいけないと前述しましたが、そのあり方については人生を構築とている様々なジャンル別に行うといいのです・・・というか私はそうしていますし、そうすることによって心の整理がしやすくなります。
 次のような項目に分類しました。
1. 仕事に関する目標設定・・・これには付随して経済問題が関わってきます。この分野においては当然お客様、取引先様、仕入先様、そして自らの事や社会的背景が大きく関与してくるので、適度な時に適宜に行為する約束事が存在します。
 したがって、綿密な計画性が求められるわけです。また、仕事への取り組み方というか心構えも重要な要素であります。
何のために自分がいるのか、就いている職業に対する倫理や本来の務めとは何か、それらのことを熟慮した結果私は。他人の喜びに寄与しているか貢献しているかを常に考えるようになっていきました。
 私自身が所属していた会社の問題点は究極は、この「他人の喜びに貢献する」といった創業当時の理念がいつの間にか自分のためになり、経営者のそうした知らず知らずの態度は社員たちに伝播し、社内の出世が目標になってしまった社員が増え、会社組織が出世しそこなった多くの社員たちの愚痴不満の場になってしまった結果として、業績に悪影響を及ぼしていったのです。
 よって、「心構え」の維持がいかに困難かをよく知っていた私は独立し現在に至るまで「感謝」の心を忘れないようにしているわけです。
仕事をするという事は、まず技術的なものを磨き育て上げなければその存在すら認められないわけですから常にお客に寄り添うという立場を取ります。
 あっ、それ以前にどのお客様のどんなニーズにこたえるのかということは前提としてあるわけですが、このことは承前として技術磨きに終始する年月があります。
 さて、ある程度認められたら次に維持という作業になりますが、ここでシステム化を図りルーティン化していくのが常になってしまいがちですが
実はここに落とし穴が待っているわけです。特に情報が氾濫している現代では常にイノベーションを図っていかなければ存在意義を失っていくことだと思わなければならないでしょう。
学ばなければならない事はこの時点では統計学、計数管理によるトレンドの予測力です。知らず知らず数値が特に客数、業種によっては取り扱い品目の現象傾向等なんですが、正しい情報が必要な時期なのにその情報が先述したように上層部に上がらなくなっていくケースがよくあるようですね。
 話がそれましたが目標設定は自分にとって必要な知識が何なのだろうかと日々考えておくことと勉強していくことが大切であるためスケジュールかしておきましょうという事です。





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2021年01月06日

人生の目標設定

 目標設定の基本となる事柄に関してまとめてみました
まず、自らの価値観を明確にします。自分が自分であるという意味づけを宣言します。

私自身の宣言はこのようなものです。
1 我は神の子であり善なるものであることを強く心に念じます。
 善に対しての悪という事は自分さえ良ければいいといった考えや行いのことをいうのですが、それはまだ本来の自分を十分に理解できてない部分が存在しているという事であって、まだ十分に神の生命を発揮させていない極めて消極的な状態であるという事なのです。
 また、我は神の子という事は、周りの存在すべてが神の子であるという事であって、それぞれもまた神の生命を発揮できていない消極的な状態であり、少なくとも善を実現していかなければ世の中の混乱は収まらないのであります。
2 具体的な目標を設定する。
 すべての環境の調和を目的とするのですが、具体的に設定しようと思えばやはり私たちを取り巻く様々な分野に対して行った方が分かりやすいと考えます。前回のブログにて表現している6分野が適当でしょう

3 年間、月間目標という風に期間をきって設定します。目的を達成するためには目標を期間ごとに分け、進捗を分かりやすくしておくことが大事です。このことを手帳やスケジュール表に記しておきます。常に現状と目標の差異を認識しておくことを心掛けましょう。

4 日々の計画に落とし込みます。日記やカレンダーの有効な活用が便利です。

 人生設計の定義
自らが自らの人生の当事者なのですから、いかにして豊かな人生をおくるかという設計者である必要があります。海図なしに航海する船は難破船になる可能性があるのと同じく、設計図なくしてビル建設は出来ません。
 したがって、様々な要素がどのように組み合わさっているのかを知り明確な手順を企画し実践していきます。前述したスケジュールを片手に反省、修正、新たなるアイディア、など駆使し前進していくことを私は「人生航路」と呼んでいます。

 考え方・心構え
まず、思うこと。思うことは物の始まりです。思うことは自由であります。思うことは同じ思いに通じます。思うことは実践と同じです。思うことは動作になって表れます。思うことは態度になって表れます。
 さて、今思っていることは他人の役に立っているであろうか、つねに良いことだけを思っているだろうかといった物差しで目標設定をするのです。

 続く
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たんぽぽの絵


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2021年01月05日

私の経営論として

 以前のブログに「チェーン理論」からの脱却といったような主旨の文を記したと思います。それらの中の記述に「確信めいたもの」とか「自分の体験から、成功が失敗の原因」だとか述べさせていただいています。
 そこで、私がどう結論付けていったかを書かなければならないという事で以下記すこととします。
仕事に夢中に取り組み、会社員として成果を上げるべく全社挙げての学習の糧を海外に求め、特に米国の経営理論の学習と実践による理論検証の積み重ねに邁進していました。
 その当時の経営理論の骨子は米国軍隊の組織と運用がそのモデルとなっていたと教えられていました。もともとが移民国家であった国でしたから当然言葉も生活習慣等異なる兵士によって組織されるわけです。細かなマニュアルや意思疎通のための絵や記号 指揮命令系統の明確化、 それぞれに細やかなルールが必要だったのは理解できます。
 という背景から生じてきた米国式合理主義を基本とした人の教育や考課、人員の配置やオペレーションの仕組みなどが構築されていったのです。
チェーンストアを学ぶ私たちが先ず最初に学習したのが「用語の統一」のための言葉の理解でした。事細かに定められていた各種の用語は従来の日本的経営にあらわされていた大まかさとは異なり、意味そのものの捉え方などが701用語集といった一種の単語帳か゛「チェーストア用語辞典」として教育の柱であったのです。
 企業目標である利益高を確保するためには当然、物質至上主義による「業績優先主義」でありますから、人はその業績を創るための材料であるかの如き存在になります。「人件費」「人材」という言葉がそれを表しています。根本的には米国におけるエリートと非エリートの格差を認めている事なのか、チェーン用語ではスペシャリスト、マネージャー、ワーカーなどと明確に区別した用語があったわけです。
 これらの主義が許されるのが当然の国ですから、根本的に日本の文化や風土、風俗にはなじみません。
21世紀の現代でも残っている根強い差別主義というのがかの国のみならず白人国家には見られます。誤解を承知で記しているのですが人種と宗教の違いを越えて企業経営をするならば、するとしたら「チェーン理論」はすぐれているといえるでしょう。
 こうした中単なる「経営手法」として我が国の企業はこの理論を取り上げたのです。
 私は、これらの実態に納得いかずもっと違った理論が存在していないものかと数々の書物を手にとっては自己学習に励んだものでした。
一方従来の「水商売的繁盛店」はどうだったのでしょう、そこには高邁な理論というものは存在せず創業者の個性、カリスマ性によってのみその存在基盤があったように思います。企業ではなく家業としてならそれもいいでしょうが多くの従業員に対するキャリアプランなどはなく当たり前ですが短期の目標に終始していたようです。これでは日々生きるだけの人生に甘んじることになりはしないか休みもなく働いて糧を得ることを否定できませんが・・・
 問題はそもそも人生とは一体なんだ、どんな意味があるのかを探していったのです。人生の中の一部分として仕事があり経営理論があるとしたら人生の経営理論があるのではないかと考えたのです。
 そのころに書店で出会ったのが、厚木の有隣堂でしたが自己啓発をテーマに探していった結果「積極的考えの力」ノーマン・ビンセントピール著 「成功哲学」ナポレオン・ヒル著 そしてホールJマイヤーのSMIプログラムでした。いわゆる「クリスチャンニューソート」といわれていた思想、哲学の書でありました。
 そこに書かれていたアイデアのポイントとしては、偏った生活の否定でありトータルの幸福追求が人生であるという事。人格の向上を目的とせよといった内容でした。
具体的には以下の6項目の充実を図れという事でした。
 1. 仕事と経済に関すること・・・自らのお客様を設定しそのお客様の利益になることを提供し自らの収入とすること
 2. 家族と家庭に関すること・・・家族を愛すること、家族の幸福を実現すること
 3. 教養と教育に関すること・・・自己実現のためのスキルを身に着けること、同時に学習できる基礎知識を習得すること
 4. 健康と身体に関すること・・・常に健康であること 
 5. 社会と文化面に関すること・・地域社会への貢献
 6. 精神と倫理面に関すること・・宗教や哲学の学習で人としての生き方を考える
以上のことはそっくり会社経営にあてはまるではないですか、と当時驚いたものでした
 これらを実現するための手段として様々な目標と行動があるのです。

 人格の向上が会社の存在意義になるとしたら利益はおのずと手に入るのだといえるのではないでしょうか。






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2021年01月04日

仕事を哲学するという事

 本年の2月後半からNHK大河ドラマは「渋沢栄一」であり、彼の半生を描く物語であります。
書店に行きますと彼の記した「論語と算盤」なる書物が並んでいますね。
 これらを読みひも解くと急成長していった戦後における各企業の持つ哲学が「論語と算盤」に書かれてある哲学と実際どのような違いがあったか又共通点があった場合どうあったかを比較してみるのも面白いのではないでしょうか。

 こんなくだりがありました

ちょっと調子がいいとすぐに我境遇を忘れて分量不相応の考えをだし、また、ある困難に遭遇すると我が位地を失くしてうち折れてしまう
即ち幸いに驕り、災いに哀しむのが 凡庸人の常である

・・・・・物事の一喜一憂に苦慮し大局を見失っている不幸な考えである

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2021年01月03日

再び藤原先生から拝借

 承前
 文科省が決めた体系的な教育といった詰め込み式の学問から学ぶ材料より大衆小説の中のたった一行の言葉が人生に大きなヒントを与えてくれることもあるのです。
 一片の詩によって人生を見直す人もいるように、物語の主人公のセリフに人生の縮図を見ることもあります。
いずれにしても
 歴史や文明や文化に関する本を読むことで大局的に物事を見ることが出来るような人になるというのです。

一方で論理的に物事を観察し、より正確な判断力を養ってくれたり正しい情報の背景を推測できる人になるにも多くの体験が必要でありますが、わずかの人生の時間では体験できそうもない事柄も多々あります。
 読書によって学ぶという事はその体験をするという事なのです。


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言葉を練習している「文字デザイナー」
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2021年01月01日

年頭に読書に関する考察

 新年を迎え、愛読している藤原正彦氏の文から拝借する。我が国は70数年前の大東亜戦争によって大きく国の成り立ち、形が変えられてしまったように感じます。
 歴史を鑑みるとき、いつも国の方向を決めてきたのは学問でありその学問を習得しによって人々を導いていった「教養層」という人たちでした。
特に「国は富んでこそ国家なり」といった明治の思考回路は経済界において「渋沢栄一」という稀有な人物の登場があり一方で「岩崎弥太郎」をはぐくみ、論壇に於いての「福沢諭吉」を明治の時代というステージに載せたのであります。
 さて、昭和の敗戦体験はいかなる教養人を輩出させたのでありましょうか。
それは、1945年から970年の間に大学を卒業した人々です。
 彼らは、80年代のバブルをこしらえ、破裂させその後の米国の要望どうりに新自由主義をがむしゃらに推し進め20年以上に亘るデフレ不況へと国をミスリードしてきた年代の人たちです。
 こうして戦後の教養層はたかが経済のために かつての日本にあった穏やかな社会や人々の思いやりや絆をずたずたにし国柄ともいえる諸々の情緒や形、様式の中にある美しさなどを徹底的に傷めつけてしまいました。
 戦前における教養層において戦中戦後を眺めてみるとそこには旧制高校的な西洋生まれの哲学や文学に傾いた教養というものの本質が明らかになってきます。
それは文明開化以来の西洋への劣等感に根差した西洋への憧憬、さらに言えば西洋文化への跪拝に過ぎなかったのではないかという事です。日本古来の形すなわち古神道であり武士道精神であり儒教精神、惻隠やもののあはれなどの情緒を忘れたこれまでの教養は、脳の先っぽにしか存在しない実体感も生活感もないものだったといわざるを得ません。これらの借り物の教養(西洋的な)は薄っぺらい根無し草のようなもので国難(困難)にあたって何の力も発揮できないひ弱な存在だったのです。

現代の日本を見渡してみるとこうしたひ弱なエリートもどきたちが引き起こしている現象はあらゆる場面に見ることが出来ます。
日本人としての形を忘れた葛藤無き教養人は戦後のGHQ史観に流され左翼思想に流され、今や新自由主義やグローバリズムに流されています。・・・・コロナ禍はまさしくグローバリズムの落とし穴でもあり人類に対する警告かもしれません
ひ弱なエリートもどきの特徴は「上滑り・虚偽・軽薄・国家意識の欠如」などであり戦後の学問もどきに翻弄された哀れな人達であろうと思う次第であります。
 これらの人々のモデルを探そうと思わなくとも日々マスコミに登場している人々を見ると一目瞭然であります。体系化され中半押し付けられている暗記、前例等を教育と勘違いしている輩が活動しているあらゆる業界を知ればよかろう。
 義理人情や、忠義・名誉・欲望・勇気・惻隠・赤心・正義・愛と慈悲などを表現している大衆文学の方がよほど教育に役立つと思う次第です。
 舶来の教養もどきを葛藤もなく身に着けた世代は日本という根がないため、自分たちの獲得したものが西洋思想に発した借り物であることに気付かずその危うさに気づきもしませんでした。結果として世界の中の日本としての立ち位置が不明のままであるから日々発生する社会現象に対して大局的に見ることが出来なくなってしまうのです。
 教養とは知識の積み重ねなんかではなく、原因結果を表している歴史から学び未来をの原因を創っていくことのできる力を持っていなくてはならないのです。
 現状は政治家は次の選挙で勝つこと、官僚は自らの省庁の権益を拡大すること、財界人は企業の利益のためにという情けない価値基準を第一義としてるように見えます。
 多くの人が「自分さえ良ければいい」といった大自然の法則に反しているということである。
 自然はすべてお互いさまで成り立っていることを知ることが重要なポイントです。

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2020年12月27日

今年も終わります

 ビジネス主体の生き方から、日々の暮らしの中での生き方のスタイルとは何か等考えさせられた一年だったように思います。
従来では考えられない病の蔓延に行動の束縛が強いられ、毎日が感染者の増加の報道で始まるという異常事態の到来。さらに政府批判に終始し何ら解決案を提出しない特定野党の面々、政府にしても優柔不断な体たらくぶり、テレビに至っては思いっきり恐怖をあおるのみ、専門家と称する方たちの不勉強ぶりの露呈、物事を判断するために必要な情報の偏りなど一体この国はどうしたんだろう。国際状況が一変し過去の50年とは比べ物にならないぐらいの激動の時代だというのに。
 自分の次の選挙のことしか考えていない政治家、引退後の天下り先のことしか考えていない官僚諸氏、経済界はすでに創業期の社長もリーダーもいないサラリーマン社長の事なかれ主義集団になってしまっており社会の公器としての高邁な理念などなくなっておりただ利益のためだけに存在しているという情けない姿に落ちぶれている。
 自宅にいるという事はこんな状況のニュースばかりに触れるという事なのだ。

2020年12月現在コロナ感染者報道が白 
熱している。わずか数十センチ四方のテレビモニターから得られる情報でのみ生活の判断としてい人たちにとって、その真偽に関して判断できない。嘘を信じてしまう恐れがあるわけです。
ワイドショーに一度出演された専門家先生もその発言次第で、テレビ局の意図に反しているとされたら次回からは出演なし。今でもコロナが日本人にとって他国ほどではなく大騒ぎし過ぎなどと発言した段階で没。正しい情報を聴きたい私たちにとっては比較も出来ない環境であることに一種の恐怖を覚えるのは小生だけであろうか、共産主義国家ではあるまいし、経済環境迄責任とれないワイドショーの報道ぶり、当てが外れたらその後は報道しない自由とばかり知らん顔をする。

 まあ腹が立つばかりの一年だったように思います。

個人的には、相変わらず文字デザインと料理イラストレーションの仕事は途切れることなく、多くのお客様に感謝いたしますとともに来年以降もよろしくお願いする次第です。
仕事に限らず小生の理念 明るく楽しく生きるそしてより多くの人々のお役に立とう という自分との「約束事」を何とか守れたように思うのですが次年度はそのレベルをもっと高めていこうと思っています。
 病気に関しては二度の入院が心身ともに疲れを癒す時期だったように思います。友人たちとの思い出話や会食も人生の一コマとして楽しんだ次第です。


 お世話になった皆様に心よりお礼を申し上げます。来る年もよろしくお願い致します。
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2020年12月16日

マーケティングと勘定科目

 おおよそ、あらゆる消費活動に於いて経理的感覚はついて回ります。
つまり、お金を支払うという行為は何らかの勘定科目として分類されるのが基本となります。それぞれの金額は何のために支払うのかという観点から適宜配分され各組織に於いて予算化されていくわけですし、個人の家庭においても同様に予算計画化されているわけです。
 マーケティングを考える時これらの勘定科目を考え自らが実行していく事業の売上はどの組織のどの予算勘定から導き出されるのかを考えなければならないのです。
 例えば、食品の販売会社であれば納入先にとっては原材料調達となるわけですから原価という事になり、個人の家庭ならば食費となるわけです。この食品会社の事業コンセプトによりますが食べ物を扱っているという点で原価にもなり食費にもなりまたは、娯楽費、接待費その接待費も様々な種類に分けられるのです。
 件の店、小生が営業マンしていた店ですが、この考え方で分類すると大まかにいって接待に使われる店でした、バブル期以前の料亭が主戦場であった当時の接待需要をリーズナブルな価格にて進出していったために急激な成長を遂げていきバブル期に開花していきます。
市場規模から考えて地方の100万都市に2から3店舗程度は成り立ったのでしょう。
 この店の場合のお客様は企業でして、毎年ひの企業の接待予算のシェアをどれくらい獲得できるかが売上を決める要素となります。したがって小生の日々の仕事はお得意さま巡り、法人営業が主でした。
日商100万円の陰りが見えだすのはもう少し後ですがいわゆる「バブル崩壊」を機に一気に業績悪化の道をたどっていきます。
 成功の要因が失敗の要因 ・・・この典型的な姿を知ることになります。

次回はチェーンと繁盛店の人的レベル比較を記してみたいと思っています。
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飯塚にある嘉穂劇場、昔は炭鉱従事者むの憩いの場であり日々の暮らしに彩を与えてくれました。





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2020年12月14日

業態の成り立ちについて

 今となってはもう過去の遺物の様に扱われている電話帳には職種別の番号を主体として掲載されていました、例えば
飲食店という業種として 西洋料理店、中華料理店、寿司、和食、居酒屋、パブ、キャバレー云々といった風に分かれて書かれていました。しかしこのことは単に分類のために必要であって経営という観点からはあまり意味のないことであると思います。同じ時代のころ昭和40年代に於いての飲食業の売上高ベストテンの常に上位だったのは「日本食堂」が常連のころです。まだまだ飲食業という仕事が零細であり家業としてその存在が認められていたに過ぎないころです。
 そうですね、その当時はスーパーが発展の兆しを見せ始めた頃でいわゆる「チェーン」の到来があり、飲食業では先ずは「マクドナルド」の登場によって活性化が図られる頃だったように思います。
 ハイカラないでたちの店舗デザイン、ハンバーガーといった一見おしゃれな食べ物が銀座に出現し、あこがれの「アメリカ」を垣間見たカルチャーショックはマスコミ、経済誌をにぎわせるようになっていきました。
 レストランチェーンは関東の片田舎の食品スーパ―からの転身「すかいらーく」九州は博多の小さなレストラン、ベーカリー、アイスクリームを販売していた「ロイヤル」が「万博」の大成功によって本格的なチェーン化に乗り出した。この2強が各地で競合していきました。加えて流通業であるイトーヨーカ堂系列の「デニーズ」この3社を御三家と呼んでいました。
 また、ビジネス計数のモデルとしての損益勘定を鑑みその利益率の高さから多くの既存企業が進出していきます。いわゆる「外食産業の幕開け」です。
 新しい市場を見つけたとばかり証券会社も上場を希望する企業を応援していきます。当然どっかで頭打ちになるのですがいずれにしてもこの業界が自動車産業の売上とならぶところまで来たのは日本人の「ライフスタイルの変革」に貢献したのは紛れもない事実であり、重厚長大の産業基盤が変化していったのもこのころの特徴でした。
 今まで、外食という消費活動があくまでも「よそいき、非日常、特別なイベント」であった行為が、リーズナブルでありながらも店舗もサービスも心地よい時間を提供してくれているこれらの「外食の日常」に慣れていきます。お客の成熟化が進んでいくわけです。
そこで、企業同士の戦いが本格化していくわけなんです。
 旨いものを安く・・・どこよりも・・という敵をターゲットする改革という名の小手先の戦略戦術の連続です、価格競争の本格化もこの時にはじまります。こう考えると、風靡してきた業態という名の経営スタンスが競争の在り方次第では何の意味もなく互いに「同質化」していき立地以外に差別化が出来なくなっていきます。
 競争相手と比較していき同じ土俵で戦うのか別の切り口で勝負するのか・・・転換が求められることになります。
そもそも、一体何屋なのか、何をもって世の中の役に立っているのか、人生そのものを考えなければならない時を迎えていくのです。

 業態そのものはは戦略の中心になれるのか・・・
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 小生36歳のころの悩みその⒈

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2020年12月06日

忘年会の主役


 師走の街並み、例年だと忘年会シーズンで繁華街の夜は大賑わいなんですが今年はコロナ禍によって閑古鳥
この時期は毎年飲食店の売上のアップが計られ従業員のボーナス資金となるんですが、それがままならぬ環境となっています。感染恐怖をあおるマスコミの各位は一体何が目的なのか知りませんが、インフルエンザの感染者数などの発表はない。
物事の判断基準は何かと比べるといった作業をしないとわからないはずなんですがそれをしないという事は基準が不明という事になります。
言葉の定義なしにただ発表すればいいというわけではなく、感染者のプロフィル、年代やそもそもの疾患の有無、感染経路など発表できる中で報道しないという事は何らかの恣意が働いていると思われても仕方ないではないでしょうか、厚生省からは今年のインフルエンザは昨年対比600分の1らしいではないか、ましてや死亡率からみてコロナとインフルの差はどうなっているのか、正しく判断できる情報が必要だと思うのですがね・・・

本日のスケッチは魚たち・・・例年だと忘年会の卓にのぼるはずでした

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2020年12月04日

繁盛店への道

全館4階、建坪80坪 席数400(宴会場、個室あり)の日本料理店での仕事は総合管理支配人としての立ち位置で日々の営業を行っていました。
経営者は調理師であり、仕入れの目利きは正しく、おいしいものは材料、素材の段階で決まっていくといった信条の持ち主でありました。
まあ、職人としては当たり前なんですけど経営に対する情熱は並外れた才能とでもいうべき資質を持っていたと思います。

 独立当初は30坪程度の小さな店舗だったんですが繁盛していくうちに新たなるチャレンジ魂に火が付き、「情熱が人を動かす」とばかりに金融から建物の取得から、改装のデザインから何かにつけ一流とよばれる方たちを味方につけ冒頭の規模の料理店を出店させたわけです。
仔細はともかく、この店が月商1億を稼ぎ出していくわけですからバブルのころとはいえすさまじいものでした。客単価1万円で一日当りの来客数3百名、日商300万円超が一年続くのですから毎日が目の回るような忙しさでありました。

こうした中で、チェーンストアしか学んでいなかった私にとってどんな仕事をしたのでしょう。以前さんざっばら批判してきた水商売そのものの環境が繰り広げられる毎日ではあったものの実はそこに、外食業界の将来を見たようなそんな気がしたのも事実です。
バブル期の接待のために使われることが多かったためか予算は現在のような節約はありません、会社の予算があらかじめ定められているので料理内容はともかく全部でいくらいくらで頼む・・といった注文の仕方が多かったような感じです。

私の仕事はともかく個室を予約で埋める事と宴会予約を取ることが第一優先でした。
 したがって日中はあちこちの会合に出かけては名刺を配り頂き、お店の紹介をし来店のおすすめをするのです。夜はお店に立ち昼間にお会いしたお客のお迎えをするのです。
 店の各個室は贅を尽くし立派なお部屋は料亭並みかそれ以上の造りにしてますから(有名な建築士やデザイナーによるあつらえ)接待客は満足してくれますし、価格帯も料亭より安価ですしとても重宝されていたのです。3万〜5万で接待してきたお客様にとって当店はリーズナブルだったように思います。
 チェーンストアでの客単価とは別の世界がそこにはあったのです。
売上が上がるという事は、人件費は高く設定できるし宣伝費も使えます。益々の好循環を支えていくのが売上なんだなあと当時思ったものです。
 いい店、良い料理、良い評判、贅沢な気持ちを良い料金でが、当時の思いでした。お客は商談に、社内のモチベーションを上げるための飲み会に、夜の女性(2次会に行くお店)にこの店をつかえるんだというステータスシンボルになっていったのです。
 今となっては懐かしいんですが官公庁や地元の有力企業、新進気鋭の経営者、スポーツ選手、マスコミに登場する俳優、女優などもお客でした。○○にいったよ・・・・というのが自慢話になるのでしょうねとにもかくにも日々の集客力はすさまじく、やがて2店舗目を出店することになります。
 一店舗であふれていくお客の受け入れ先をつくるというのが第一で且つ別の客層を取り入れるという目的でもあったのです。したがって一点目の敷居を少し下げたアメニティを表現していこうと企画した店舗であります。

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 復活が待たれる肥後の名城「熊本城」県民の誇りです
 今日のスケッチです。

 隆庵 




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2020年12月03日

マーケティングポジションという話

 居酒屋の卒業生といった位置づけのお客様がいます。バラエティな品揃えと比較的安価な価格設定で繁盛してきた店がお客様の体験数が増えることによって、現状を物足りなく思うようになってきます。
 そうですね、客単価が2500円〜3000円程度のなんでもありのお店って特徴のない感じがしますか安心はありますが利用頻度が落ちてもうまいものが食べたくなるし美味しい酒も飲んでみたいな、といったニーズが発生していくのは世の常なのです。

 そんなニーズを満たしてくれるのが専門性のある商品を核にしたお酒も飲めるお店の出現だったのです。・・・とはいっても昔から存在していたのですが、例えば焼き鳥やとかおでん屋とか、寿司や、焼き肉などの専門店がそうであったのですがこれらの店は「男性客」の専売特許みたいになっていて 若者や女性にとって決して快適な空間、快適な店ではなかったのでしょう。
 居酒屋チェーンの出現によって若年層や社会進出を果たしていった女性客の潜在的欲求を満たされた客層がついに男性客主体の「旧居酒屋」になだれ込んでいくわけです。
 1980年代に流行った「トレンディドラマ」に端を発した女性の活躍ぶりに美味しいお酒や、ワインの飲み方に詳しくなっていく過程から従来の「旧居酒屋」という業種が 女性客を意識したおしゃれな空間と接客レベルの向上などの努力によって繁盛業態になっていくわけです。

 他方では価格戦略を主体とするバラエティ居酒屋もまた新たな新入生を受け入れそれはそれなりに受け入れる空間づくり、居酒屋デビューの若者たちのニーズを受け入れていくわけで棲み分けを図っていくわけです。

 適正規模適正客数、という考え方がだんだんと主流になってきはじめ超繁盛店といった店づくりに陰りが見え始めます。

 そのころ小生は一店舗で一日当り400万の売上を記録していたある料理屋の支配人をしていたのですが・・・その話はまた

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今日の夕食の

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2020年11月30日

業種・業態・・・別の切り口

レストランチェーン、居酒屋チェーンが全国各地に出現したように一方では低価格路線を突き進んでいくファストフーズ一団の存在がクローズアップされていく。
ある意味において消費者にとっての利便性を徹底的に追求していった形づくり、むしろ物販店の様相を模した業態であろうと考えられます。
 テーブルサービスが余儀なくされているレストランや居酒屋とははっきりと区分けされ最小限のマナーと接客態度を死守し商品力を第一義に考えられたスタイルを確立していったのです。
 当然商品は単品にならざるを得ないのですが、単品なるが故の研究を徹底し食材の開発にはじまるマーチャンダイジングは煩雑なレストラン、居酒屋と異なり効率の高いものとなっていったのです。しかしながら、成功の原因である「単品力の向上」は一方において企業間の模倣の繰り返しによって同質化現象を引き起こしていくのはチェーンレストラン等と同様の結果を招いていき、結果として立地以外の差別化が出来にくくなっていきます。
 さて、立地に関しての論点は人々のライフスタイルの在り方、その変遷や働く環境の変化、産業構造の変化などの外的な様相とそれに伴う交通網の変化によって立地の特性は大きく変動していくものだという事をまず考えなければなりません。
 ライフスタイルに関しては私たちの生活環境がどのように変わっていったかをみなければなりません。それには大きく産業構造の変革に起因しており、その変革に付随して様々な要因が派生していきます。モノが不足していた時代からモノ余りの時代といわれている昨今の様相を考えると一律一様なニーズというものはもはや存在してません。一部コモディティ商品は便利さと価格がポイントなんでしょうが 自らのライフスタイルと照合しながらのモノに対してのニーズは多様であります。

 食に関して立地との相関関係を考えてみる時、特筆すべき環境はまずはランチ時間でしょう。お昼に何をどう食べようかとしたときに多くの人々がその時間帯にどこに位置しているか地理的環境が先ずあります、地理的環境とは即ち「どこで食べようか」といった決断をしなければなりませんね その時のシチュエーションに関係するのが「誰と」なのか「一人で」なのか、その誰かとはどういう関係性を持っている「誰か」によっても決断の基準は変わっていきます。次にこのシチュエーションの場合に「何を」食べるのかという判断が必要ですね、じゃあ予算は、支払いの方法は等、また誰かとという時に何人なのかという観点も考慮すべき点ですね・・さように昼の食事一つにもこれだけ判断しなければならないのです・・・描いてみると結構な作業のようですがこれらのことを一瞬の時間で判断するわけです。その判断する時間帯にどこにいるのかどの立地が良いのかを前もって仕掛けておくのがお店の作戦であり、お店のレゾンデートルの在り方を決定する要素です。
 この思考はお店を出す時に欠かせない出店者の仕事なのですが、どういった使われ方をしてほしいかを明確にしているお店って意外と少ないもんです。
 いずれにしても立地と商品、価格、店舗の規模・・
様々な要素が絡み合った中でお客様の選択肢の中に存在することが大事なのは当然であります。判断すべきあなたにとっての店選びの優先順位は何ですか?
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 急にたべたくなるとき、ショッピングセンター便利ですね



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2020年11月24日

居酒屋の話

居酒屋は元々江戸時代の酒屋が付加価値サービスとして一杯ずつ酒を提供するという事から始まったといわれています。江戸は中心的大都市だったせいか地方から次男や三男が職を求めて集まってきたともいわれており極端に独身男子が多かったのだという事で、遊郭や飲み屋などの発展がなされたのではないのかと思われるのです。
 さて、その居酒屋(飲み屋ばかりでなく蕎麦屋、うどんや、屋台なども)なるものが、爾来時代劇などでもよく登場するように庶民の間でその業態が確立されていきます。
 当然のことながら小規模の店舗が主流であり生業として存在し、次に家業となっていくのだと考えられています。さて、時は流れ近代へと進んでいくのですが、ごく最近まで、というか昭和の時代には人々の集まる個所としての駅前食堂などがその役割を担っていたと考えられます。
その形態としては親父さんが料理長、奥さんが接客サービスが典型的なスタイルであり、文字どおり駅前に集まる働くおやじの為の癒しのスペースとして存在していたのであります。
 小さなスペースでの営業は一度にたくさんのお客に対応することは困難であり大人数の対応は、○○会館とか料理旅館、料亭などが対応施設だったのでしょう、今でもその名残が地方の町には存在しています。
 いずれも低生産性であり会社とは名ばかりのものでしたが現在は地方の町には成功していった駅前食堂の形もあったのです。おおむね三つの顔を持つ店がその形です。
 一般の定食屋兼居酒屋、そして宴会場併設、場合によっては個室対応の食堂などを有する店がその典型です。計数管理不在の前近代的な店舗経営が中心です。
そうした中1970年代のチェーン化レストランの台頭から若干遅れながらも企業化を目指す居酒屋群が現出してきます、「つぼ八」「天狗」「養老の滝」洋風では「ビヤホール・ライオン」などが多店化していきます。
 チェーンレストラン群からの脱皮組として居酒屋業態への挑戦も一部では見られますがこれは競争激化のファミリーレストラン群でのサバイバル戦略として位置付けられたものです。具体的には関西地区のフレンドリーグループや関東の西武系、ジャスコ系、ダイエー系等などが顕著な例でした食堂という業種から、ファミリーレストランという業態は、さらにディナーレストラン、カジュアルレストランといった様々な業態を生み出していきます。
 模倣と競争の繰り返しが各社とも同質化現象を引き起こし、「消費者不在」のビジネスゲームが繰り広げられていったのです。
小生がレストランチェーンのスーパーバイザーをしていたころに少なくない同僚が各居酒屋チェーにスカウトされていきました。
主な居酒屋企業としては「和民」「魚民」「モンテローザグループ」といったナショナルチェーン、地方のチェーンなど多くの居酒屋チェーンが活躍していました。
 しかし、模倣による同質化現象は価格競争を余儀なくされ、計数管理主体の管理に限界を感じ始めていったのです。



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2020年11月18日

予算と実績

 承前
店舗運営にて得た利益の貢献度に応じて「インセンティブ」として毎月の給与に加算されるといった制度が設定されるに至ったらいよいよ短期決算といった目前の計数、利益高に目を奪われがちになるのは当然の理でありました。目先の利益を追求するあまりに原価や人件費を究極に押さえることで利益を生む、本来修理の必要な箇所も見過ごす、電球がきれていても補てんしないなど店はだんだんと荒れていきます。一〜二年程度はなんとか乗り越えられてももともと無理な仕事をしているのですからおのずとじり貧になっていきます。
 確かに年次予算も月次予算も達成していくことは資金繰り勘定上大切な事柄であることを否定するものではありません。ありませんが、そのために将来へ向かっていく経営の在り方にぶれが生じていきがちなのも一方では危機でありましょう。
 要点はここです、計数の動きには実はお客様の意識の変化や競合の存在などに左右される要素が大きいのです。目先の数字にとらわれるあまりそこに顧客視点という最も大切な仕事がだんだんとないがしろにされてきたのでしょうね雨後の筍の如く出現したチェーンレストランの多くが苦戦をしはじめ撤退を余儀なくされるといった現象が先ず関東からはじまり、次に関西、そして全国的に脱ファミリーレストランといった動きが顕著になってきます。
 肌で感じた事柄といえば以前は圧倒的な集客力を持っていた「盆」「正月」「ゴールデンウィーク」の期間が押しなべて客数減に見舞われてきていたという事、関東での現象が翌年には関西へとうつり次に地方へとその現象が起きていきました。
 企業が内部の計数管理最優先の働き方を徹底していった結果として、「顧客の存在」に疎くなり顧客をデータとしてしか見られなくなっていったのです。また、多くの店舗が出現していった結果としてどこも同じような商品であり、同じようなサービス、同じような店舗デザインとなっていきました。
 つまりは、効率を徹底的に追求していくと同質の店舗が氾濫するのは自明の理であります。
かつて「米国」に学び、少なからずの日本人の「食生活」に豊かさを提供し、手軽な「ハレの場」を演出していたチェーンの限界を知ることになるのです。多くの店舗が小さな幸せを味わっているという事はとりもなおさず当時の「顧客・・お客様」も豊かな外食という行為をリーズナブルに体験できる機会を数多く体験したという事であります。そこにも「成功の理由が失敗の理由になる」要素が隠されていたのです。

 次に現われてきた現象が「居酒屋チェーンの台頭」であります・・・・・


次回へ続きますIMG_0411.JPG


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2020年11月09日

行動指針としての計数管理

 小生が勤務していたチェーンレストランには当時「週間損益計算書」なるものが存在しておりねマネジメント活動の指針として活用していました。従来は月次で実施されていたものが週次になったわけで作業そのものの内容は変わりませんが、何しろ7日間の実績を常に追いかけていかなければならずそれゆえに一時たりとも無駄な時間はないのです。
 月に一度の棚卸が毎週あるわけですから材料の検数もあわただしいものでした。
又、食堂業の特徴の一つに仕込段階というものがあるので、原材料の形状ごとに検数しなければなりません。
 材料が店舗に入荷される時点での形から、開封して仕訳した時点での形、さらに一次加工した形(切り出したものなど)二次加工した形(加熱や人数分に振り分けた形)最終仕上げのための保存、スタンバイの形など一つの材料がいくつもの顔を持つという事です。なおかつ形ごとに材料の価格は、つまり原価は変わっていくわけです。
 さて、棚卸は毎週の締日が日曜日でした。通常土曜と日曜の2日間で週販の50%ほど稼いでましたので最後の日曜日閉店時には(24時間営業店舗ではレジシメ時間に)在庫も少なくなっており、比較的楽に棚卸が出来るであろうとのことでその日が当てられていたのですが、人は疲れているもんだといった配慮はなかったように感じます。
 日曜日に検数した材料の金額計算、その他パートの人件費、諸々の消耗品費などを帳票に書き込む作業が月曜日。その結果を元に地区マネージャー主催の地区会議が火曜日、店長は地区マネージャーからさんざん問題解決のための指導を受けますが、地区マネージャーは水曜日に担当店舗の集計を元にその上の地区(リージョンで4名の地区マネージャーが5店舗から7店舗くらいの担当店舗)にて20店舗分の集計、同じく問題発見と解決に関しての指導を受けるわけで、さらに木曜日までに問題解決の方針が各店に通知され、店長はそれを元に毎週金曜日につくる勤務シフトに反映させるわけです、土日は営業に専念。とこのように一週間を過ごしていきます。いきつくひまがないとはこのことでしょう。
 地区マネージャーはオペレーションに問題がある店舗に張り付いてチェックするのが土日の仕事なんですがほとんどヘルプみたいなものであり不足しているシフトに入ったりと、まあ休みなどとれませんよ。

 私自身地区の仕事をしたときなど日付がかわってから帰宅するというのが普通で、大体午前11時頃から夜中の2時までが勤務時間のようなものでした。と、今となっては笑い話ですが・・
 産業化を目指し「上場」するぞと粋がっていた企業の現実の姿。こんなものだったのです・・・今もあまり変わりませんけど

 客単価の低い業態では大量の製造がないといけない、ならば何が出来るのでしょうか、高単価の仕事もしくは生産工程で人事生産性をいかに上げていくかが大きな課題として目の前に顕れてきたのです。 
 続く・・・・
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甘いものを食する倖せ 今日の挿絵


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