2016年01月06日

年頭所感

 ふる里思うとき、いつの時代からセピア色の情景になるのでしょうか。
なつかしき里の風景、わが故郷の山の緑は絨毯のごとき感あり、また友の顔はあの頃のままの面影でニキビと学ラン姿の友。
ほとんどの自然はすべからくあの頃のままのたたずまい、変化しているのは私たちだけのような気がします。
 恒例の年末年始の帰省ラッシュ、難儀苦労してまでも故郷へ向かう人々の心根はいかばかりでしょうか「帰巣本能」という方もあるようですが、私には言いようのない自らの「ルーツ」である場所やその時の、ある過去のひと時に身を置くことによる「安心感」や自らの「存在感」を確認するためなのだと思えて仕方ありません。
 そこには父母がいるなつかしき友がいる、あのころと変わらぬ 山川草木がある。それらすべてが私たちを温かく迎えてくれる。
 心に栄養を与えてくれるのです。そんな「故郷」を心から愛したいと思い本年も周りのすべての出来事に感謝できる「自分づくり」に励むこととします。
 父母への感謝は、兄弟姉妹への感謝につながりそして母校愛 郷土愛、社会愛、祖国愛につながり世界愛につながるのです。
即ち「治国平天下」ということになります。
 本年もまたよろしくお願いいたします。
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2015年12月24日

2015年追憶そして・・・

今年もまた、光陰の如く時を刻んできました。多くの出来事を追憶するにあたってはその折々に際し様々な思考があり行動があり、その時々に際して喜怒哀楽があったことを思い出します。その一つ一つの想いにはすべて原因があり、徹底追及していくと必ずと言っていいほど自らの心の未熟さに突き当たってしまうのです。
 人が自分さえよければいいと思うことの間違いを教えてくれているのです。
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2015年12月05日

今日のことば

自らの潜在意識にふたをしてしまっていて、一向に運命が良くならないと嘆いていてもなんら問題解決にならないことを知っている。
心を明るく豊かに保つことを心掛けていけば自然と運命は拓けていくのであるから、心を暗くするようなことをせず、貪欲、怒り、惰眠、後悔、疑い を捨て朝早くから、夜遅くまで修業して。たとえば木と木をすり合わせて火をだそうとするときに、少しずつ熱が出て、まだ火にならないうちにやめてしまったら火が起きないと同じように途中でやめてしまっては何にもならないということを知っている。
この世もあの世も同じく原因と結果の法則が働いていて、特にこの世に於いては3.5.7の周期で結果が表れるのであるから少なくとも3年は努力せよということになるのだ、「石の上にも3年」とはこのことをいうのである。
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2015年12月04日

反省の仕方

体真の止・・・そもそも、この世の中のことは、「思う」ということによって、一切は現われ原因があって結果があり、すべて移り変わる現象であって、実在ではないということを知れば、いろいろな現象に心が振り回されて執着する必要はないし、心が執着しなければ妄念が起こることもなく、心は安らかになって反省することができる。これを「止」というものである。
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2015年11月30日

苦悩とは

楽しいはずの人生がなぜ苦しみとなるのであろうか、
その すべての原因は自分にある。
・・・とわが師はいう
 思ったこと、行ったことの結果が今の自分をつくっている
ならば苦しみの原因はどこから来ているのか
苦しみの原因を、とりのぞくことから始めなければならない・・
多くの人たち、私も含めてであるが「苦しみ」の挙句に、神に祈りたくなるもの
であるが、その祈りの心はどうして起きてくるのだろうかという考え始めるところから
苦悩からの解脱は始まるのだと・・・
 「苦しみ」を「苦しみ」とだけ考えて「どうぞこの苦しみを救ってください」と祈る
他力本願の心の中には、いつも苦しみが描かれ想念されているから、自分の心の中に
その苦しみを描き想念している間はその苦しみはなくならない。
 今の状態は過去に自分が描き想念した心の結果なのであるから、その現実の苦しみは
苦しみとして見ながらね心の中に忘れていた神を思い出して感謝し、本当の神の子の自分の
意識を取り戻さなければならないのだということに気づいて、その苦しみは本当の自分に
帰れという警告だったのであると感謝するようになると、その苦しみは自然になくなって
くるのである。
 なくなるばかりではなくて、現実を見ながらも心は感謝いっぱいなのであるから、その明るい
感謝のエネルギーが自分から発せられ波長共鳴の法則からその明るい心が現象化し幸福が来るのである。
こうなることを
昔から「禍転じて福となす」と言ってきたのである。
     園頭広周著 「祈願文の解説」より



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2015年11月27日

問題解決に関する思考ステップ

現状把握は大変重要である
正しく現状を知れば
方向を誤らず進むことができる

現状を正しく見るためには静かな心で客観的に感謝しながら
行うとよい。
毎日を、一生懸命生きているつもりでも時代の流れや
背景から、果たしてこれでいいのか、自分は間違っていないかなどと思う時が
ある、その時にはじっと座り瞑目し現状の把握に努めなければならないのです。
常に善意の第三者の自分をもって現状を見ることが大切なのである。
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2015年07月08日

反省

今、自己確立の時
自然の中に生かされている私たちは

自然の法則に逆らった分だけ、その反作用が起きるように仕組まれている
ということを、知らなければならない

数学的に綿密に仕組まれているこの法則を

「因果律」「作用反作用の法」釈尊は 「因縁」といわれ
イエスは「まいた種子が生える」といわれ

日本では「自業自得」という。

静かに考える時間を持ち反省してみよう。
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2015年07月07日

言葉

前向きの明るい言葉は、明るい現象と波長が合い、明るい現実を引き寄せる。
後ろ向きの暗い言葉は、暗い現象と波長が合い、暗い現実を引き寄せる。
だから、常に
明るい心と態度で明るい言葉を語らなければならないのです。
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2015年06月30日

ビジネスのおはなし

飲食店や商店経営に造詣深い評論家先生の本を読む。
どのような事業展開もその「経営原理原則」は変わらず次のような思考手順にて問題を詰めていくことが大切であるということで、私の仕事はその中でどの部分に事業ドメインがあるのかを考えさせられたのである。

まずは、どのような事業でも認知度向上による初回客の獲得が必要であるということは当然のことでありそのために・・・いかにして認知度向上するのか・・・・

認知度向上を目標としたときに、私の仕事がどんな位置づけであるのかを明らかにしていかなければならないだろうな・・・手段としての筆文字デザインコンテンツ・・・があり、イラストなどがあるわけである。
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2015年05月28日

自らの個性を磨く

自分を愛する人は、

先祖、両親、兄弟姉妹を大切にする

自分を愛する人は

友人、同僚、上司部下を大切にする

自分を愛する人は

故郷、日本、世界各国を大切にする・

このような心の動きを大切にしたいものである・
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2014年11月26日

貪欲

私たちの成長を阻むもの
心の中にあり、その心のあり方が運命を差配する
はばむことの根源を知りその心のあり方を修正することしか
幸福の道ならざるを知ろう
不平不満、貪欲、くよくよ、後悔、疑い、自分だけを中心に思う心
足ることを知らない欲
それぞれの想いあるかなしかを
今一度考えてみたいものです

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2014年11月24日

潜在意識

別々に存在していると思っている「自他」は、実は一体のものであってすべては自然の中に同じ生命体として存在しているのであります。
一見すると海と陸とは別々のようであっても、海底ではつながっているように別々の人間のように思っている私たちも、潜在意識の奥ではつながっているのであります。

森羅万象が、法則どうりに循環しているのと同じように、私たちの心も循環しています。森羅万象が、波長共鳴の法則の中にあるように、私たちも波長共鳴という法則から一歩もでられないということを知らなければならないのです。

良いことを想うということは良いことに波長を合わせるということであり、悪いことを想うということはその悪いことに波長を合わせるということになりそれぞれがそれぞれを寄せ付けてしまうのであります。

善因善果、悪因悪果が法則だということです。
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2014年08月11日

考え方の習慣

ある問題が目前に現われたとき、各人が思う事柄によって大きく運命が変わることを知らなければならないのです。
知らん顔して何ら関係ないようといってその事象を無視する人
この事象はなぜここに発生しているかをじっくり立ち止まって考慮する人
自分にとって大事なことだから
この問題の解決にあせる人
ともかく目前に起きている自分に関係している事象だから
なぜ、この事象が起きているのかその原因をじっくり探ろうと思っている人
様々な思い方があります
実は、私たちの目前に現われる問題はすべて自らの普段の思ったことや行ったことの結果として
事象となっていることを知らなければならないのです。
とすれば、自らのどの思いや行動がこの事象を生み出したのかを
感じ、そして確認し、修正すべき思いや行動を反省し
その修正したことを実践する
これが運命を修正できる唯一の方法であることを知らなければならないのです。
思いなくして行動なしなのだからまず思いを修正していきましょう。
posted by 筆文字や隆庵 at 19:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月25日

心で思うこと

心の大地によい種子を播くこと
現在意識は種子であり、潜在意識は大地である。大地である潜在意識は種子を選別しない
播かれる種がよい種子であろうと悪い種子であろうと、雑草の種子であろうと、またその種子が意識して播かれたものであろうと、無意識のうちに播かれたものであろうと、すべて芽をだし、育て上げそれを生活体験として顕現されるのである。
「まいた種子が生える」とイエスがいわれたこのことと同じことを釈尊は「因縁」即ち、原因があって結果があると説かれた。
よい原因をつくればよい結果がくる。悪い原因をつくれば悪い結果がくる。
  だから、幸福になろうと思ったらよい原因をつくりなさい。それが法であると説かれた。
種子を播く人が、瓜の種子を播けば瓜が生え、茄子の種子を播けば茄子が生えるように、慈愛、憎悪、健康、病気、平和、闘争などこれらの心を持てば潜在意識を通してこれらの心は実現されるのである。
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2014年07月03日

抑止力なるもの

今から2500年前、中インドの小国であるコーサラ国のカピラという城に誕生した「ゴーダマシッタルター」の父「シュットダナー王」は若きゴーダマに次のように述べます。
「お前はやがて子供ができるというのに毎日考え事ばかりしている。お前がカピラを出てしまえば私は一体どうなるのか。わしも年を取っている、民百姓のことも考え跡取りらしく振舞ってほしい」

父親の主張は一国を預かる者にとって当然のことであった。外敵から攻められ、戦いに負ければその国の種族は奴隷となりその累は、子子孫孫にまで及ぶ。戦いには勝たねばならない。平和を維持するためには戦いのスキを与えてはならないのだ。武力を常に保有し敵国をけん制してゆくことこそ一国の最高責任者としての務めである。

そのつとめを父の目からみたら怠っていると見えるのであろう。しかし、ゴーダマにはそれ以前の問題があった敵といい味方といい同じ人間同士ではないか。なぜ人間同士が戦わなくてはならないのか、また戦いに勝ったとしてもその勝利はいつまでも持続するとは思えない。戦いに勝てばいつの日か負ける時があろうる
勝負の中に人間が没入する限りは、人間としての真の安らぎ、心の平和を確立することは到底出来まい、何故なら勝負の世界には絶えず作用反作用の動因が絡み合っているからである。
勝者のおごりと敗者の憎しみ・・・この相関関係は時計の振り子のように右に左に揺れ動き勝者はやがて敗者につながっていくことは永い歴史を見れば瞭然のことではないか・・・国を守るための武力、勝つための政略それ自体すら、心の平和を失った苦しみではないのか。
・・・・・「人間釈迦」高橋信次著 より




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2014年06月20日

希望、願望、期待

物質的世界の近代知識はわれわれの精神的世界への希望と信仰を弱めた。
現代人は世界に破壊を持ち出すものに関しては発明し創造することができる。が
世界に平和ををもたらすものに関しては発明も創造もできないのである。
何故なら平和の君なる実在者、神・・・の地位は現代世俗の知識体系にはないからである。
しかもなお、神なる実在者は我々とともにあり、そして神を実際生活にいきる方法があるのである。
現代業界の騒音の中にあっても、われわれは心を静めることができるのである。
今日のジャングル地帯のような混迷の企業競争の荒野にあってもわれわれは心を静める瞑想するために
我々の時間の1/10を別にとっておくことができるのである。
心静かに瞑想する時間はちょうど希望する心が希望するものを招くように実在者・・・神を呼ぶのである。
posted by 筆文字や隆庵 at 13:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月14日

個人だって歴史を作っている

じいさんばあさんをただじいさんばあさんとだけと認識していてはいけないのです。
彼らや彼女ら、もちろん私もこの世に「おギャー」と生まれてからの時間を今日まで生きてきているのであって、乳児期 幼児期を経て少年少女であり青年期を迎え段々と年齢をかさね熟年となりそして老人となっていくのであって、それぞれが各人の生命活動の歴史を歩んでいくのです。
生まれてきたということはいずれ老いたくなくても老いるし病気をしたくないと思っても病気をするし死にたくないと思ってもいずれは死ぬわけであるのです。

お釈迦様は「生老病死」「四苦八苦」という言葉で表現されました。娑婆というものはこの四つの苦しみからは逃れられないのです。と説かれました。

多くの人たちはこの「生老病死」と説かれたということから一歩も先に進まず「人生は無常なり」と「苦しきことのみ多かりき」といった風に解釈しているのではないでしょうか、
しかし、さらにお釈迦様の説法は次のように続くのです。
「生老病死」いう事態を諦めなさい「四諦」つづいて「八正道」の説法があるのです。
「死」のあとに訪れる「あの世」という世界があり、この「あの世」こそが本来の私達の真実の世界だと説かれているのです。
 その「あの世」というところから私達は「この地上界」に両親の縁によって誕生するわけです。それぞれの人生の中で学ばなければならない課題をもっているのだということを知らなければならないのです。
 永遠の魂である私達は、波動のあらいこの地上で調和の大切さを学ばなければならないということをお釈迦さまが教えてくれていることを知らなければならないのです。
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2014年05月30日

信仰の力

信仰というものは、人を非難したり独善的判断で人の性格の欠点をつつき出したり、軽率に人を批判して悪口をいって喜んでいるようなことでは開発されないのである。

信仰は、人の善をあからさまに伝え、人の悪については沈黙を守り「罪を憎んでその人を愛すべし」という神の法則を守ることによって生長するのである。

「汝ら、人を裁くな、裁かれざらんためなり。
  己が審く審判にて己もさばかれ
 己が計る量にて己もはかられるべし」

              スターデリー著「奇跡を生ずる信仰」より抜粋
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2014年05月28日

教会の信者

現代の教会のまことにまじめな会員の多くは、自分は「神を信じている」と信じているのである。
しかし、自分の息子や娘の非行的な姿に直面するとき、彼らは恐怖、心配、不安の誘惑に屈してしまうのである。
 その時彼らは 恐怖、心配、悪を信仰している事になるのである。

「信仰うすきものよ!」とイエスはいう

多くの人々は真に神を信ずる者は人をもまた信ずるという教えを体験によって学まなければならないのである。
「恐怖、不安、心配」というものに自らの心の波長を同期させてしまうとそれは現実を作るのである。
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2014年05月26日

宗教とはなにか

本物の宗教が必要な時代になってきているようなそんな気がしています。
そもそも生きていることに悩みがあって、自分の力だけではどうも乗り切れないなあと思う時にふとどこかの何かにすがりたい
そんな気持ちが起こってくる
その時にすがりたい何かが「宗教」であり、その「宗教」という名の魔物にとりつかれる人々がふえてきているようなそんな気がしています。

宗教とはいったい何かを考えていきたいと思います。
まず、身の回りにあるこまごまとした「宗教」らしきものについて論じたいと思いそれぞれの宗教的儀式に関して考察してみます。
その一 仏教について
最近あるお葬式に参列した折、「導師」というお坊さんがなにやらの「経」をよみ死者に引導を渡すのだという儀式をとりおこなっていたのです
疑問・・・お経の意味がまったくわからない。なにやら「もぐもぐ」と唱えている言葉の意味が不明。
坊さん言う・・・これはありがたい言葉・・・しかし誰がその意味を理解するのでしょうか
坊さん言う・・・儀式が死者を天国にお送りするのだよ
疑問・・・ならば天国というというところはどこにあるのですか
坊さん言う・・・西方浄土にあるといわれているが・・私は行ったことがありません

    ということは、自分が行ったことのないところへ死者を送るということですね
    ということは、旅行代理店の担当者か行ったこともない地に旅行者を送るということですね
坊さん言う・・・一応しきたりとしてそうなっているもんですから・・・
    ということは、仕事としておかしいのではないでしょうか?

    ということは、人間死んだらどうなるのかがわかってなくて
    ただ「しきたり」だからということなんですかね
    お坊さんの仕事って何なのでしょうか、
あの世があるから死者をそこに送る・・・そのための助けをする。
あの世がないのであれば死者をそこに送る仕事って空しいものですよね
仮にあの世を信じていたとして、死者に伝える文言が、あの「お経」ならば、おそらく死者に伝わらないと思うのですがいかがでしょうか。
    
posted by 筆文字や隆庵 at 23:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする